第9話
退院してから1ヵ月半が経っていた。
外は秋風が吹いて、近くの公園の木が疎らに紅葉し始めた。テニスをするには、風さえ吹かなければちょうどいい季節だ。
「お前、応援団長するんだって?」
なっ!? 何言ってんだ?
「あはは、そんな驚いた顔するなよ。棚橋に聞いたんだ。あいつ、お前のこと心配してたよ」
ネットの高さを調節しながら、影沼が笑った。
あいつっ! やるなんて言ってねぇのにっ。これだからお節介はっ。
「断ったに決まってんだろ。やらねぇよ、そんな面どくせぇもん」
カゴに詰め込まれたテニスボールを選別しながら、俺は吐き捨てた。
使い込まれたテニスボールは、表面が毛羽立ち、中のガスも抜けて弾力性が弱くなる。そうなったら、練習用にはなっても試合用には使えない。俺は、使えそうなボールだけを選り分けていた。
「そうかぁ? まあ、大声出すとか、手のフリとかちょっとハズイけどな。でも、お前のキャラ的に面白いと思うけど? 隠れファンが増えるかもよ?」
「増えるかっっっ!」
「あはははは」
ってか、そんなもんいらねーし。それこそ面どくせぇ。
影沼は笑いながら、隣のコートへ移った。
「どいつも、こいつも……お節介なんだよ……」
棚橋も影沼も、俺の心配をしてくれる俺には出来すぎた友達だ。そして、ルカも……。
お節介な女……天使?
悪魔かもしれない……ほんの少し黒い羽の天使。
ずっとルカの姿を見ていない。こんなことは以前にもあったが、今回のはちょっと違うかもしれないと思っている。
ルカはもう、二度と俺の前に現れない気がしていた。
なぜなら、俺がルカの事を悪魔かもしれない、と疑いを持ち始めたからだ。だから、ルカは現れない。
「おーい。そこのコート終わったら、向こう側もネット上げてくれ。智明ぃ~、ボールの選別できたかぁ?」
コートのをぐるりと囲んだ柵の向こう側から、テニスウェアにブルゾンを羽織った三浦さんが叫んでいた。今日の三浦さんは、テニスの試合の運営者。といっても、公式じゃあなくて仲間内で主催する交流試合だ。
影沼が三浦さんに手伝いを頼まれて、それに俺は巻き込まれただけだった。
「……半分くらい終わりました」
コートに入ってきた三浦さんを見上げて言う。
「そっか、サンキュ。じゃあ、こっちはもらってくから、今やってる分はココに置いといてくれ」
運営スタッフとして忙しいらしい三浦さんは、早口で話すとカゴを引っ掴んで駆け出した。
サーファーでショップも経営してて、その上テニスも出来る活動的なアスリート。いるんだよなぁ、何でも出来る人ってさ。
「智明、終わった? なんだ、まだやってんのかよ。手伝うからさっさと終わらせようぜ」
ネットの調節を終えて戻ってきていた影沼は、俺の数倍の速さでボールを選別し始めた。
「あ、おい。それ、ちょっと古くね? ちゃんと見てからカゴに入れろよ」
「大丈夫だよ。ダメなら途中で変えるよ、きっと」
「おまえなぁ……」
テニスの事となると熱血なくせに、時々妙に大雑把だったりする。
まあ、そのおかげであっという間に作業は終わった。空になったカゴだけを持って、俺たちは三浦さんがいるはずの運営本部へと向かった。
仲間内で軽いテニスの交流試合、と言っていた割にはコートを8面も借りていて、三浦さんという人の行動力と人脈には驚かされる。普段はスポーツショップのただのオヤジなのに。
「――なぁ、どうするかぁ? お? 終わったのか? 少年達」
紙を握り締めた三浦さんの周りには、三浦さんと同じ年代らしい人たちが5人集まっていた。仲間に囲まれている三浦さんを見ると、なんだか急に好青年に見えてくるから不思議だ。
「次は何を手伝えばいいっスか?」
「そうだなぁ……?」
考え込んでいる三浦さんの横で、影沼をじろじろ見ていた男の人が口を開いた。
「ってか君さぁ、テニス出来るんだよね?」
「え? あ、はい」
「じゃあ、俺とペアを組もう。うん、そうしよう」
「えぇ! 俺?! ……ですか?」
ダブルス? 影沼が? しかも相手は5歳以上年上のベテランだぞ。合わせられるのかよ?
戸惑いながら返事をする影沼に、三浦さんたちは強引に話を進めた。
「あ、いいね。じゃあ、隆司と弘幸でダブルスね。弘幸、すぐ準備できる? 開始まで隆司とアップしてこいよ。隆司はフォーメーション好きだからさ、教わって来い」
「え? え? あ、あぁ……はい」
影沼は慌てて自分のバッグを探し始めた。ラケット、持って来てたのか……。
「郁巳、こっちの子もテニス出来るだろ?」
「ん? ああ、智明は療養中でムリはさせられねぇから、ダメ。 あ、おーい? 隆司ー、そいつパワーヒッターだからヨロシクー!」
「オッケー!」
黄色いフレームのラケットを高々と上げて、隆司と呼ばれた人が影沼を連れてコートへと向かっていく。
あいつ、ついていけんのか? 確実に俺たちより技術も経験も上だと思われる青年集団だぞ。勉強する前に、ぼろぼろになりそうだ。
影沼の方が背がでかいのに、雰囲気に飲まれてオロオロする縮こまったあいつの姿が想像できた。
「さて、智明には予定通り審判を頼むよ。試合開始は10時だから、それまでは休んでてくれていいぞ?」
「あ、はい」
俺は本部に設置されたパイプ椅子に適当に座った。動いていれば涼しい風も、テントの日陰でジッとしていると寒いだけだった。俺以外は全員試合に参加するらしく、試合の時間や審判の段取りを何度も確認しているようだった。ざわつく声が、まるで壁一枚を隔てたみたいに遠く聞こえる。それが、今の俺とテニスの距離なのか。
「はい、お茶どうぞ? 温まるわよ? 君、智明くんでしょ?」
声をかけてきたのは、運営席にずっと座って作業していた髪の長い女の人だった。目の前に出された湯気の立つ紙コップを手にすると、ジーンと熱が伝わってきて何故かホッとした。
「元気ないわねぇ。郁巳が心配するのも分かる気がするわぁ。ねぇ? 知ってる? 笑顔は最強にして最高のラッキーチャームって言葉?」
「えっ?」
ラッキーチャーム……どっかで聞いた事のあるフレーズだった。
「あれ? 郁巳から聞かされなかった? 彼の口癖なのよ。笑顔は、自分と周りに幸せを運んでくれる幸運の御守なんだって。うふふ、前向きでしょ?」
その時俺は、最悪に嫌な予感がしていた。
だけど、それがなんなのかは自分でも良く分からなかった。