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CASE.2 風土病 後編

       5


 発掘場の周囲は、さらに拡大して封鎖された。まだ民宿に泊まっていた夏美たちも、警察から話を訊かれたようだ。

 引率の咲坂以外は、その後、すぐに帰宅することになった。夏美から、これから電車に乗るところ、と連絡があったばかりだ。

 警察署にもどったひよりたちは、咲坂と話をすることになった。取調室ではなく、それよりは広いミニ会議室のような部屋だった。

「ぼくもここに来たのは、そうですね……五回ぐらいですかね。学生のときに二回来ています」

「風土病にかかる人は、どれぐらいむかしからいたんですか?」

 聴取は、桑島がおこなっていた。ひよりのほかには、一条がいる。

「そういう噂は、二年前にはありました。もしかしたら、もっとむかしからあったのかな……」

「実際に、具合の悪くなった人を見ましたか?」

「いえ……」

 あくまでも噂として知っていただけのようだ。

「数日前に具合の悪くなった人がいたというのは知っていますが、うちの生徒ではないです」

 ひと通り話を聞いて、咲坂も帰っていった。明日から大学にもどるそうだ。教授も復帰するようなので、ひよりたちも東京へ行くことになった。

 その日のうちに、ひよりは寮にもどった。

「大丈夫ですか?」

 寮母の藤崎が声をかけてくれた。

「はい……」

 大学側から聞いたのか、それとも夏美から連絡をもらったのか。

「疲れているでしょうから、ゆっくり休んでください」

「あの……うちの親には、なにも言わないでください」

 また心配をかけることになる。

「それはいいんだけど……たぶん、桑島さんがもう知らせていると思いますよ」

「……」

 盲点だった。

 ちょうど部屋に入ったとき、母から電話がかかってきた。

 とにかく、大丈夫、なんでもない、たいしたことじゃない、と押し通した。

 そのあとには、夏美からもかかってきた。

『どうなった?』

 興味津々だったが、疲れていたので適当に流しておいた。

 そして翌日、大学に行った。授業をうけるためでもあるが、それだけではなかった。午後になって、桑島がやって来た。二人の女性刑事をひきつれていた。教授から話を聞くためだ。

「発掘現場の風土病について……ですか」

 教授は篠宮という名前で、六十を過ぎている。国内専門の考古学者で、それなりの権威をもっていると生徒たちから微妙に尊敬されている。

 桑島は生贄事件でこの大学にも出入りしているから、教授のことも知っていたようだ。

「なんでも、たいへんなものが出たとか……」

「はい。猛毒の成分が検出されました」

 VXガスという明言はさけているようだ。そういえば咲坂には、詳細なことをだれにも言わないように、と要請していたことを思い出した。たぶん夏美にも、かん口令をしいているだろう。

 ニュースでも、猛毒としか報じられていない。

「なにか不審な人物に心当たりはありませんか?」

「わかりません……」

 教授は難しい顔をしていた。

「遺体も発見されたんですよね?」

「はい」

 それについては、普通に報道されている。ただし身元はわかっていないので、なにも報道されていないのと同じだ。

 結局、たいした話は聞けなかった。

 大学の廊下を歩きながら、二人の女性刑事が厳しい顔をしているのが気にかかった。

「どうしましたか?」

 桑島も気づいていたようだ。

「この捜査は……いえ」

 一条が不機嫌に発言を止めてしまった。

「ここは、東京です!」

 結城が、きっぱりと反論した。

 ひよりにも、どんな葛藤があるのか予想することができた。

 埼玉県で発生した事件の捜査に、警視庁の捜査員が加わっているのを好ましく思っていない一条と、ここは東京なのに、なにが問題なんだ、と主張している結城の確執なのだ。

「それにわたしは、桑島警視を補佐するのが仕事ですので」

 これが有名な、縄張り争いというものなのだろう。

「あの……もっと仲良く……」

 言いかけたひよりにも、二人は厳しい視線を向けてくる。

 忘れていた。部外者であるひよりが同行していることにも、二人は納得していないのだ。

 殺伐とした雰囲気が、大学の通路をさらにひんやりとさせていた。

 遊歩道に出て、ひよりがよく利用するベンチに向かった。自然にひよりが座ると、三人は立ったままで話し合いをはじめた。

「身元は、まだわからないんですよね?」

「確認してみます」

 桑島が質問すると、一条が携帯を出して連絡をはじめた。

「まだです。難航しそうです」

 白骨化した遺体は、最低でも五年は経過しているということだった。すでに腐臭がしていなかったことを考慮すると、もっと経過しているかもしれない──桑島は、そうも語っていた。

「だれなのかわからなければ、犯人をみつけることは難しいですよね?」

 ひよりがそう言ったら、二人の女性刑事に睨まれてしまった。素人が口をはさむことではないと反省した。

「あの発掘現場に従事した人で、行方不明者はいませんか?」

 桑島が、空気を清浄するように質問した。

「いまのところ、該当者はいないようです」

 一条が答えた。

 ひよりも、そんな話は聞いたことがない。たとえ何年もまえの話だったとしても、行方不明者がいれば、噂として語りつがれているだろう。

「こういうことも考えられませんか?」

 結城が発言した。

「もともとあの場所に遺体を埋めていたけど、発掘場になってしまったので、遺棄現場も掘り返されることを心配して、毒を仕掛けた」

 筋は通っていると思った。

「その可能性はあるかもしれない。だけど、あそこで発掘がはじまってから三十年ぐらい経っているから……」

 桑島の心には刺さらなかったようだ。

 この場の空気が、さらに悪くなったような気がした。

「でも桑島さん……あそこは最初のころよりも、どんどん広くなっていったと思うんですよね」

 もちろん、当初の様子をひよりは知らない。しかし、拡大を続けていると聞いたことはある。

「なので、はじめは問題なかったけど、発掘場が広くなるにつれて、犯人は焦っていったんじゃないですかね」

 少しでも四人の関係が円滑になることを願いながら、ひよりは考えをのべた。

「うん……」

 やはり桑島には、べつの推理があるのだ。

「それもわかるんだけどね……そういうことなら、遺体を移動すればすむことだと思うんだ」

「移動できない理由があったというんですか?」

 結城は、むきになっているようだった。

「移動できなかったというより、あの場所に意味があるのかもしれない」

「どういうことですか? 遺体を隠すために埋めたんじゃないんですか?」

 そんな二人の論戦を、一条だけは無表情で眺めている。

「隠すというより、そこに《おさめた》」

「さすがです。おもしろい推理ですわ」

 その声に驚いたのは、ひよりだけでは──わたしだけではない。

 二人の女性刑事も、眼を見開いていた。

「もしかして、加奈さん?」

 わたしではないだれかが、うなずいていた。

 こうして完全に入れ替わったのは、三度目になるだろうか。

「警視……?」

 結城刑事の戸惑いの声に、桑島さんは手をかかげて安心させた。といっても、こんなことを理解できるはずもない。

「きみは、どう考える?」

 わたしに──加奈さんにそう問いかけていた。

「推理は苦手です。きっとあなたたちなら、だれに頼らなくても正解にいきつきますよ」

 加奈さんの答えは、突き放すようなものだった。

「いいですね? だれにも頼ってはいけません」

 まるで忠告のような言葉を残して、わたしは──ひよりの意識はもとにもどった。

「……」

「いまは?」

「わたしです」

 ひよりは、自分の言葉で伝えた。

「い、いまの……なんなんですか?」

 二人の女性刑事は、やはり混乱している。

「どうして出てきたんだろう?」

 桑島は二人の反応を無視して、ひよりにそう問いかけた。

「なにが言いたかったんだろう?」

 そんなことを聞かれても、ひよりにもわからない。

「最後のが、一番伝えたかったことなのかな?」

「だれにも頼ってはいけない?」

「そう」

 たしかに、そのことを忠告したかったのかもしれない……。

「あの、桑島警視……もう少し説明していただけると助かるのですが……」

「彼女のなかには、べつの女性が住んでいます」

「え?」

 さらりとした説明だったから、ますます二人の困惑は深くなってしまった。

「それは、二重人格とか……そういうものでしょうか?」

「その説明は、いずれ詳しくします。それよりも、捜査を進めましょう」

「進めるといっても、どこからあたればいいのか……」

「発掘現場にゆかりのある考古学者を調べてもらえませんか?」

「所在は不明でなくてもいいんですか?」

「そうです」

 それはつまり、被害者ではなく、加害者として調べるということだ。

 今日のところは、大学で解散することになった。寮まで送るという桑島の申し出をことわって、ひよりは一人で寮にもどった。

 距離も近いし、なによりも二人の女性刑事から、お姫様あいつかいされていると思われたくなかったのだ。

「ねえ、吉原ひよりさんでしょ?」

 路地の途中で、ふいに声をかけられた。

 二十代後半ぐらいの女性だった。

「はい……そうですけど」

「わたしは、立花渚沙というの」

 清潔感のなかに色っぽさもかねあわせている。

「あの……」

「警戒しなくても大丈夫よ。わたしはね、あなたにヒントをあげようと思って」

「ヒント?」

 なんの話だろう?

「発掘現場の事件を調べてるんでしょう?」

「……なにか知ってるんですか?」

「きっと、考古学者にあたりをつけてると思うけど──」

 もったいつけるように立花渚沙と名乗った女性は、ためをつくった。

「けど?」

「発掘に関心があるのは、学者だけとはかぎらないわ」

「どういう意味ですか?」

「それだけ言えば、あなたたちにはわかるはずだわ」

「……あの!」

 しかし立花という女性は、歩き去ってしまった。

 その後ろ姿を眺めながら、ひよりは心のなかにいる少女に語りかけた。

「さっきの忠告は、あの人のこと?」

 だが、なにも答えてくれない。

 桑島は女性記者としか言っていなかったが、いまの立花渚沙が、女難の相の原因なのではないだろうか?

 加奈の忠告をうけいれるならば、立花のアドバイスは無視したほうがいいということになる。

 しかし、いまの発言が事件の真相に近づく鍵になっているのかもしれない。おそらく桑島も『吸血鬼事件』でヒントのようなものをもらったのではないだろうか……。

「おかえりなさい」

 寮母の藤崎に声をかけられた。熟慮しているうちに到着していたようだ。

「なにかありましたか?」

「いえ……なにもないですよ」

 じっと、みつめられた。

「嘘ですね?」

「……」

「言えないこともあるでしょうけど、悩みがあるのなら相談してくださいね」

「ありがとうございます」

 感謝の言葉だけは伝えて、自室にもどった。

 それから眠りにつくまで、立花渚沙という記者の言葉と意図を考えつづけた。


       6


 朝。

 今日は普通に大学へ行き、夕方に桑島と合流することになっていた。

「で、事件はどうなってるの?」

「わたしの口からは言えないよ」

 夏美をうまくあしらいながら、授業をうけていく。

 そんなキャンパスに、いつもとはちがうことがある。朝から一条が同行しているのだ。大学側にも許可をとっているそうで、なにも口出しはしないが、厳しい眼光を周囲にふりまいている。

「なんだか、怖いんだけど……」

 ひよりは、それについてはなにも言えない。どうやら監視のためにいるようだ。埼玉県警では、ひよりを疑う声がまだあらるらしく、眼を離すなと命令をうけているらしい。

 そのために捜査活動ができないから、機嫌が悪いのだろう。

「あの、一条さん……」

 休み時間に、ひよりは話しかけた。

「なんですか?」

 やはり不機嫌だった。

「なんか、感じわるー」

 会話を聞いていた夏美が、火に油をそそぐようなことを言ってしまう。

 さらに不機嫌さが増したようだが、そのことでなにか不平を発するようなことはなかった。

「捜査では学者を調べてるんですよね?」

「わたしは、捜査には加わっていませんので」

 冷たく突き放された。べつの言い方をすれば、あなたのせいで捜査に参加できないんだぞ──ということになるだろうか。

「やっぱ、感じわるー」

「夏美!」

 一条の眉がピックと動いたが、夏美と言い争いをするようなことはなかった。

「……桑島警視の指示があったから、捜査本部でもそれを調べてるはずです。ちゃんと所在のわかっている考古学者にも、対象を拡大しているでしょう」

 ため息まじりに、一条は言った。おとなげないと反省したのかもしれない。

「あの……考古学者だけですかね?」

「なんのことですか?」

「ですから、あそこに遺体を隠す動機のある犯人です」

「学者以外に……ということですか?」

「はい」

「可能性としては、いろいろあると思います。こういってはなんですけど、桑島警視の決めつけもどうなのかと……」

 桑島への指摘は、少しためらいがちだった。階級が上の人間に対する疑念だからだろう。

「ですが捜査を広げるには、なにかの根拠が必要です」

 根拠を求められても、謎の女性記者からの助言だとは口にできない。

「ひよりは、どういう人があやしいと思ってるの?」

 夏美が割り込んだ。

「うーん、あそこに遺体を隠したい人……」

「たとえば?」

「わかんないよ」

 正直に、ひよりは答えた。

「それでは、警視とかわりません」

 一条は、やはり桑島の推理に納得がいっていないのだ。たしかに突拍子もない発想をするから、普通はついていけいない。

「なんかないの?」

 夏美が、つめてくる。

「だから、わかんないって。あの場所に遺体を隠すことで、得をする人とか……」

 ひよりは自分でも、まとまりがないと感じている。

「なるほど。事件の裏には、利権がからんでるものだからね!」

 夏美には通じたようだ。

 だが一条から鼻で笑われた。

「でも、いい線いってるんじゃない? きっとそういうことなんだよ」

「あんなところに遺棄して、なんの利益があるというんですか?」

 一条の冷たい言葉に、夏美が激高した。

「なによ、捜査からはずされてるくせに!」

「なんですよって! この小娘!」

 なんとか二人のあいだに入って、仲裁した。

「やめましょう!」

 夏美はふくれっつらして、一条はあらぬ方向を向いてしまった。

「……得をしたかはわかりませんけど」

 数秒後、頭が冷えたのか、一条がボソッと話した。

「あの発掘現場のおかげで、市の財政はうるおったでしょうね」

 発掘で町おこしをしたようなものだ。たしかに管轄の市町村には、そういう眼をむけることもできる。

「……豊穣をもたらしてくれたから、お礼に貢物を──」

「ひより?」

 心配そうな夏美の声がした。

「……生贄」

「え?」

 生贄には、願望の生贄と、感謝の生贄がある。願望は、怒りを鎮めるという意味にもなるかもしれない。大むかしは、天変地異や自然災害を神の怒りだと考えた。

 今回のことは、それよりも感謝の生贄になるだろう。願いを聞き入れてくれた神にたいする感謝の念。

「まさか、あの遺体は生贄だったというの? そんなバカなことを考える人間はいないでしょう?」

 一条が言った。

「……いるんです。そういう信じられないようなことをする犯人が」

 ひよりは、よく知っている。

 いまでは一条にも、ひよりの過去がわかっているはずだ。

「……その話が、的を射ているとしましょう。生贄をおさめた人物は、富をくれた神に感謝しているということですか?」

 ひよりは、ためらいながらうなずいた。

 ひらめいたばかりの考えなのだ。ひより自身も、半信半疑だった。

「ってことは、役所の人が犯人?」

 夏美の言葉は、いつものように軽かった。

「発掘現場の担当の人と会えませんか?」

「役所の?」

 そういう担当がいるのかもわかないが、ひよりはお願いした。

「まさか、いまから行くとか言い出さないですよね?」

 一条の顔に、不安が広がった。

「事件の捜査をしたいんですよね?」

「い、いえ……せめて、桑島警視に相談しないと」

「じゃあ、わたしがします」

 ひよりは、携帯で連絡をとった。

「だめです。でません」

「夕方になれば、ここに来るはずです」

「わたしは、行ってみます」

「え、ちょっと!」

 ひよりは、歩き出した。

「授業は?」

 夏美が、そのことを心配していた。

「代返お願い」

「しょうがないなあ」

 後ろから一条もついてくる。

「ちょっと……待ちなさい!」

 無視をして、大学を出た。

「どうやって行くつもり?」

 公共交通機関をつかうしか、ひよりには方法がない。

「……わかった、タクシーで行きましょう」

 観念したように、一条は言った。

 大通りまで出て、通りかかったタクシーをとめた。

「経費でおちなかったら、わたしの自腹になるんですからね!」

 強烈に嫌味を言われた。

「すみません……」

「あなたを一人にはできませんので」

 埼玉県の発掘現場のあるK市までは、高速をつかっても二時間近くかかってしまった。

 すでに午後になっている。昼食はとっていないが、それよりもはやく会いたい。

「だめ……警視には連絡がつきません」

 タクシーを降りても、つながらないようだ。

 市役所は、あたりまえのことだが町中にある。捜査本部のたっている警察署のとなりだから、一条にとっては、もどってきたことになるだろうか。

 絢爛豪華とまではいかないが、それなりに立派な市庁舎だった。

「すみません。発掘現場を担当している方とお会いしたいんですけど」

 なかに入ると、ひよりは受付でたずねた。あとをついてきた一条が、唖然とした顔をしていた。まさかダイレクトに会おうとするとは考えていなかったのだろう。

「はい? どういったご用件ですか?」

 ひよりは、一条に視線を向けた。

 仕方ない、というような表情をして、一条が身分証をかかげた。

「警察の方……ですか?」

「はい。少し捜査でお話を聞きたいんです」

「発掘現場の事件についてですか?」

「はい」

「少々お待ちください……」

 受付の女性は、内線電話でどこかに連絡をとりはじめた。

「三階におあがりください」

 少し経ってから、そう言われた。

 二人して、エレベーターに乗った。上昇をはじめた瞬間に、一条の携帯が音をたてた。

「警視からです」

 そうことわってから、電話に出た。

「すみません、警視……いま市役所に来ています。いえ、こっちのです。吉原さんが……」

 ひよりのせいで、ここに来てしまったと直接非難したいのだろうが、言葉を選ぼうとしている。

「わ、わかっています。はい、これから発掘現場を担当している方と会うところです。え? で、ですが……止めちゃっていいんですか?」

 すでにエレベーターは到着していて、二人とも三階フロアに降り立っていた。

「吉原さん、警視もこちらに来ますので、待ちましょう!」

「桑島さんを待ってたら、夜になっちゃいますよ」

「吉原さん!」

 かまわずに担当者のもとへ急いだ。

 廊下のさきに立っている人物がいた。四十代ほどの男性だった。

「!」

 赤い靄が視界に広がっていた。

 この場合、推理とかそんなものはどうでもいい。

 本能的に感じ取っていた……。

 この人が、犯人だ。

「……」

「警察の方ですか?」

 男性のほうから話しかけてきた。

「そうです」

 一条ではなく、ひよりが答えていた。

「ずいぶん若い刑事さんなんですね?」

「はい」

 嘘がいけないという倫理観は置いておくことにする。警察官といつわる行為は罪になるはずだが、心のなかだけで「刑事の付き添いです」とつけたしていた。

「それで話というのは……」

「発掘現場は、ここの財政にどれぐらい寄与しましたか?」

「え? そ、そうですね……多くの学生や観光で訪れる人も多いですから、それなりには」

「職員の給料には?」

「いえ、そんなことはありません。同じ公務員なんですから、それはわかるでしょう?」

 公務員ではないひよりには──わたしには、わからない。

 いましゃべっているのは、だれ?

 加奈さん?

 わたし?

「では、なにか報酬を得ましたか?」

「え? さっきから、なにを言われてるのか……」

「神に感謝したんですよね? それとも、怒りを鎮めたんですか?」

「な、なんなんですか?」

「大切な人を、生贄に選んだんですよね?」

「なにを言っているのか……」

 男性の感情には困惑ではなく、怒りや焦りのようなものがみてとれる。

「こ、ここで話すのもなんですから……こちらへ」

 うながされるままに、ひよりは男性の後ろを歩いた。さらに一条も。

 案内されたのは個室ではなく、それこそ役所を連想したときに思い浮かべるようなオフィスだった。多くの職員が席についている。

「……ここで、なにをするつもりですか?」

 ひよりには見えていた。

 この職場は、赤く染まっていた。

「吉原さん? どうしたの?」

「危険です! ここにいる人たちを避難させてください!」

「え、えぇ!?」

「VXガスが、いたるところにあります……」

「この室内に!?」

 ひよりは、うなずいた。

 ほかの職員が、なにごとかと視線を向けているが、だれにも緊迫感はない。

「一条さん!」

 強く呼びかけた。

「警察です!」

 警察手帳をかかげて、一条が大声をはりあげる。

「いますぐ、ここから出てください! 荷物はなにも持たないで!」

 それでも、すぐに反応できるものではない。

「はやく! 毒物があるかもしれません!」

 その声に急き立てられて、職員が一人、また一人と外へ向かっていく。

「大げさだなぁ……」

 ゆっくりと、男性の腕が動いていた。スーツの内ポケットから、なにかを取り出したのだ。

「それは、なんですか?」

 落ち着くことに注意をはらいながら、質問した。パニックをおこしたら、ここは瞬く間に地獄と化す。

「あれがみつかったときに、覚悟はしていた。いや、ちがうな……もっとまえから準備してたから、こうなることはわかってたんだ」

 男性のほうが、よほど落ち着いていた。

「それはなんですか?」

 ひよりは、繰り返した。

「ぼくのことをつきとめたのなら、わかるでしょう? 幼い刑事さん」

「……」

 男性は、リモコン装置のような小さな機器をもっていた。

「発掘現場に仕掛けたものと同じですか?」

「濃度がちがう」

「それを押したら?」

「この建物にいる人間は、みな死ぬよ。風向きによっては、この周辺は──」

 そのさきを聞かなくても、とてつもない惨事なのは想像できる。

「あの密閉容器ですか?」

 この部屋の数ヵ所に瓶が置かれている。らっきょうや果実酒をつくるときに使用するような大きさだ。

 本当にあんなものでVXガスを封じ込めることができるのかと心配になる。しかし、ひよりに化学的な知識はない。いままでほかの職員が無事だったということは、大丈夫なのだろう。

「そうだよ」

 一見すると、なにも入っていない。

「こういう職場はね、意外にも荷物を置いても怪しまれないんだ。だれのものだかわからないものには触らない」

 役所の常識を知らないひよりには、どういう感想も胸中にわかなかった。

 言われてみれば、デスクとデスクのあいだや、ほかに荷物が積まれている微妙な場所に設置されている。

「五個ぐらいあるわね……」

 一条の声。

 ひよりの視界には、六個確認できた。

「やめましょう。なんのためにこんなことをするんですか?」

「きみなら、わかるんじゃないか?」

 わかるわけがない。

「あれはね、初恋の人だったんだよ。ここに来たってことは、身元は判明したんだよね?」

 ひよりは、首を横に振った。

「そうなんだ……まだわかってなかったんだ。それなのに、よくぼくに眼をつけたね? 君は、とても優秀なんだね?」

 その誉め言葉は、無視することにした。

「どうして殺したんですか?」

「ちがうよ。ぼくが殺したんじゃない……」

 どうしてだろう、すぐに正解がわかった。

「自殺……ですか?」

「そうだよ。まさか、刃物を自分に刺すなんてね……」

「原因は?」

「わからない。悩んでいたのかもしれないね……」

「悩み?」

「そういうものだろう?」

 このやりとりで、なんとなく理解した。

 この男性は、自殺したという初恋の女性のことをよく知らないのだ。

「あなたが、自殺していた女性を発見したんですか?」

 男性は、うなずいた。いや、うなずいたように見えただけかもしれない。

 どういう状況かは想像もできないが、この男性は死亡していた女性を発見して、あの遺棄現場に運んだ。

「どうして、初恋の人を生贄にしたんですか?」

「あそこができてから、この町はうるおったんだ。この庁舎も、ぼくが子供のころはみすぼらしいものだった」

「だから、神に感謝したんですか?」

 なんと飛躍した発想なのだろう。

「神じゃないよ。なんというかな、この土地の精霊のようなものだよ」

 神の解釈は、人それぞれだ。

 精霊も神も同じようなものだ。

「ぼくがここで働きはじめたころには、もうこの町は遺跡で食べているようなものだった。感謝をしたいと常日頃、考えていたんだ」

 そんなときに初恋の人の自殺体を発見し、土地の精霊に供物をあたえることにした──まとめると、そのようなことになるだろうか。

「どうして、VXガスを?」

 そもそも、どうやって生成したのだろうか?

「ぼくは、化学ばけがく専攻なんだ」

 知識はあったとしても、大規模な設備も必要なはずだ。かつて宗教団体がVXガスやサリンを製造していた事件があったが、さすがに個人でできるレベルではないのではないか。

「それについては、口外できないんだ」

「どうしてですか?」

 死体遺棄とVXガスのことは認めているのに、どうして話せないというのだろう?

「そういう決まり事だからです」

 意味がわからない。

「ここから出てください」

「逃げられませんよ」

 ひよりはそう言ったが、彼に逃げるつもりがないことをすぐに悟った。

「ここで死ぬつもりですか?」

「そのほうが、いろいろと都合がいいんだ」

「あなたは、まだだれも殺していないんですよ?」

「罪の重い軽いじゃないんです。決まり事なんですよ」

 ここでも、決まり事……。

「ぼくは、ここで死にます。きみは早く逃げたほうがいい。きみのことを気に入ってしまったよ。ここで死すべき人間じゃない」

「……」

 この状況では、返答に困る言葉だった。

「これを押したら最後、もうこの一帯は死の土地になる」

「矛盾してますよね? あの遺跡のおかげでここがうるおったのに、この町が廃墟になってしまったら、意味がないじゃないですか」

「意味を考えるのは、人ではない」

 男性は議論を望まないように、そう断言した。

「吉原さん……ここはさがりましょう」

 一条が助言した。男性の覚悟を感じ取ったのだ。

 ひよりは、足を後退させようとした。

 しかし、前進していた。

 ひよりは──わたしは、男性に近づいた。

「だれだ? おまえは……だれだ!?」

「どうしました? わたしのことを気に入ってくれたんでしょう?」

「ちがう……眼が」

「眼が、どうちがうんですか?」

「いままでの瞳じゃない……おまえは、悪魔か!?」

 男は取り乱している。

「わたしが悪魔なら、どうします?」

「殺す! これを押して、いっしょに死ぬ! そうしなきゃ……この世が終わる!」

「ちがいますよ。わたしが悪魔なら、この世はとっくに終わっています」

「じゃあ……なんだというんだ!?」

「悪魔とは、対局のものじゃないですか?」

「そ、そんな……嘘だ!」

「さあ、崇めなさい。わたしへの生贄はうけとりました」

「ぼ、ぼくはどうすれば……」

「わたしに近づきなさい」

 命令した。

 彼は従う。さながら、神の下僕だ。

「それを渡しなさい」

 彼は、それにも従う。

 わたしは、差し出されたそれを──。

 いや、邪魔が入った。

 複数の気配が周囲に広がる。

 大勢の警察官が配置についたのだ。一条が、ひそかに応援を呼んだのだろう。となりは警察署なのだ。

 彼にも、その様子は伝わっている。差し出されていた手が引っ込められた。

「みんなで死ぬんだ! ぼくをふくめて、みんなが生贄になるんだ!」

 男性は、叫びをあげた。

 しかしその背後には、一条が回り込んでいた。

 わたしはいわば、その隙をつくりだしていたのだ。

 背後から男性の腕をからみとると、手首をひねった。

 男性の手から、装置がこぼれ落ちる。

 わたしは──ひよりは、急いでそれを拾い上げた。

 男性の身体は、一条がそのまま抑え込んでいる。

 重装備をした捜査員がなだれこんできた。

 ひよりも囲まれたが、慎重に遠隔装置を渡すと、守られるようにべつのフロアへ誘導された。

 入れ替わるように、防護服を着た集団が現場へ向かっていった。

「怪我はない?」

 一条も、遅れて移動してきた。

「はい。一条さんは?」

「生意気ね。警察官の心配なんかしなくていいのよ」

 口ではそう言っても、顔には笑みが浮かんでいた。はじめての笑顔だった。

「犯人は?」

「おとなしくしてる。すぐにでも署に連行されると思う」

「そうですか……」

「ねえ、あなたは何者なの?」

「え?」

「さっきのあなた、普通じゃなかった……ちがう、桑島警視と話していたときもそうだった」

「……」

「あなたは、一人じゃないの?」

 説明が難しい。ひよりは、そのことについては無言を貫いた。

「まあいいわ。もうすぐ桑島警視も到着すると思う」

 それから三十分後に、桑島が到着した。結城もいっしょだった。

「ごくろうさま」

 桑島は、それだけを口にした。細かな経緯を聞いてくることはしなかった。

 それに不満顔をしていたのが、結城だった。一条も同じような表情だ。

「警視は、甘やかしすぎだと思います」

「え?」

 結城に言われて、桑島が驚いていた。

 ひよりも。

「二人の仲をどうこう言うつもりはないですけど、警視にはもっとしっかりしていただかないと」

「……」

 桑島は困り顔だ。

 ひよりも、同じような表情をつくっておいた。まちがっても、うれしそうにするわけにはいかなかったからだ。



 事件は、一応の解決をむかえた。

 犯人の男性は、VXガスを製造し、それを発掘現場に散布したことを認めた。また市役所に仕掛けことも認めている。ただし、どこで製造したのかについては、供述を拒否しているという。

 女性の殺害については、否認をしているようだ。語っていたように、女性は本当に自殺であったのかもしれない。警察は、両方の線で裏付けを進めていくらしい。

 大学への道すがら、ひよりは一人の女性と出会った。以前は夕方だったから、朝の空気のなかで対面すると、違和感が強かった。

 名前はたしか、立花渚沙といったはずだ。

「解決したみたいね」

「あなたは、何者なんですか?」

「ただの記者よ」

 彼女が、桑島が警戒していた人物なのはまちがいないだろう。だとすれば、その経歴も嘘になる。

「わたしのこと、秘密にしてるのね?」

 たしかに、桑島には報告していない。

「……あなたの目的は?」

「どうでしょうね」

「あなたも、生贄事件に関係してるんですか?」

「あなたの事件には、直接は関係してないわ」

 それはつまり、間接的には関係しているということだ。

「また会いましょう。あなたのなかの女の子にもよろしくね」

 女性は去っていった。

 加奈のことも知っている……。

 彼女の助言が、事件解決の役にたったことはたしかだろう。だが得体の知れない不安が、爪先からせり上がってくるようだった。

「あの人に助けてもらったけど、よくなかった?」

 ひよりは、加奈に呼びかけた。

「……」

 返事はなかった。

 独り言だけが、むなしく路地に流れていった。


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