CASE.2 風土病 中編
3
三人の鑑識員を眼にしたときは、まだこのあとに何人も続いてくるのだろうと思ってしまった。
しかし、その三人がすべてだった。
「防護服は用意していますか?」
桑島がたずねた。待っているあいだに、VXガスは皮膚からも浸透するからガスマスクでは防げない、ということを教えてもらっていた。
「はい」
鑑識員が淡々と防護服に着替えていく。
「どこですか?」
桑島が場所を説明する。
鑑識作業に入った。自分たちは近づくわけにはいかないから、遠くから見ている格好だ。
土を採取している。
作業は十五分ほどで終了した。
「では、調べてみます」
帰るときも淡々としていた。
五人だけになると、なんとなく寒々しい空気が流れていた。陽が暮れそうだから気温が落ちている、というだけではない。
なんの緊迫感もないし、もっとはっきり表現すれば、だれもこのことを信じていないのだ。
正直に告白すれば、ひよりも半信半疑だった。桑島と結城も帰ってしまい、このままなにごともなく明日が来るのだと考えはじめていた。しかし夜も更けたころ、事態は一変していた。
ひよりたち学生は発掘場に近い民宿に泊まっているのだが、ものものしい気配を感じて、外を眺めた。
多くの赤色灯が周囲を照らしている。
桑島から連絡がきた。
『VXガスの成分が検出された……』
「え?」
『いまからそっちに行くね』
桑島が到着するまえに、埼玉県警の捜査員が宿を訪れた。
「吉原ひよりさんというのは?」
「はい、わたしです」
玄関ロビーには、生徒や引率の咲坂が集まっていた。
「詳しい事情を聞かせてください」
「はい」
「できれば、署のほうに来ていただきたいのですが」
一瞬、どうすべきか迷った。
「ここでは、だめですか?」
「はい。警察署でお話を」
男性捜査員の顔は、冷ややかだった。
「行きましょう」
その声は女性の警察官だったが、機械的で思いやりがない。
「ちょっと待ってください!」
そう声をあげたのは、夏美だ。
「もうすぐ桑島さんが来るんだよね?」
「う、うん……」
「それまで待ってください」
捜査員たちは、顔を見合っていた。
「捜査は、われわれがします」
それが結論のようだ。
「わかりました」
従うしかない……。
ひよりは女性捜査員に先導されて、警察車両に乗った。
なにも言葉はかけられず、発車した。
警察署までは、三十分ぐらいかかっただろうか。その周囲には、立派な建物が集まっている。どうやらとなりは、市庁舎になっているようだ。
夜なのに騒がしく感じるのは、大事件であると警察も認識したというあらわれなのだ。取調室は、二階にあった。過去に刑事から話を聞かれたことは何度もあるが、取調室に入ったのは初めてだった。思っているよりも狭い。
四十代ぐらいの男性が、正面に座った。
パソコンの置かれた机が部屋の隅にあって、女性が席についていた。記録係なのだろう。
「お名前をおっしゃってください」
「吉原ひよりです」
「職業は?」
「学生です」
次いで、黙秘権の説明と弁護士を呼ぶ権利があるということを、取調官は語った。
つまり、ひよりは容疑者なのだ。
「このような時間にお越しいただくのは例外的なことですが、なにぶん緊急性の高いことですので、ご容赦ください」
丁寧な言い回しと口調なのだが、お役所的な印象をどうしても感じてしまう。
「あの発掘現場から、VXガスの成分が検出されました。そのことに心当たりはありますか?」
「わたしは、なにもしていません」
まず、そのことは伝えておかなければならない。
「では、どうして猛毒のことを知っていたんですか?」
「……」
説明できない。したところで、この刑事たちが信用してくれるとは思えなかった。
「どうしました? 答えられないんですか?」
「……わたしが、ガスをまいたいと思ってるんですか?」
VXガスのことをよく知らないから、まいたという表現が的確なのかわからなかったが、かまわずに言った。
「そういう可能性もあるということです」
「……ふふふ」
え?
「なんですか? なにが可笑しいんですか?」
ひよりは──わたしは、笑ってなんかいない……。
「だって、あなたが非現実なことをおっしゃるから」
だれかが声を出した。わたしの口から。
「どういう意味ですか?」
「化学知識のない人間が、あつかえるようなものじゃありませんよ」
「ただ遺棄しただけなのかもしれない」
「どうやって?」
「だから、瓶から地面に捨てるとか」
「ふふふ、あなたはVXガスのことをなにも知らない」
「……」
取調官は、憤慨したように睨んでいた。
「VXガスの揮発性は低い。つまり液体で捨てられたとしたら、検出された量はもっと多くなるはずです」
「その言いぐさは、まるで検出された量を知っているみたいじゃないですか」
「風土病」
「はい?」
取調官は、意味を理解していなかった。
「あの発掘現場では、むかしから風土病にかかる人がいたそうです」
「ほう」
「それは、本当に風土病だったのでしょうか」
「では、それもVXガスが影響したと?」
「風土病とは原因も様々で、そもそも原因すら解明されていないことも多いはずです」
「……」
「だれかが故意にやったとしましょう」
「その場合、あなたも容疑者になりますが」
取調官は、もうそのことを隠すつもりはないようだ。
「その犯人は、かなりの化学的な知識をもっています。たとえば無造作に土にまいたとしても、揮発性の低いVXガスでは、人体に影響は出ない。大量にまいた場合は、逆にもっと大惨事になっているかもしれません」
「無造作に捨てたが、偶然、いまのようになっただけかもしれない」
「長期にわたって仕掛けているのなら、そんな偶然はありません」
「……そもそもなんだがね、VXガスというのだから、気体で散布した可能性がある」
「気体なら、散布した人間も無事ではすみません」
「防毒マスクをすれば大丈夫だろう?」
「VXガスは、皮膚からも吸収されます。防護服を着用しなければなりません。しかし、あんな発掘現場でそんな格好をしていれば、目撃されてしまいます」
「深夜におこなったかもしれない」
「暗いなかで?」
「ライトを使えばいい」
「光が灯っていれば、いくら深夜でも、ひと眼につくかもしれない。そんなリスクをおかしますか?」
「……恐ろしいね」
取調官が、ポツリとつぶやいた。
「なにがですか?」
「まるで、知能犯と言い合いをしているようだ」
いつのまにか、わたしに──ひよりに身体の主導権はもどっていた。
「わたしは、なにも知りません」
ひよりの言葉で、あらためてその意思をしめした。
部屋にべつの刑事が入室してきた。
取調官と耳打ちする。
「わかった」
それだけを取調官が答えると、伝令が退出していった。それと入れ替わるように、桑島がやって来た。
「吉原さん……」
思わず、ひよりは泣きそうになってしまった。
「彼女は、容疑者ではありません」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「彼女にそんな真似はできない」
「どうやら懇意にしている女性のようですね」
その言い方に、侮蔑の感情がまじっていた。
「それがなにか問題ですか?」
桑島は、堂々と言い返していた。うれしさと同時に、恥ずかしさもあった。
「……い、いえ」
取調官は、しどろもどろになった。
「みなさんは、どこまで彼女のことを知っているのですか?」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
「……今回のことは、彼女の証言からはじまったことでしょう?」
「それ以前のことです」
「この吉原ひよりさんに、なにがあるのですか?」
「生き残りです」
桑島は、それだけを口にした。それまで以上に、取調官から凝視された。記録係の女性警察官にも見られている。
「……そうですか、だから警視と」
いまのには下劣な感情はふくまれていなかった。
桑島といえば、あの事件だ。
そして、あの事件の生き残りといえば、一人しかいない。新たなる犯行では、鈴村聡美という女性も救出されているが、その女性はまちがいで拉致されたのだ。
「ですが、それとこれとはべつです。どうしてあの場所のことがわかったのか、合理的な説明がなければ」
「十二人が惨殺された現場を生き抜き、そして狡猾な犯人に再び狙われた……普通の人間では考えられない体験をしています。ぼくやあなたでも計り知れないことだ」
「……壮絶な体験をしたからだというのですか?」
「常人の感覚で、ものを見るわけにはいかないでしょう」
取調官は考え込んでいる。
「……わかりました。では、なにか不思議な力で発見したとしましょう。ですが、われわれは警察です。故意に猛毒をまいた犯人がいたとしたら、捕まえなければならない」
「もちろんです」
「そして警察が、不思議な力に頼るわけにはいかない」
「そうですね」
「桑島警視は、この事件……どうみますか?」
「動機は、そうですね……あの場所に立ち入ってもらいたくなかった。もくしは、怨恨の線もあるでしょう」
さすがの桑島でも、いまの段階ではなにもわからないだろう。
「そうですか、参考にさせてもらいます」
落胆にも似た取調官の言葉だった。しかし桑島に動揺はなかった。
そのとき、結城が部屋に入ってきた。
「警視、調整がすみました」
「ありがとうございます」
桑島は、取調官に向き直った。
「この捜査には、ぼくも参加します」
「え?」
取調官は、眼が点になっていた。
「桑島警視は、警視庁の所属ですよね? 警視庁との合同捜査になるということですか?」
「いえ、埼玉県警の捜査になります」
「でしたら……」
「ぼくの所属する特別特殊捜査室は、警視庁ではありますが、警察庁刑事局長の直轄組織でもあります」
だからこそ、国家公務員であるキャリアから選ばれたことをひよりも知っている。
「県警本部にも承認をとってあります。すぐに話があるはずです」
「鳥谷さん」
べつの男性刑事が部屋に来て、そのことを伝えていた。
「わかりました。桑島警視との共同捜査ということですね」
意外なほど平静をたもっていた。それとも納得している雰囲気は、みせかけだろうか。
「彼女には、泊まっている宿にもどってもらいます。いいですね?」
「……わかりました。ですが、宿からは一歩も出ないようにしてください」
ひよりは了承するしかなかった。
桑島と結城につきそわれるかたちで、民宿にもどった。
4
すでに深夜となっていたが、夏美たちも寝ずに待っていた。
「大丈夫だった、ひより?」
「うん」
返事にも力が入らない。
「かつ丼食べた?」
「食べてないよ……」
「え、食べてないの? かつ丼だよ?」
どうでもいいことに夏美は興味を抱いていたようだ。
「今日は早く休んだほうがいい」
「わかりました」
桑島に応えてから、部屋にもどった。夏美との会話も、いまは疲れるだけだ。
翌朝になって、桑島がむかえにきた。
思いのほかよく眠れたので、気分はそれほど悪くはなかった。
「ひより、発掘作業は中止だって」
「そう」
猛毒が発見されたのだから、仕方のないことだ。
「吉原さん、明日にはここを出ることになったんだ」
予定では、あと三日間泊まるはずだった。
「わかりました、咲坂さん」
「ひよりの荷物は、わたしが整理しとくね」
夏美と咲坂に見送られて、結城の運転する車に乗り込んだ。
「警察署に行くんですか?」
「ああ」
また取り調べをうけなければならないのだ。
「これから捜査会議があります」
「え?」
どういう意味だろう。
警察署につくと、昨夜とはちがう場所につれていかれた。
「あの……」
桑島は、やけに大きな両開きのドアに手をかけていた。取調室でないことはあきらかだ。
扉を開けると、想像以上に人が大勢いた。
「あの、桑島さん!」
思わず大きめに声をあげてしまった。
「きみにも参加してもらう」
「え!?」
素っ頓狂な声をあげてしまった。
「そ、そんなこと……」
そんなことしていいんですか──そう伝えるはずの言葉は、途中で消えてしまった。
「わたし、一般人ですよ!?」
ひよりはこれまでに警察関係者と会うことは何度もあったし、警察の施設に行くことも多かった。だが、こんなことはリアリティに欠ける。
入口を開けてしまったことで、たくさんの注目をうけている。
「入りましょう」
好奇の視線に囲まれながら、ひよりは桑島のあとについていく。
「ここへどうぞ」
捜査員ではなく、首脳陣が座るほうの席だった。一番端だが、居心地が悪いのは当然だ。
桑島がとなりに座った。
「捜査会議をはじめます」
ひより側の中央に座る男性が宣言した。年齢は、五十歳ぐらいだろうか。
「管理官の山上です。これまでにわかっていることを報告してください」
捜査員側の前列にいた男性が立ち上がった。昨夜の取調官だった。
「発掘場で採取された成分が、VXガスであることが確認されました。この現場では、体調を悪くする人が頻発していたそうです。風土病が疑われていました」
「では、その人たちは風土病ではなく、VXガスの中毒だったというわけですか?」
「その可能性はあると思います。数日前も体調を崩した学生がいまして、自宅で療養中でしたが、現在、精密検査をうけてもらっています」
管理官と捜査員とのやりとりが数回あって、桑島に話がふられた。
「今回の捜査には、警視庁の桑島警視にも加わってもらいます。桑島警視のほうから、なにかありますか?」
桑島に注目が集まっているようで、じつは見られているのはひよりのほうだった。なんで部外者がいるのか、と視線が痛い。
「いえ、とくにありません」
拍子抜けする桑島の発言だった。
より一層、なんでここに来たんだ感が増していた。居心地が悪いどころの話ではなくなっている。
捜査会議が終わっても、すぐに帰れないところが地獄だった。
「桑島さん、こちらのほうから指示はありませんので、好きなように捜査してください」
そう言ったのは、埼玉県警の捜査一課長だった。この部屋で一番権威のある人物になるはずだ。
「こちらからも、一人そちらにつけます」
捜査一課長は、管理官に目配せした。
「一条」
管理官が捜査員に向けて呼びかけた。すでに班割りがされていて、捜査に出発している者もいた。
呼ばれたのは、女性刑事だった。
髪をきちっと固めている。身長は警察官としては低いほうだろう。少しまえまで女性警察官の身長制限は154㎝だった。いまでは撤廃されているはずだが、それに近いのではないだろうか。ひよりよりも低い。
「一条です」
挨拶もきっちりとしていた。
「彼女を好きなようにつかってください」
一課長と管理官は、そう伝えると離れていった。
「桑島です。こちらは吉原さんです」
桑島が、一条という埼玉県警の女性刑事にならって、自己紹介を返した。
「さっそくで申し訳ありませんが、現場に行きましょう」
「は?」
一条は、困惑するような声をあげていた。
「どうしましたか?」
「あ、いえ……」
三人で部屋を出ると、廊下では結城が待っていた。
「警視、わたしは警視庁へもどることになりました」
その表情を見ると、納得がいっていないようだ。なんとなくわかった。縄張りの問題なのだ。警視庁の刑事である結城が、埼玉の事件に関わることに待ったがかかったのだろう。
「ここまでありがとうございます」
「いえ、桑島警視の部下でないことが悔やまれます」
生真面目に結城は言った。
一人で帰っていった。
「あの、結城さんは部下じゃないんですか?」
素朴な疑問をひよりはぶつけた。
「ああ。佐野の命令で、ぼくについてくれてるだけなんだ」
コホン、と咳払いが会話の邪魔をした。埼玉県警の一条が放ったものだ。
「現場に行くのでしたら、はやく向かいましょう」
きちっとしているだけではなく、せかっちな性格のようだ。
一条の運転する覆面パトカーで、現場にむかった。ひよりにとっては、もどると表現したほうが適切だろうか。
現場一帯は、立ち入り禁止になっていた。あの区画だけではなくて、広い発掘場のすべてが封鎖されているのだ。等間隔で制服警察官が立ち番をしていた。
「入ります」
『捜査』と書かれた腕章をつけた一条が警官の一人に告げると、張られている黄色いテープをあげてくれた。
それをくぐって、あのエリアに向かった。
まだ鑑識作業を続けているようだ。
「ほかの場所からも出ないか調べています」
一条が、そう補足してくれた。
「それで桑島警視……ここでなにをするんですか?」
彼女からの言葉もうわの空、桑島はあたりをキョロキョロと見回している。
「桑島さん?」
ひよりも心配になって声をかけてみた。
「うーん」
なにかを考えながら、あたりを観察している。
「あっち側は、森になってるね」
「え、ええ……そうですね」
例のエリアの奥には、木々が密集している。
「行ってみようか」
「警視?」
一条の呼びかけを置き去りにして、桑島は歩きはじめた。ひよりも一条も、それについていくしかない。
直線上に森へ向かうわけにはいなかい。例のエリアは、より厳重に侵入できなくなっている。防護服を来た警察官が見張っていた。そこを通過するには、同じように防護服を用意しなければならないだろう。
遠回りして、森についた。
「吉原さん……念のため、見てくれる?」
普段、人が立寄らない場所だからだろう。
「どういう意味ですか、警視?」
一条は、ここに来てから困惑しっぱなしのようだ。
ひよりは、木々のなかを観察した。あのときのような変化はない。ただし、だからといって危険がないとはいえない。いまは「あの子」の力が眠っているだけかもしれないからだ。
ひよりは、首を横に振った。
「警視?」
「ここを調べてみましょう」
「え? ここをですか?」
桑島はその気だが、一条は戸惑っている。
「ここを守ってるのかもしれない」
その言葉には、ひよりも首をかしげてしまった。桑島独自の感性なのだ。
「守るって……なにからですか?」
「なにからでしょうね」
その返答に、一条は拍子抜けしたようだった。
桑島は手袋をはめ、地面にしゃがみこんだ。
「わ、わたしがやります!」
「一条さんは、そっちをお願いします」
「い、いえ……」
いままで以上に困っていた。
これまでの彼女の態度が、なんとなく理解できるようになった。たぶん、キャリアである桑島が、通常の捜査をすることはないと考えていたのだ。
だが桑島は、危険があろうと現場に出るし、けっして人任せにしないことも、ひよりはよく知っている。
生贄事件の捜査を知らない埼玉県警は、桑島のことをただ参加するだけのお飾りだと思っていたのだろう。
「わ、わたしがやりますので!」
一条の言葉にも耳を貸さず、桑島は地面を調べている。
ひよりも下を見た。
あることに気がついた。
「桑島さん……」
「どうしたの?」
「なんだか、道になってませんか?」
木々のあいだには苔が生え、雑草ものびている。しかし、なんとなく一本の道ができているように思えたのだ。
「そうだね……」
桑島も理解してくれた。
「あっちになにかあるんでしょうか?」
「行ってみよう」
「え? ちょっと……」
一条を蚊帳の外に、二人は道を進んだ。
「警視……わたしが、さきに行きます」
追い抜いた一条のあとについていく。
森の奥は、同じように樹木で満たされているだけだった。
「引き返しましょう……」
しばらく歩いてから、一条が提案した。
「なにかあるとは思えません」
その発言には賛成した気持ちだった。なにかあるようには感じない。それに道ができているというのも、錯覚かもしれないのだ。
だが……。
どうしてだろう。ざわざわと胸騒ぎがする。
「もう少しだけ、行ってみましょう」
桑島の言葉に、ひよりは心のなかだけでうなずいていた。
さらにしばらく歩いたさきには、一本の木があった。いや、そこら中に木が生えているから、その表現はまちがいだ。
しかしひよりには、そう見えた。
どうやら桑島も、そのように感じたようだ。
「危険はある?」
「ないと思います」
ひよりが答えると、桑島は木の根元にしゃがみこんだ。
「待ってください、わたしがやります」
「いえ」
一条の申し出を、桑島がことわった。他人任せにはできないなにかを感じ取っているのだ。
「ここを掘りましょう」
「わ、わかりました……スコップを用意します」
桑島と一条は小型のスコップは所持していたが、大型のものをもってくるという意味だろう。一条が来た道を急いでもどっていく。十分ぐらいしてもどってきた。
それまでは二人で会話もなく、ただ桑島が小さなスコップで土を掘っていた。一条の持ってきたスコップにかえて、桑島がさらに掘り進める。
すぐに一条が割って入った。
「わたしにまかせてください」
結局、桑島と一条の共同で掘ることになった。ひよりも小さなスコップで、申し訳程度には参加していた。
「あれ?」
一条が、異変を感じた声を放った。
「どうしました?」
「……なにか、ここにあります」
「慎重に掘りましょう」
一条が小さなスコップに変えた。
「硬いものです……なんだろ」
土のなかから出てきたのは、大きなアタッシュケースだった。桑島と一条が、かなりの力をつかって引き上げた。
「こんなものが……」
不安が三人に広がった。
しかし、ひよりの視界に変化はなかった。
「どうしますか、警視?」
この場でケースを開けるのか、という確認だろう。
なかに危険なものが入っているかもしれない。
「それとも鑑識を呼びますか?」
桑島がチラリとひよりに視線を向けた。
ひよりは、首を横に振った。すくなくても、現時点で危険はない。ただし開けたらどうなるか……。
「開けてみよう」
桑島は、アタッシュケースに顔を近づけていた。
匂いをかいでいるようだ。
「無臭だ」
土の匂いはしているのだろうが、そういう意味ではない。VXガスも無臭のはずだから、桑島が想定しているのとはちがう。
こういう場所に埋められたアタッシュケース……そのなかに入っているものといえば、どうしても不吉なものを想像してしまう。
すくなくとも、腐臭はしていない。
「開けていいんですね?」
桑島がうなずいた。
「わたしが」
一条と位置を入れ替えた。
「鍵が……」
しかし、ダイヤル式の鍵がかかっていた。
「無理やり開けますか?」
そのためには工具が必要だろう。
桑島の視線が、周囲に散った。
そして、ある一点をみつめる。
ひよりの視界にも変化があった。ある個所が赤くなっていた。
「これ……」
木の幹に小さく数字が彫られている。
『8625』
桑島が、ダイヤルを合わせた。
カチッと音がした。
一条が、桑島の顔を見た。そのすぐあとに、ひよりを。
深呼吸のように息を吐きだしてから、一条がケースを開けた。
「警視……」
腐臭がしなかったのは、すでに白骨化して月日が経っていたからだ。
「これを守るために……?」