第13話
キスをした……って言えるだろうか。
相手の同意もなく、俺の勝手が成した行為。押し倒したつもりはないが、少なくともルカを泣かせたのは、俺だ。
涙をこぼしながら消えたルカは、悲しいとかじゃなく、酷く怒っていた。未だに痛む頬が、それを物語っていて、俺は後悔の念にどっぷりとりつかれていた。
「――んだよ。だから……って、おーい。白上? 聞いてる? 俺の話」
「あ? ああ、わりぃ」
「どうした? 大丈夫か? 調子悪いなら保健室行ってみれば?」
「いや……そういうんじゃねぇから……」
心配そうに顔を覗くようにする棚橋は、俺の前の席に、後ろ向きで座っていた。
「ムリすんなよ? んで、さっきの話だけど、どう?」
「話? ……ってなんだっけ?」
まったく聞いていなかった。
「だから、体育祭での応援団長の話だよ。俺が今んとこ団長だけど、やる気があるなら団長2人体制、ってのでどうかって話」
「ああ、団長ね……」
棚橋は、俺を応援団長に仕立て上げようと熱心だった。応援や最後のフォークダンス以外に参加種目のない俺を、どうにかして団長へ引っ張りあげたい腹積もりらしいが、俺にその気はない。
何度も断っているが、爽やかさとは裏腹に、意外と執念深い性質らしい。
「練習は、せめて1回は参加してもらわないと困るけど、お前なら1回で十分だよな。後は、俺が適当に打ち合わせしとくし」
「いや、だからさ。団長は勘弁してくれよ。そういうの、性に合わないんだよ」
似たような台詞を何度も言ってる気がするのは、気のせいじゃない。それに、今の俺はそんな気分じゃない。
「スカッとするよ、大声で叫べばさ。結構、楽しいんだけどなぁ。ま、気が変わったら声かけてくれよな。絶対だぞ!」
力強く何度もを念押しすると、棚橋は自分の席に戻った。
何度言われても、答えは否だ。
もう直ぐ昼休みが終わる。放課後になれば、また帰宅部のように颯爽と帰路に着く。
「……リハビリ、あったな」
そういえば、と思いついて呟いた。
事故にあってから、2ヶ月が経とうとしていた。
「ん~……そろそろ、走ってもいいかなぁ」
「えっ?」
すました顔で足のレントゲン写真を見ていた先生が言った。
「そうだなぁ……どうするかぁ」
曖昧な言い方にイラッとする。
「まだ、ダメですか?」
走りたい。テニスがしたい。だから、YESといってくれ。
「……うん、いいだろう」
「本当ですか!?」
思わず身を乗り出した。傍にいた看護師さんが、くすくす笑いだした。
「ただし、リハビリにはもう暫く通うこと。当然だけど無理はしない事。それから、少しでも違和感を感じたら、すぐに診察に来なさい」
「はい!」
リハビリでも何でも通うくらい大したことはない。やっと、思う存分走れるぜ。
良し、と言って診断書をファイルに閉じると、おつかいをこなした子供を見るような目で、先生は俺に笑いかけた。
「智明くん、じゃあ、こっちへ」
廊下から手招きしていた秋山先生に従って、俺はリハビリルームへと移動した。なんだか、急に足が軽くなったようだ。
最初は、必ず電気治療からだ。
「良かったね、智明くん。走れるようになって。すごい頑張ってたもんな」
流す電気の量を調節しながら、秋山先生は自分の事のように喜ぶ。年上とは思えない程くったくのない笑顔を向けられたが、上手い言葉は出てこないので、とりあえず頷いた。
「だけど、本当に早かったよ。事故の時のレントゲンも見せてもらったけど、完治は不可能だって思ったからね」
そんなに、俺の状態は悪かったのか。確かに、意識が回復したのだって奇跡だって言われてたなぁ。
どんな事故だったんだろう? 当時の事を思い出そうとすると、俺の記憶は曖昧だった。
母さんと妹の美郷と俺。有休の取れなかった親父を残して、家族でバスツアーに参加した。乗り物酔いの激しい美郷のために、運転席に近い座席を陣取って、俺は……寝ていたな。
母さんの強引な進行で参加させられたから、ずっと窓際の席で寝ていたんだ。だから、覚えてないんだ。
俺の記憶にあるのは……
ものすごい衝撃音と振動、それに俺を起す母さんの声。
それから――
『危ないっ! 母さんっ!』
誰かの叫び声。
女?
目の前には、誰かを庇おうとする女の姿。
白いTシャツに、古着みたいなジーンズ。
次の瞬間、短い真っ黒な髪が一瞬にして近づいたかと思うと、俺の手が、女と女が庇っていた人を突き飛ばした。
ルカ?
「え? 何? 智明くん」
気付けば、キョトンとした顔の秋山先生が覗き込んでいた。
「あ、いえ、何でも……ないです」
「そう?」
先生は、電気コードを片付けていた。
俺は、手の平で顔を覆って俯いた。
なんだよ、今の? 事故の記憶?
誰かを必死に庇おうとしていた女の姿は、ルカに似ていた。
まさか、そんな事あるわけねぇ。
それに記憶は曖昧だし、あいつは天使のはずだろ?
再び記憶を掘り起こそうとしても、映像は、どんどん薄くぼやけていくばかりだった。
分からない。どういう事だ?
その日、リハビリを終えた俺は、事故にあったバス旅行の参加者名簿がないか、駄目もとで母さんに尋ねてみた。
あるわよ、と不思議そうな母さんに渡された紙切れには、ルカと読める名前が1人だけ記載されていた。
月見里瑠夏――ヤマナシルカ。
俺の知ってるルカと同一人物だろうか?
名前をなぞりながら思い出したルカは、透明な宝石をこぼしながら俺の前に仁王立ちしている姿だった。