CASE.3 爆弾魔 前編
花火をあげよう。
轟音と破壊の芸術が闇夜を焦がす。
燃えてしまえばいい。
この世のすべてが。
1
桑島は、激しい頭痛で眼を覚ました。
なにかおかしい。身体に異変がおこっている……。
いや、身体というよりも、すべてのことがおかしいのだ。そもそも、ここはどこなのだ?
薄暗い空間だ。
いや、だんだんと明るくなってきた。
「……」
ちがう。眼の機能が、通常にもどっただけなのだ。
桑島は、どこかの部屋に座っていた。無機質で、なにもない室内だ。まるで地下室か、廃工場のような印象がある。人が生活しているような場所ではない。
ここがどこで、どうしてここにいるのか。
考えはじめると、心臓の鼓動がはやくなっていく。
そうだ。背後から衝撃をうけたのだ。警視庁から帰宅する途中だった。
何者かに襲われた……。
イスに座っているが、拘束されているわけではない。
桑島は、立ち上がろうとした。
ふらついた。
『まだ動かないほうがいいですよ』
声が聞こえた。肉声ではなく、機械を通した音声だ。
「だれですか?」
部屋のなかには、桑島一人しかない。
『カムロと呼んでください』
名前としては一般的なものではない。
「カムロさん……ここは、どこですか?」
『それは、地名という意味ですか? それともなにをするための部屋か、という意味ですか?』
「どちらでもいいです」
スピーカーのようなものは見当たらない。だが部屋の角の天井付近から声が響いてくるようだ。会話が成立しているということは、ちゃんとこちらの声も、むこうに届いていることになる。
『ここは、あなたを裁くための部屋です』
後者の答えが返ってきた。
「裁く? ぼくは、あなたになにかしましたか?」
『いいえ。会ったこともありません』
「どうしてこんなことを……犯罪なのはわかっていますよね?」
『私は、道徳の授業をうけるつもりはないんですよ』
一般的な善悪の問題を論じるつもりはないという意思表示だ。
「わかりました……それで、ぼくをここに閉じ込めて、なにをするつもりですか? 裁くということは、殺すという意味ですか?」
『殺すつもりなら、すでにあなたは天国にいる』
地獄でなかったということは、本当に逆恨みではないのかもしれない。
「では、なにをさせるつもりですか?」
ただ監禁するだけなら、こうして会話をする必要はない。なにかをさせたいから、こうして話しているはずだ。
『あなたには、ここで事件を解決してもらいたい』
「ここで?」
『そうです。あなたなら、できるでしょう? あの生贄事件を解決させた桑島誠一警視なら』
桑島の素性や経歴もよく承知しているようだ。
「どんな事件を捜査するんですか?」
『まずは、三年前の未解決事件です』
声は、概要を語った。
新宿駅でおこった傷害事件だ。終電間際に構内で男性が頭部を殴られ重傷を負った。
「それを調べればいいのですか?」
『そうです。あなたなら、簡単なはずだ』
その言葉には、痛烈な皮肉が込められているような気がした。
「ですが捜査するためには、ここから出なくではならない」
『いえ、それは認められない。私は、ここで事件を解決してもらいたい、と言いましたよ』
「どうやって解決しろというんですか?」
物理的に不可能だ。
『スーツのポケットを確認してください』
右のポケットに、携帯電話が入っていた。しかし、見慣れないものだ。自分のものではなかった。
『それを使って、事件を解決してください』
「だれにかけてもいいんですか?」
『ルールは、あります』
一、警察関係者にはかけない。ただし、間接的にはOKとする。
二、直接、だれかをこの場所に呼び寄せることは禁止。この場所がどこなのかを探らせるのもなし。
三、そのイスから立ち上がらない。
『私が最初に、動かないほうがいいですよ、と言った意味は、あなたの具合を心配してのものではありません』
「……なにか仕掛けてるんですね?」
『さすがです。それほど威力は大きくありませんが、あなたを吹き飛ばすだけの破壊力はありますから』
爆弾。
『ほかに質問はありますか?』
「間接的にOKというのは?」
『そのままです。警察関係者でない人物にかけて、その人物が警察関係者に連絡をとることは可能とします』
「ぼくが監禁されていることを言うのは?」
『その人物にならかまいません。ですが、その人物が警察関係者に伝えることは遠慮願いたい。ですが、まあ、それをこちらが監視することはできませんがね』
声の主は、正直だった。そのことを利用すれば、警察にいまの状況を詳しく伝えることができる。
『では、はじめてください』
「時間に制限はあるんですか?」
『ありません。ですが、いつまでもそこにいるわけにはいかないでしょう?』
食事や飲み物の提供があるのかもわからない。が、飲まず食わずでも、三日はなんとかなるだろう。すくなくとも、時間が来たら爆発するようなことではないようだ。
すでに桑島の脳内は、この状況に対応していた。
「あなたへの質問は、いつでもしていいんですか?」
『わからないことがあれば、いつでも認めます』
「では、確認させてください。あなたは警察関係者へかけてはいけないと言いましたが、それは警察官という意味ですか?」
『言い方が悪かったですね。警察官、警察職員、警察官僚もふくまれます』
つまり、事務職もふくまれてしまう。牧村への連絡は、ルール違反のようだ。官僚もダメだから、警察庁の人間も除外される。警察庁にも官僚ではない一般職員もいるが、それは警察職員でひとくくりにされているということだろう。
それらに引っかからない人物……。
信用ができて、頭も良く、機転もきく──。
そんな人物は、一人しかいなかった。
本来なら、こんなことに巻き込みたくはない。が、そうも言っていられない状況だ。
さらに、その人物でなければならない理由がある。渡された携帯は自分のものではないから、当然のことながら、だれの番号も登録されていない。かけるなら、番号を暗記している相手にかぎられる。
吉原ひより。
彼女の番号は、携帯、実家、寮、すべて覚えている。いや、彼女に関する資料すべてを記憶しているのだ。
「もしもし? 吉原さん?」
* * *
「桑島さん、どうしたんですか?」
時刻は、午前十時半。最初の講義が終わり、次の教室へ向かっているときに着信があったのだ。知らない番号だったが、出てみたら、よく知っている声だった。
『いまから言うことを真剣に聞いてほしい』
「え?」
桑島の話が、ひよりに恐怖と緊張を植えつけた。
どこかに監禁されてしまったという。しかも、電話だけで事件を解決しろと指示されている……。
桑島以外が口にしたことなら、冗談だとしか思えない──そんなありえない内容だ。
「わたしは、なにをすればいいですか?」
『佐野に連絡をとってほしい』
「佐野さんに?」
桑島の同期で、捜査一課の管理官をやっている男性だ。ひよりも一度だけだが会ったことがある。
「いいんですか?」
『ああ、警察関係者以外にしか連絡はとれないけど、その人が──この場合、吉原さんがするぶんにはいいそうなんだ』
なんだかよくわからないが、そこの部分はゆるい制限のようだ。
「わかりました。佐野さんに事件を解決してもらうんですね?」
『そういうことになるのかな……』
桑島の声が弱くなった。
ちがうのだ。あくまでも事件を解決するのは、桑島自身なのだ。
「どんな事件ですか?」
三年前、新宿駅、傷害事件。
それらのワードを頭に叩き込んだ。どうやら、桑島にもよくわかっていないらしい。あたりまえか。彼は生贄事件のための捜査官なのだ。ほかの事件については──すくなくとも三年前の事件を知るはずがない。
「なに? 深刻な顔しちゃって」
夏美に言われた。
「ごめん、わたし用事ができた」
「え? 講義どうするの?」
「休む」
「ちょ、ちょっと……」
ひよりは、人けのない場所を求めた。廊下の隅で、佐野にかけようとした。番号を知らない。桑島に確かめようとした。
「……」
こちらからかけていいものか判断に迷った。これを仕掛けている犯人の思惑がわからないので、ヘタなことをするべきではないだろう。
佐野個人への番号はわからなくても、警視庁への連絡先ならわかっている。捜査一課の佐野さんをお願いします、と伝えた。
『どのようなご用件でしょうか?』
「わたしは吉原ひよりといいます。桑島さんのことで話があると伝えてください」
『吉原様ですね? お待ちください』
しばらくして、電話に佐野が出た。
『どうしたの?』
親し気な話し方だった。
「あの、調べてもらいたい事件があるんですけど……」
『え? おれに?』
「はい」
『どんな時間かな?』
「くわしくは、わからないんですけど──」
三年前、新宿駅、傷害事件。
『その事件を調べればいいの?』
「はい、お願いできますか?」
『どうして、おれなの?』
「桑島さんが……」
『え?』
「ハッキリとは言えませんけど、桑島さんからのお願いです」
『誠一は?』
「それが……事情は、いまのところ話せません」
『わかった。とにかく、その事件のことを調べておくよ』
「ありがとうございます。あの……」
『ん?』
ひよりは、意を決した。
「わたしが、そちらに行ってもいいですか?」
『警視庁に?』
「はい。そのほうが、いろいろ手っ取り早いと思うんですけど」
『……わかった。歓迎するよ』
2
「質問いいですか?」
『どうぞ』
ひよりへの電話から一時間以上が経過していた。
「連絡は、こちらからのみですか?」
『それは、むこうのほうからかけてきてもいいのか、ということですか?』
「はい」
『警察関係者でなければ問題ありません』
桑島は、ひよりにかけた。彼女のことだから、そこを考慮して自分からはかけてこない可能性がある。
『桑島さん!?』
「どうだった?」
『被害者の名前は、坂口信夫という男性で、年齢は当時二三歳だそうです。新宿駅の構内で後ろから殴られています』
「職業は?」
『無職みたいです』
「容疑者はあがったのかな?」
『いまから聞いてみます。あの……この会話は、犯人に聞かれてるんですか?』
「吉原さんの声は聞こえていないはずだよ」
だが、桑島の声は聞こえている。
『じゃあ、演技してください』
ひよりの言う意味が、よくわからなかった。
『通話は遠慮してください』
ひよりではない女性の声が、携帯から聞こえていた。
「吉原さん?」
『彼女はいいんだ。すぐに通して』
佐野の声?
理解した。ひよりは、警視庁にいるのだ。いま入庁のゲートを通ったところなのだ。
その後、ごにょごにょと話し声はするのだが、電話では聞き取れない。
『桑島さん? なかに入りました。佐野さんによれば、容疑者はあがってないそうです。っていうか……』
ひよりは、言いよどんでいる。
「どうしたの?」
『どうも、捜査がされてないみたいです』
「どういうこと?」
ひよりが、佐野に伝言している。むこうの状況はよくわからないが、廊下を歩きながらやりとりしているようだ。
『傷害だからじゃないかって。被害者の怪我は、たいしたことなかったそうです。あ、いま部屋のなかに入りました。桑島さんは、いつもここにいるんですね……』
狭いでしょ、という言葉をのみこんだ。ヘタなことを口にして、ひよりが警視庁にいることがバレてしまったら──。
そこで、カムロの声が割って入った。
『どうやら、ルールの説明が不十分だったようですね』
ドキリとした。
『警察関係者でない人が電話をするのなら、その人物がどこにいようとルール違反にはなりません』
ということは……。
「吉原さん、きみが警察にいても問題ないらしい」
『聞こえてました』
このルールは、やはり奇妙だ。
『でもそれがОKなら、直接かけてもいいんじゃないですかね?』
ひよりも、そう思っている。
『警察は信用できない。だから、警察関係者以外の人間をあいだに挟みたかったんですよ』
桑島は、ハッとさせられた。ひよりも同じ気持ちになったはずだ。
『わたしの声が聞こえているんですか?』
カムロは答えずに、かすかな笑い声をたてた。
この携帯は彼が用意したものだから、そういう細工をしていても不思議ではない。
『もうだいたいのルールは把握されたと思いますので、捜査をお願いします。時間は、それほど残されていないはずですよ』
『桑島さん……なにかされてるんですか?』
『そういえば、爆弾のことは伝えていませんでしたね』
この通話が盗聴されているのなら、これまでの会話はすべて聞かれていることになる。
『爆弾!?』
ひよりの声が鼓膜を痛めつけた。
「座っているイスに仕掛けられてる……立ち上がったら爆発するらしい。でも、座ってるぶんには大丈夫みたいだ」
心配をかけるようなことは言いたくないが、桑島が語らなければ、カムロが伝えてしまうかもしれない。ここは正直に教えておいたほうがいい。
『ずっと座ってるわけにはいかないですよね?』
「いまのところは問題ないよ」
そう伝えたからといって、安心はしてくれないだろう。
『私は、きみのことが気に入ってしまいました。本当はルール違反なのですが、きみが電話の相手なら、そこにいる刑事さんに詳しい事情を話しても結構ですよ』
カムロは、ひよりに向けて言った。
『いいんですね、本当に?』
『ただし、捜査に加わるのは、桑島誠一警視の知っている小人数だけにしてもらうよ。それと、こちらの場所をさがそうとするのなら、そのときはわかるよね?』
『……桑島さんになにかしたら、あなたを許しません』
『頼もしいお嬢さんだ』
* * *
ひよりは、佐野に状況を説明した。
室内は狭い。扉には『特別特殊捜査室』と書かれたプレートがつけられていた。机は一つしかないから、桑島一人のためだけの部屋らしい。本当に部下はいないのだ。以前に会った女性刑事・結城は、べつの部署になるのだろう。
「なんだ、そりゃ……」
佐野が、呆然と言葉をもらした。
「なんかおかしいと思ってたが……」
「ですから、協力してください」
「協力もなにも、誠一を救うのは、おれたちの役目だ。きみを危険なことに巻き込んでしまって、申し訳ない」
「そういうのには、なれています」
佐野は、一瞬だけ苦い思いにふけるような表情を浮かべた。
「本当に、すまない……」
「いまは、桑島さんが無事に帰ってくるように全力をつくしましょう」
まずは、状況を整理することにした。
「新宿駅の事件を解決させればいいんだよね?」
「そうみたいです。本当に捜査はされていないんですか?」
「まあ、おれも詳しいことはわからないんだけどね」
その理由は、なんとなくわかった。捜査一課の管理官が、軽微な傷害事件の捜査を担当することはないのだろう。そういうのは、所轄警察署が捜査にあたっているはずだ。
「ねえ、こっちの捜査に何人つかってもいいんだよね?」
「少人数とは言っていましたけど、大丈夫だと思います。桑島さんが知っている人たちなら」
佐野が携帯で連絡をいれた。数分後、女性が入室してきた。知っている女性だ。
「あ、結城さん」
「あら」
「そうだったね、発掘現場の事件で、二人は顔見知りだったね」
「桑島警視は、どうしたんですか?」
「それがね──」
佐野が説明していく。
「……なんですか、それ?」
悪い冗談とでも思ったのか、結城は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「本当なんです」
ひよりは訴えかけた。
「……わかっています。警視は、そういうのを引き当てるんですよ。管理官からも注意してください」
信じなかったわけではなく、事件を呼び込む桑島にあきれているようだ。吸血鬼事件では、犯人に襲われた桑島を、彼女が守ったということを耳にしている。
「注意っていわれてもな……」
「また、自分から危険なものに近づいていったんですよ、きっと」
ひよりは、言葉を挟むことを遠慮した。
「それで、どうすればいいんですか? その傷害事件を調べるんですよね?」
「被害者について調べてもらいたい」
「本人から話を聞きますか?」
「必要ならそうしてくれ」
「わかりました」
「待って」
一人で出ていこうとした結城を、佐野が呼び止めた。
「急がなければならないんですよね?」
結城は早く出ていきたいようだ。
「一人での捜査活動は認められない。だれかをつける」
「でも、桑島警視も知っている人員じゃなきゃならないんですよね?」
犯人の言いつけを守るのなら、だが。
「知らないやつでも、知ってるってことにすればいい」
「ですが、それで犯人を刺激すれば──」
ひよりも、結城の意見に賛成だった。
「ではこうしよう。牧村さんをつける」
「ですが、彼女は警察官ではありません」
牧村という女性のことは知らない。警察官ではないということは、事務職なのだろうか。そういうのは、たしか警察職員と呼ばれているはずだ。
「あ、あの……その方が警察官でないのなら、わたしがいっしょでも同じなんじゃないですか?」
ひよりの言葉に、佐野が驚いた顔になっていた。結城のほうは、あきれている表情だ。
「いえ、それはできない」
「でも前回の事件で、わたしは桑島さんたちの捜査に同行しました」
「それは、きみを容疑者としてあつかおうとした埼玉県警から守るためだ」
それは理解できる。
「時間がありません。それに、犯人はわたしのことを気に入ったようでした。わたしが行きます」
「いや、それは……」
ひよりは、押し切った。
「結城さん、行きましょう!」
止めようとしている佐野を振り切って、二人で部屋を出た。
「ありがとうございます」
廊下の途中で、ひよりは結城に礼を言った。
「なんのこと?」
「部外者の素人をつれていくぐらいなら、結城さん一人のほうがよかったはずです」
そのことを結城は主張しなかった。
「どうせ、あなたは言うことをきいてくれないでしょう?」
痛いところをつかれた思いがある。
「それに一条さんからも、あのときのことを聞いている」
一条とは、風土病事件のときに知り合った埼玉県警の女性警察官だ。
「生贄事件のときも、桑島警視といっしょに事件を解決したんでしょ」
それは、信頼してくれている、ということでいいのだろうか。
「さあ、急ぎましょう」
「でも、どこへ向かうんですか?」
「被害者男性の所在地を調べるから、ついてきて」
捜査一課のオフィスで結城がそれを調べているあいだ、ほかの捜査員から好奇の眼で見られていた。
ヒソヒソ話が耳に届いてくる。
あれが桑島警視の──。
「わかった。いまは、北区に住んでる」
結城の運転する覆面パトカーで、その住所に急いだ。パトランプをつけた緊急走行だ。
被害者の男性は、王子駅にほど近い場所にあるアパートの二階に住んでいた。
「この時間にいますかね?」
「あなたは一般人なんだから、よけいなことは言わないでね」
釘を刺されてしまった。
ノックをしても、しばらく応答はなかった。
結城がしくこくノックを繰り返したら、けだるい声が聞こえた。
「なんだよ……うっせえな」
扉を開けたのは、二十代半ばの男性だった。まじめな印象はない。
「坂口信夫さんですね?」
「そうだけど」
「わたしは、警視庁の結城といいます」
警察手帳を開いて、記章と身分証を提示していた。
「警察?」
途端に男性は背筋を伸ばした。
「三年前の事件についてなんですけど」
「事件?」
思い当たっていないのだろうか?
というよりも、思い当たることが多すぎて、どれだろうと考えているようだった。
「新宿駅の事件です」
「あ、ああ……」
結城と顔を見合ってしまった。どうにも、反応がおかしい。
「あのときの怪我は、どうだったんですか?」
ひよりは、わざと曖昧な質問をした。結城が、口出しはしない、という注意の眼を向けていた。
「そりゃ、すごかったよ」
返答も、曖昧なものだった。
「どこを怪我したんでしたっけ?」
「足です、足!」
「後頭部を殴られたんじゃなかったでしたっけ?」
ひよりは指摘した。
「あ、そうだった、そうそう!」
じっと、男性──坂口信夫の顔を見た。
「な、なんですか……?」
「おぼえてないんじゃないですか?」
「え、え……」
「結城さん、この坂口さんが似たような事件に巻き込まれていないか調べましょう」
「そうね」
「ちょ、ちょっと……おれは、被害者なんだぞ!」
坂口信夫は、声を荒げた。
「保険金詐欺なんじゃない?」
結城が問いただした。
「傷害事件をでっちあげて、被害者になったんじゃない? 事件なんてなかった……ちがう?」
「そ、そんなんじゃない! おれは襲われたんだ! もうなにも話さない!」
結城の身体を突き飛ばして、扉を閉めてしまった。
「坂口さん!?」
何度呼びかけても、応答してくれなかった。
「……しょうがないわね。確証もないし、帰りましょう」
「ここまでの結果を桑島さんに報告します」
アパートの敷地を出てから、電話をかけた。
「もしもし、桑島さん?」