第12話
ルカが、三浦さんの彼女……いや、「もういない」と言っていたから、元彼女か。もしかしたら、兄妹とか従妹とかかもしれない。大学時代の後輩って線もありえるか。
っていうか、やっぱり人間だったのか?
あまり意味のない一人問答を、俺は朝からずっと続けていた。
つい最近まで俺の部屋に入り浸っていた自称天使のルカは、三浦さんと同じ指輪をいつでも身に付けていた、妙に明るい女だった。
ラケットを振るのに邪魔だから外せと言った時も、指輪だけは断固として外さなかった。
それほど、大事な物だったということなんだろう。
俺は、帰宅途中にあるコンビニにふらりと立ち寄った。何故か、異様に喉が渇いていた。
よく冷えたスポーツドリンクを手に、店を出る。冷たい感触が喉を通ると、少し冷静になれた気がした。
そして、再び思案する。
三浦さんがアメリカに行くのに、ルカは一緒に行きたがるだろうか。今でも好きなら当然ついていくだろう。人間だったらの話だが。
あれから、ルカには会っていない。もう、俺に会う必要がなくなったからか。それとも、三浦さんと寄りを戻したから……。結局、ルカが何の為に俺に会いに来たのかも、分からないままだった。
今更、どうでもいいことかもしれねぇけど。
うだうだ考えていたせいか、俺が家に着いた時には夕日は沈みかけていた。家では既に母さんが夕食の準備をしていて、リビングで妹がテレビにかじり付いていた。
「智くん、おかえりなさい。夕食が出来たら下りてきてね」
俺がそのまま2階へ上がろうとすると、キッチンから母さんが声をかけてきた。適当に返事をして部屋へ入る。
「あ! おかえりなさーい、智明」
「……なっ!?」
ルカ!!!
視線の先にいる、自称天使を見たまま俺は固まった。
満面の笑みだった。相変わらず、俺のベッドの上で胡坐をかき、クッションを抱えている。ジャージ姿だった服装は、最初に出会った頃のロックテイストなジーンズ姿に戻っていた。
背中には、殆んど黒くなった翼が生えていた。
俺は、無意識にルカの指先を見る。クッションに隠れていて、指輪をしていることは確認できない。
「……お前、こんなところで何して……」
息が詰まる。
「やっほ。元気してた? えっと、ちょっと野暮用で?」
ルカは軽い口調で話しながら、片手を軽く挙げた。
お前は、三浦さんの彼女なのか――
聞けるはずもない。
ほんの数秒だけ、俺とルカは黙ったまま見つめ合っていた。
先に口を開いたのは、ルカだった。
「智明さぁ、テニス好きだよね? 今の生活楽しい?」
ルカの顔は真剣だった。
「なんだよ、それ」
突然、そんな事聞かれても。意味分からねぇよ。
「あはは、すっごい困った顔してる。智明」
「なっ……からかってんじゃねぇよ」
俺は、やっと体の緊張が解けて、鞄を机の上に置いた。
「ごめん、ごめん。智明の幸せって何かなぁって。テニスかな? やっぱり」
テニスは好きだけど、幸せと直接繋がってるとは思わない。
「そういうお前は、どうなんだよ?」
やっぱり、三浦さんといたんだろうか。
「あたし? あたしは…………」
暫く俯いてからルカは言った。
「大切な人達が笑ってくれれば、それで幸せかなぁ? えへへ、らしくないよね?」
恥ずかしさを誤魔化すように笑う。
窓から差し込む朱色の夕日が、ルカの顔に影を落としてもの悲しげにみえた。
すると、突然、水晶のような小さな粒が瞳から溢れ出てきた。
「あれ? やだ、なんだよ、これ……えへへ、何だろ。や、やだなぁ、違うよ、ちがっ……」
涙を拭いながら、必死に笑顔を保とうとするルカの姿は、とても綺麗で切なかった。
ドクンっ!
心臓が大きく跳ねる。
急に、いとおしくてたまらなくなった。
触れてみたくなった。
俺は、ルカに近づいた。
一歩足を踏み出す事に、何かが俺の心臓を強打する。宙に浮いたような感覚と、胸をぎゅっと潰されたような息苦しさ。
「大丈夫、大丈夫だよ。ごめん、びっくりするよね。何だろね、ホント……智明?」
涙を拭う手には、指輪が嵌められていなかった。
俺は、ルカの顔を見下ろす。その瞳はいまにも溢れ出しそうな宝石でいっぱいだった。
「えっと、ちょっ……」
頬に手を伸ばす。ルカが身を引いた。
けど、俺の体は止まらなかった。
心臓の音しか聞こえない。
ルカの瞳だけしか、見えていなかった。
俺はルカの唇へと、自分のそれを重ねた。
ほんの一瞬、柔らかな感触を感じた。
けど、それは本当に僅かな時間だった。
「……っっにしてんだっ、てめぇ!!!」
怒号と共に、俺は床に吹き飛ばされる。
気付いた時には、顔を真っ赤にして仁王立ちするルカの姿があった。
俺……ルカに……
しだいに、自分のした事の重大さが脳内に染み渡る。しくしくと込み上げる焦りは、未だかつて無いほどの危機感と罪悪感を俺に与えていた。
「わ、わりぃ……」
俺の言葉を聞いたルカの頬を、再び雫が伝って落ちた。
唇を噛み締めたルカは、そのまま姿を消してしまった。
取り残された俺は、現実に引き戻される。
左の頬がづきづきと痛み始めた。
そこで、やっと俺は殴られたことに気が付いた。
しかし、その痛みよりもルカを傷つけてしまった事の方が重かった。
もう二度と、会うことはできないかもしれない。
ルカは、俺の前には現れないかもしれない。
何であんなことしたんだ。なんで、急に――
「……くっそ……」
俺は頭を抱え込んだ。