殿下、私に誘惑されてくださいっ! ~王太子を誘惑しろと命じられた、ある男爵令嬢の顛末~
「王太子を誘惑しろ」
王立学園から帰宅するなり、待ちかねたようにお父様の執務室に呼ばれ、そう命じられた。
きっとこれは何かの冗談だ。
だから「ええっ、絶対に無理ですよぉ~!」とヘラヘラ笑いながら即答したのは正常な反応だったはず。なのに本人は至って真剣な表情である。
「無理ではない。やるしかないのだ、アメリー」
お父様にギロリと鋭い眼光で睨みつけられる。おお、こわっ!
だけど、無茶だ。
なぜならディートハルト王太子殿下といえば、眉目秀麗、成績優秀、品行方正と非の打ちどころがないうえに、同じ学年に才色兼備と名高い公爵家の令嬢で婚約者のエリーゼ様がいるからだ。誰が見てもお似合いの二人。入り込む余地、ある?
お父様は男爵だ。貴族の末端に位置する我がハース家の領地は狭く、借金こそないものの潤ってはいない。
しかも庶子の私は、領地の隅っこにある小さな村で育てられた。村一番の美女と評判だったお母様は、たまたま視察にやって来たお父様の一晩のお手付きとなったあと、私を産んですぐ儚くなっている。お祖父様が他界して男爵家に引き取られたのは三年前、言わばにわか令嬢なのだ。
タウンハウスに連れてこられてすぐに家庭教師がつけられたものの、教養もマナーも学力も生粋の貴族令嬢の足元にも及ばない。
正直、王族や公爵家なんて雲の上の、そのまた上の人たちだ。
「私の成績は下の下なんですよ? そのうえ、ダンスも刺繍も苦手です。エリーゼ様に勝てる要素は何一つありません。そもそも学年が違います」
この国の貴族子女は十五歳から三年間、王都の王立学園に通う。
私は二年生なので、三年生の殿下とはまったく接点がない。見かけることはあっても、いつも取り巻きに囲まれていて近づくことすら困難である。
そんな状況でどうやって誘惑するの? 命じる相手、間違ってないかしら。
「エリーゼ嬢と成績を競い合う必要はない。ディートハルト殿下を誘惑しろと言っているのだ。なんとかして近づけ。いいか、これはデツェン伯の依頼だ。つまりバーデン公爵家の意向なのだ。我が家が逆らえると思うか?」
デツェン伯爵はバーデン公爵の配下だ。そのデツェン伯爵の手下の一人がハース男爵――つまりお父様ということらしい。
こんな碌でもない仕事が回ってきちゃうのは、下っ端の宿命なんだろうな。
村で生活していた頃は『貴族は皆金持ち』くらいの認識しかなかったから、わからなかったけれど。
「どうしてバーデン家がそんなことを? 後々問題になって、おまえが勝手にやったことだとトカゲの尻尾切りされるのは嫌ですよ」
「バカ者、もう逃げられんのだ。殿下を誘惑しなければ我が家は潰され、おまえも消される。成功すれば我が家は生き残る。傷モノになるおまえには、まともな縁談はないだろうから商人フリーデルの妾にしてやろう」
「なんですかっ、その二択は?」
どちらにしても人生詰んでいる。
フリーデルは金持ちだが五十を超えたおじさんで、本妻以外にも妾が何人もいるのだ。
修道院の選択肢がないのは、寄付金をケチっているのだろう。
でも殺されたり、娼館に売られるよりはずっといい――そう思うことにしよう。
「知らないだろうから教えておいてやる。これには王位継承問題が絡んでいるのだ。先日、シュレーゲル公爵の長女とアンテス公爵の嫡男が婚約を発表した。そしてアンテス家のエリーゼ嬢は王太子の婚約者……この意味はわかるな?」
「王太子派にアンテス家とシュレーゲル家、第二王子派にバーデン家。三家の均衡が崩れたってことでしょう?」
公爵家のアンテス、シュレーゲル、バーデンは、この国の三大勢力だ。貴族の大半は、三家のうちのいずれかの派閥に与していると言っても過言ではない。
現在の王妃はバーデン家の出身。十三歳になるユリアン第二王子の母親である。
一方のディートハルト殿下は、亡き前王妃の息子だ。前王妃の実家では後ろ盾として弱かったため、生まれた時にアンテス公爵令嬢エリーゼ様との婚約が王命により決められた。この婚約があるからこそ、彼は王太子でいられる。
今までは、アンテスとバーデンの一対一だったのが、ここへ来てアンテスにシュレーゲルが加わって二対一。このままユリアン殿下が王位を継げなければ、バーデンだけが力を落とすことになる。
ならばディートハルト殿下とエリーゼ様の仲を裂けばいい。
ざっくり言うと、そういうこと?
「シュレーゲルの娘は妊婦だそうだから、すぐに入籍するはずだ。こちらはもう崩せない。おまえが王太子を誘惑しろ」
まさかのおめでた婚! 淑女は貞操を守るものじゃないの?
いや、シュレーゲル家もそれだけ必死だったということか。現王太子のディートハルト殿下の地位は揺るがないと判断し、日和見をやめて動いたのだ。
ああ、嫌だ、嫌だ。貴族なんて権力争いばかりで、ちっとも上品じゃない。
けれど、婚約は王命だ。誘惑したからって、どうにかなるの?
もし婚約破棄となれば廃嫡になるのは必至。それを選ぶほど愚かな方かしら。
あ、もしかして、仲違いして二人の間に子どもができなければ、再びユリアン殿下にチャンス到来……って長期的な戦略?
捨て駒だから下っ端の男爵の娘にやらせようって魂胆?
なんてあれこれ考えても、結局道は一つしかないのだ。
「わかりました……」
※※
それから半年後、私はディートハルト殿下の腕の中にいた。
人目もはばからず学園の中庭のベンチでイチャイチャしながらランチをして、同じ馬車で帰る。腕を組む。たまに街のカフェでお茶もする。そして、二人きりで抱き合って過ごす。
そう、誘惑できちゃったのである。
はっきり言って、ディートハルト殿下は難攻不落の要塞のように隙がなかった。
ライザー侯爵家の令息カルパス様が常に一緒にいるから。彼は殿下の側近だ。おそらく警護も担っているのだろう。容易に近づけない。
美男で身分も高い二人は、学生たちに注目される存在だ。皆が親しくなろうと狙っているのに、平民上がりの男爵令嬢に出る幕はない。
自分の命がかかっていた私が取った行動は、実に単純明快だ。
なりふりかまわず直談判することにしたのである。
最終学年のディートハルト殿下は生徒会長に選出され、放課後は生徒会室で過ごすことが多い。
そこを突撃したのだった。
夕暮れ時の生徒会室には、殿下とカルパス様が居残っていて、鬼気迫るものを感じたのか、初対面にもかかわらず少しだけならと時間を割いてくださった。
私は自分の置かれた立場を洗いざらい告白し、涙を流して訴えた。だって、これを逃したら、もう話す機会は訪れないもの。
「私はまだ死にたくありません。ですから殿下、私に誘惑されてくださいっ!」
最後には、破れかぶれになってそう叫んでいた。
この時初めて、ディートハルト殿下の顔をまともに見た。サラサラした落ち着きのあるダークブロンドの髪と丁寧に磨かれた翡翠のような緑色の瞳が、とてもキレイだった。表情の消えた端正な顔に口元だけ笑みを浮かべている。
王侯貴族というのは、感情を表に出さないように教育されるものらしい。
私の話を聞く間、彼はその顔を崩さなかった。
「……それじゃあ、誘惑されちゃおうかな。君、可愛いし」
殿下が優等生とは思えない軽いノリであっさり了承したあと、作り笑いが本物の笑みに変わった。白い歯が見え、目尻が下がってしわが寄る。ピクリとも動かなかった青白い頬が、生色が戻ったようにほんのりと赤く染まった。
ああ、こんなふうに柔らかく笑う人なんだ。
いい、と思った。
緊張が解けて気がゆるむ。
その直後、「ゴフッ」と奇怪な声が上がった。同席しているカルパス様に目線を移すと、水の入ったコップを手にしてむせている。
いつの間にやら私の目の前にもコップが置かれていて……どうやら魔法によるものらしい。カルパス様の適性は『水』なのかな。
ずっと話しっぱなしで喉がカラカラなので、遠慮なくいただくことにした。
魔法は『火』『水』『風』など、生まれ持った魔法適性と相応の魔力量があれば使うことができる。
魔力量は遺伝するため、血統を重んじる王族や高位貴族ほど魔法持ちが多い。複数の適性を持つ者もいる。大抵の人は全く魔法を使えないか、適性があってもせいぜい一種類だ。
私にも『火』の適性がある。とはいえ、蠟燭に火を灯すくらいの小さな魔法しか使えないけれど。
「ゲホッ、ゲホッ……本気ですか、ハル……いえ、殿下!?」
カルパス様が苦しそうに顔を歪める。咳き込むたびに黒髪が揺れ、スカイブルーの瞳が見開かれた。
殿下は咳が鎮まるのを待って頷く。
「うん、決めた。カルにも協力してもらうよ?」
「もう少し考えてから、お決めになったほうがいいのでは?」
「なんで? アメリーちゃんのことが好きだし、考える必要なんてないよ」
「マジかよ……」
自分の主が浮気宣言したのだから、カルパス様が困惑するのも当然だろう。
私だって絶対に断られると思っていた。だからこのあと、どこか遠くへ逃がしてほしいと交渉するつもりだったんだけど――。
もうこの時には、恋をしていたのかもしれない。
「とりあえず、日も暮れたしそろそろ帰ろうか。送っていくよ」
ディートハルト殿下の手が差し伸べられる。
私は迷わず、その手を取った。
二人の距離が縮まるのは、あっという間だった。
私たちは、意外にも気が合ったのだ。
殿下は村で育った私をバカにしたりしなかったし、私の母親を「領主の慰み者になった女」だと蔑んだりもしなかった。
また、「こんな時のために引き取ってやったんだから、役に立て」などと言うお父様のように、恩着せがましく私を利用する素振りもない。
「私は刺繍よりもパンをこねるほうが得意なのよ。でも焼くのは苦手。いつもちょっとだけ焦げちゃう。村ではパンが焼けなきゃ、嫁のもらい手がないの」
「焦げたパンは大好物だよ。朝はわざとカリカリに焼いてもらってるんだ」
「王宮の朝食って、焼き立てのふわふわ白パンでしょ。あれをカリカリにするの? 白パンに対する冒涜だわ」
「それ、カルにも言われた。でも美味いんだよ、外はカリッと中はフワッとしててさ。マヌカの蜂蜜をつけるともう最高」
「マヌカの蜂蜜なんて希少品を朝から! なんて贅沢なっ」
「ははは、だって王子だもん」
教養の欠片もない会話だ。けれど、こんな他愛ないやり取りが楽しい。殿下の無防備な笑顔が嬉しくて。
「誘惑されてください」なんて大胆なセリフを口にしておきながら、私は『誘惑』のゆの字も知らなかった。
貴族の男女交際? まったく想像がつかない。村の恋人たちみたいに、コスモスの咲く丘で夕陽を眺めるというのは通用しないんだろうな。
貴族のお出かけと聞けば、オペラなどの観劇や夜会がパッと頭に浮かぶけれど、あれは大人のやることだ。
この国の成人年齢は十八歳。王立学園卒業までは、王族であっても学業が優先される傾向にある。
そうなると未成年の令嬢たちや婚約者同士の交流の場の中心はお茶会だろう。でも私には経験がない。男爵家の庶子なんか、誰も相手にしないもの。
だから全面的にディートハルト殿下に委ねるしかなかった。それになぜか「僕に任せて!」と張り切っていて――。
まずは、毎日一緒にランチをすることになった。
「お互いを知るには食事を共にするのが一番だよ」と言われ、それもそうかと納得する。それにお父様に「誘惑しました」と報告したところで信憑性がなければ意味がない。消されないためにも目撃証言は大切だ。
この頃の私は、まだぎこちなかったように思う。
そのうち「食べさせてよ」とお願いされて、お互いにサンドイッチを食べさせ合うようになった。
「ほら、口開けて」なんて言われると、メチャクチャ恥ずかしい。だけど恋人同士なら当たり前だと教えられ、中庭で皆の注目を浴びながら殿下の指ごとハムサンドにかぶりつくはめになってしまった。
次に『腕を組んで歩く』が追加される。
殿下はこれを「エスコートさ。紳士淑女なら普通のことだよ」と説明していたが、学園内の誰一人として同じ歩き方をしている生徒はいない。何かがおかしい。
そもそも学年が違うから一緒に歩くことなんて滅多にないはずなのに、わざわざ教室まで迎えに来るんだもの。でも逆らえっこないじゃない?
殿下の馬車に同乗しカフェに寄り道するようになると、チェリータルトやチーズスフレの美味しさにやられ、次第にそんな違和感も麻痺していった。
お父様が贅沢を許さず自由になるお金をくれなかったので、私は街で買い物すらしたことがなく、スイーツに飢えていた。カフェに貴族用の個室があるって、知らなかったわ!
そしてある時は、ジュエリーを贈られた。
「お揃いで身に着けるんだよ」と。
ペアアクセサリーのことは私でも知っていた。学園内で婚約者のいる令嬢、令息たちの間で流行っているから。ペアのリングやピアス、瞳と同色の宝石だけお揃いにして、アクセサリーが異なる場合もある。二人の仲の良さの表れだ。
私たちの指にはまるシンプルな金の指輪には、緑色の小さなスフェーンがついている。角度を変えるたび、キラキラと赤みを帯びた輝きを放つ美しい石だ。
エメラルド、ペリドット、翡翠、グリーンガーネット、いくつもの種類がある中で、殿下は「君の瞳に似ているから」とこの宝石を選んだ。
私の瞳は殿下と同じ緑なのだが単色ではなく、瞳孔のすぐ近くに赤橙色が混じっている。お父様は青目なので、お母様の遺伝らしい。
緑と橙のグラデーションがかった虹彩を褒められるのは、少しこそばゆい。
「リーの瞳はまるで虹のようだね」「好きだよ」
赤面しながら私も言葉を返す。
「ディーの翠眼もキレイよ」「大好き」
私たちは「リー」「ディー」と呼び合い、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていた。
初めての恋。
初めてのキス。
初めての交わり。
自然な流れで、そうなった。
※※
いつも寄り道するカフェの裏側の一角に、その部屋はあった。
ディートハルト殿下――ディーは何も言わないけれど、おそらく緊急時に潜伏するために、こういう隠れ家をいくつか持っているのだと思う。
そこは我がハース男爵家のタウンハウスより少し簡素で、お祖父様と生活していた村の家よりずっとずっと豪奢なアパートメントの一室だった。
ワンルームの間取りに家具はベッドとテーブルだけ、キッチンとバスルームがついている。生活感は皆無だ。ここで料理なんてするわけないもんね。
放課後の私たちは、よくこの小さなベッドで過ごす。
学業優先のため学園卒業まで主だった公務がないとはいえ、この国の王太子は暇ではない。
生徒会の仕事があるのに大丈夫かしらと思っていたら、ディーは「カルに押しつけてきた」と悪びれもせずに言ってのけた。
ああ、協力ってそういうことか。カルパス様もお気の毒に。
「ランチは大っぴらなのに、こういうことをする時だけコソコソするのって、なんだか変な気分ね」
情欲を吐き出したあと、ほてりの鎮まった裸体を寄せ合う。私はディーの腕におでこをくっつけたり、胸に顎をのっけたりしながら、ふと思ったことを口にした。
「貴族令嬢相手に堂々とやるようなことでもないだろ。バレないように隠れてこっそりっていうのが定石なんじゃないの?」
「まあ、バレたら不味いことをしているのは事実なんだけど」
正真正銘の不貞行為ってやつだからね。
「いいじゃん、背徳的で。たとえ罰を受けても、リーと一緒なら地獄だって天国みたいなものだよ」
ディーは、いつもそうやって軽いノリで涙腺をくすぐるようなことを言う。
だから私も泣かないように「ハイハイ」と軽くかわすふりをする。
「私もよ。ディー、愛してる」
これは本音。
するとディーから「愛してるよ、リー」と返ってきた。「もう一度言って」と甘えると「愛してる」と心地よいバリトンの声が降ってくる。
お祖父様にさえ言われなかった言葉。
おまえが生まれたせいで娘は死んだのだ――そんな鬱憤を理性で抑えているのだと、一緒に暮らしながら薄々感じていた。原因を作った憎い男と同じ亜麻色の髪だから思い出すのだろう。
村人たちは、領主の血を引きつつも、見捨てられたように放置されている娘を持て余していた。冷遇されなかったのは、万が一にもお父様に報復されたらと恐れたからだ。
もしお母様が生きていたら私を愛してくれた? それとも好きでもない男の子どもだと疎んじられたのかな。
ずっと欲しかった言葉をくれたのがディーでよかった。
『あ い し て る』――たったの五文字に、こんなにも心満たされてゆく。
「リーは可愛いなぁ」
何度目かの「愛してる」のやり取りのあとに、ディーは笑いながら、わしゃわしゃと私の頭を撫でた。亜麻色の髪がぐしゃぐしゃになる。
「わっ、やめてぇ~、髪が乱れる!」
咄嗟にディーの手をつかむと、互いのペアリングが視界に入った。二つの石から同時に赤橙色の光が煌めく。わぁ、キレイ!
ディーも同じことを思ったのか、私の指輪にキスをしている。指に唇の感触が伝わり、くすぐったい。
それから私たちは、しばらく雑談に興じた。
隠れ家の窓に西日が差すと、夢から醒めたような、なんとも言えない切ない気持ちになる。
もう帰らなくちゃ。
ディーの顔が近づき、唇に触れた。
それが合図となって、私たちは服を着て日常に戻る。
夢と現実を隔てているのは、身に纏うたった一枚のブラウスの布だ。
ディーの耳たぶのピアスが目に映る。私と出会う前からそこにある金のピアスは、婚約者のエリーゼ様とお揃いだ。
「ずっと一緒にいたからって、恋愛感情が芽生えるわけじゃないんだよなぁ」
交際を始めた頃にディーはそう零していたけれど、ペアピアスを外すほど心が離れたわけじゃない。道を踏み外すほど愚かでもない。
恋情があろうがなかろうが、結局は彼女と結婚するのだ。それが王侯貴族というもので、彼は王太子なのだから。
ディーとの将来を夢見ない私は、けっこう自分をわきまえていると思う。
お父様は『誘惑』が成功したことにご満悦の様子だ。
さすがに、ディーに洗いざらい話したことは秘密にしてある。
「これでハース家はひとまず安泰だ。殿下の卒業までは続けろ。そのあとおまえをフリーデルの家へやる。薬は飲んでいるな? 殿下の子を妊娠したら消されるぞ」
ほくほくした顔でおっかないことを言わないでほしい。
背筋がぞっとなる。この調子じゃ、逃げても消されるんだろうな。大人しくフリーデルの妾になれって?
「せめて学園を卒業させてもらえませんか?」
私の嘆願にお父様は顔をしかめた。
もし愛人をクビになっても学さえあれば、どこかの商会で働けるかもしれない。女性の働ける場所は少ないので、僅かでも可能性があればと淡い期待を抱いていたのだけど……。
「女に学は必要ない。ただでさえ成績が悪いのに授業料の無駄だ」
一蹴されてしまった。なんという女性蔑視! 時代錯誤だわ。
しかし、お父様世代では『女性は結婚して子を産み、家のために尽くすもの』という考えが根強いのも事実だ。前王の政策で王立学園が創立されたあと、男女同じ学び舎で勉強するようになったのは、わりと最近の話らしい。
「それに殿下との仲が学園内で醜聞になっているはずだ。そのまま通うわけにもいくまい。諦めろ、アメリー」
醜聞と言われて肩を落とす。
学園内で私たちの仲を知らぬ者はいない。そりゃ、あれだけ派手にベタベタしていたら当然だけど。
「ディートハルト殿下が平民上がりの男爵令嬢の虜になっている」
「殿下は男爵令嬢を優先して、婚約者のエリーゼ嬢を蔑ろにしている」
「このままでは婚約解消になるのではないか」
「エリーゼ様が嫉妬のあまり男爵令嬢をイジメている」
真偽はともかく、数々の噂が飛び交っていた。
その中には「男爵令嬢が高価なドレスや宝石を強請っている」というものまである。私はディーに何も強請ってないってば!
「殿下は婚約を解消するつもりはないと思います。バーデン家の狙いは何なんですか?」
お父様の表情が険しくなった。もともと深い眉間のしわが、更に深くなっている。
「おまえにそこまでの魅力がなかったということだな。まあ、いい、依頼は果たしたんだ。バーデン家の考えなどわからん。我々は単なる駒にすぎんのだ。長生きしたかったら余計な詮索はするんじゃないぞ。わかったな」
「はい」
厳重に言い渡されてしまい、私は渋々頷くしかない。
お父様にしてみれば、無事に依頼を終えたあと、私を厄介払いできればそれでいいのだ。現在、ハース男爵夫妻は別居状態だ。三年前に隠し子の存在が明らかになったことで、お義母様が怒って領の別邸に居を移してしまったから。さすがにこのままでは体裁が悪いと思っているのだろう。
ディーの卒業後は、本格的な結婚準備に取りかかるらしい。挙式の日程が決められ、衣装合わせや招待状の送付、パレードの手配、王太子妃になるエリーゼ様には数か月ほどのお妃教育が施される。
彼女のような完璧令嬢に、これ以上どんな教育が必要なの? と驚くけれど、それが慣例なんだとか。
やはり雲の上の人たちなのだと改めて思う。住む世界が違いすぎるの。私とは。
※※
成績は下の下だけど、私は勉強が嫌いではない。
村では食うために子どもだって働く。畑の手伝い、弟妹の子守や家のこと。勉強は二の次にならざるを得ず、識字率は高くない。本も贅沢品だ。
それは私も例外ではなく、幼い頃から家庭教師がいる貴族子女とでは素地に差がありすぎるのだ。学園で成績上位なんて土台無理な話だ。
これでも自分ではかなり頑張っていると思うのよ? だけど――。
「あら、ご覧になって? 教科書が……まあ、大変!」
「自分で教科書を破るなんて、授業をサボるおつもりかしら? 元平民の考えることはわかりませんわね」
「わからなくて当然ですわよ。婚約者のいる殿方に擦り寄るような非常識な方ですもの」
やられた! ちょっと席を外した隙に教科書がビリビリに破かれていた。
令嬢たちから、クスクスと笑い声が上がる。一方、令息たちは見て見ぬふりだ。
こちらのほうこそ貴族令嬢の考えることがわからない。下品な嫌がらせをしておいて、自分のことを本気で淑女だと思ってる?
あーあ、本は贅沢品なんだってば。この一冊だけで喜ぶ人たちがいるっていうのにもったいない。
「こちらを睨んでいらっしゃるわよ。怖い、怖い」
「こんな恐ろしい顔をなさる方だと知ったら、殿下も目を覚まされるに決まってますわ」
彼女たちに言っても無駄か。金持ちだし、庶民の生活に興味はないんだろうな。
私はため息を吐き、教室を出て学園内にある図書館に向かった。教科書がなくては授業を受けられないので、自習しようと思ったからだ。
それはそれで「授業をサボっている」と新たな悪評の火種になるだろうけどしょうがない。
私はディーと仲良くなるにつれて、こうした嫌がらせをされるようになった。
最初は「殿下を誑かすなんて、これだから元平民は」とか「貴族のマナーをご存じないのでしょうが、婚約者のいる殿方と親しくするのはご法度でしてよ」とか「さっさと別れたほうが身のためですわよ」なんてチクチク嫌味を言われる程度だったのだが、徐々にエスカレートして教科書やノートを隠されたり、すれ違いざまにぶつかられたりするようになっていった。
親切心で警告してくる者、二人の仲を妬む者、元平民の男爵令嬢が気に入らない者、アンテス公爵家の派閥に属する者――いろいろな立場の令嬢たちが入り乱れ、ここまでくるともう立派なイジメよね。
でも、ディーを誘惑したのは私だから甘んじて受け入れる。覚悟の上だ――。
「もしよろしければ、これを」
自習中、私の机の上に真新しい教科書がスッと差し出された。顔を上げると同じクラスのハンス・ベック様がいる。確か伯爵家の令息だ。
嫌がらせのあと、たまにこうして助けてくれる人が現れることもある。バーデン公爵の息のかかった家の者なのかな。
「ありがとうございます……?」
私が首を傾げると、彼は私の疑問を正しく理解して「えっと……僕はカルパスの従弟だから」と答えた。そして、ためらいがちに口を開く。
「本当はあいつが殿下をお諫めするべきなのに、僕にフォローを頼むなんてどうかしているよ。アメリー嬢、君は絶対に王太子妃になれない。それでも殿下と一緒にいる意味はあるの? いい加減、諦めたら?」
それは至極もっともな指摘だ。カルパス様の行動は、王太子の側近として間違っている。きっと父親のライザー侯爵から叱責されていることだろう。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。私はただ殿下をお慕いしているだけなのです」
私は素直な気持ちだけを伝えて深々と頭を下げた。それしかできなかったから。
神妙な態度に虚をつかれたのか、ハンス様は「あ……いや、てっきり王太子妃になりたいだけなのかと……その、すまなかった」と謝罪してから、あたふたと教室に戻っていった。
王太子妃になりたいだけ――か。考えたこともないよ。
私はそのあとも授業に出ることはせず、ここで自習して過ごした。
私はイジメられていることをディーに告げられなかった。
知られるのが恥ずかしかったし、その恥ずかしさを隠すことが、助けを求めることよりもずっとずっと大切だった。
あの美しい翠眼には、虐げてもいいと思われているみじめな人間ではなく、愛される価値のある存在として映されていたかったのだ。
けれども彼は、誰か別の人の報告で今の状況を把握していたのだろう。
「これはどうした? 誰にやられた」
隠れ家のベッドで、ディーが足の甲の青あざを目ざとく見つけて問い質す。
私が自分でうっかりぶつけたとは考えないんだ。この調子ではわざと足を踏まれたんだって教えなくても、もうわかっているはず。
「名前も知らないご令嬢よ。ぶつかった拍子に誤って踏んじゃっただけ」
私がはぐらかすとディーは不機嫌そうに眉を顰める。
「リー、放って置くとああいう連中はどんどん図に乗る。現に『男を誑かす悪女』だと酷い噂が広まっているんだ」
「本当のことだよ。今だってディーを誑かしてる。それに卒業までたった三か月だし、そのあとは退学することになっているの。だから大丈夫よ」
「リー……」
何か言いかけて諦めたように口を噤んだ。それから私の足を両手で包んで呪文を唱える。青あざが少しずつ消えていった。
治癒魔法だ。初めて見た。
ディーには『風』と『癒』の魔法適性がある。癒し魔法の使い手は貴重なので、どこの国へ行っても爵位を与えられ、高給で雇われる。ディーは本当にすごい!
魔力を消耗すると疲れるらしい。ディーは私の足を治したあと、隣で寝息を立て始めた。
暇なので頬杖をつきながら、じっと寝顔を眺めている。
「大好き。それから……ごめんね。私が――」
私がディーの経歴を傷つけた。あの日、生徒会室で直談判しなければ、醜聞まみれの王太子にならずにすんだのに。
私なんか黙って消されていればよかったんだ。望まれて生まれてきたわけじゃない。要らない子だったんだから。
今頃になって後悔している。
不意に涙が溢れてディーの頬に落ちた。慌てて拭う。そのうちに私も眠ってしまった。
「あー、そうだ。ドレスを贈るよ」
夕方、ひと眠りしてスッキリした顔になったディーが、シャツのボタンを留めながら思い出したように言った。
私も身支度を整え、髪にブラシを当てている。
「ドレス?」
着て行くところなんてあったかしら?
「卒業パーティー用のだよ。卒業生の同伴ならリーも出席できるから」
「ええっ、だってディーはエリーゼ様と……」
一緒じゃないの?
パーティーであれば、婚約者をエスコートするのが常識だろう。私の出番なんかない。
「大丈夫だよ、カルがいるから。最後だし、踊ろうよ」
ディーの口調は軽い。
なるほど。つまり私は、まだ婚約者のいないカルパス様のパートナーとして出席するわけね。
最後だし、か。そうだね、これが最後。
「うん……」
「じゃあ、近々、デザイナーを呼ぶからね。ヨロシク!」
ディーが、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「わっ、やめてぇ~! せっかく髪を整えたのにっ」
私が抗議すると、ディーは「リーは可愛いなぁ」と笑いながら風魔法を使い、一瞬で乱れた髪を元に戻したのだった。
※※
「ハース男爵令嬢、お願いですから、少しは自分の立場をわきまえてください。ディートハルト殿下は、もうすぐ王太子として正式にお披露目されます。このままでは各国から失笑を買うでしょう。あなたのせいで殿下に迷惑がかかるのですよ」
毅然とした態度で私に相対するのは、エリーゼ様だ。
彼女の透き通るような白い肌とキラキラしたサファイアのような瞳に吸い込まれそうになる。プラチナブロンドの艶やかな髪を腰まで伸ばし、毛先を巻いている。
私もロングヘアだが背中までしかない。ストレートのまま髪飾りもしていない。エリーゼ様のように身の回りの世話をする侍女がおらず、髪のお手入れにまで手が回らないからだ。くるくるのカールとかサイドを複雑に編み込んだハーフアップとか、どうやってやるの?
頭のてっぺんから爪先まで磨き抜かれたこの完璧な美こそ、深窓の令嬢の証だ。
もちろんエリーゼ様は私の知り合いではないし、話したこともない。
今こうして辛辣な言葉を浴びせられているのは、図書館を出たところで偶然かち合ってしまったから。
面と向かって直接はっきり言われるのは初めてだった。彼女は婚約者の浮気について沈黙を貫いており、私を呼び出すことも会いに来ることもなかったのだ。
「そうですわ。殿下にはエリーゼ様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるのです。それなのに愛称で呼んだり、腕を絡ませて胸を押しつけるなど言語道断。たかが男爵家の令嬢風情が殿下に声をかけること自体、身の程知らずですわ」
エリーゼ様に加勢するのは、侯爵家の令嬢イルゼ様。仲がいいなと思う。私には親友がいないから羨ましい。
彼女もれっきとした深窓のご令嬢だ。よく手入れされた赤毛が、これほど美しいものだということを今知った。まるで深紅のガーネットのよう。
ディーが私とつき合うまでは、エリーゼ様とイルゼ様、カルパス様と四人で一緒にいるのをよく見かけた。
今は私がディーとカルパス様といるので、「男爵令嬢はカルパス様のことも誑かしている」と陰口を叩かれている。カルパス様はディーの側近だから離れられないだけなのにね。
「申し訳ございませんでした」
学園内でも「ディー」と呼ぶのは本人の希望だ。けれど公爵家と侯爵家の令嬢相手に、そんな言い訳は通用しないだろう。
これでもクラスの令嬢に叱られ始めた頃は、一応「殿下の命令なので」って反論したのよ? そうしたら生意気だって火に油だったんだもの。
そんなことを思い出しながら、私は素直に頭を下げた。
「今後は殿下に近づかないよう……」
「リー! 何やってるの?」
背後からディーに呼ばれ、イルゼ様の言葉が遮られた。
ディーの声に怒りが混じっていて、足早にやって来るのが気配でわかる。カルパス様も一緒だ。
エリーゼ様とイルゼ様を盗み見ると、突然現れた二人にびっくりしている。
「ハース男爵令嬢に偶然お会いしたので、もう少し慎んだ行動をしていただくようにお願いしていたところです」
ディーに睨まれたエリーゼ様は、ばつが悪そうにうつむいた。
イルゼ様も気まずそうに目を泳がせる。が、腹に据えかねるものがあったのか「さすがに愛称で呼ばせるのはいかがなものかと……」と苦言を呈した。
「リーの行動は僕がそうさせているからで、彼女のせいじゃない。それに君たちだって愛称で呼ぶじゃないか。自分たちはよくて、どうして彼女だけがダメなんだよ? おかしいだろ」
「彼女は男爵令嬢なのよ? 身分が違いすぎるわ。あなたにはふさわしくない。わたくしは、ハルトが不幸になるのを黙って見てはいられないの」
エリーゼ様が訴えた。
ディーの周りの人たちは、『ハルト』と愛称で呼んでいる。カルパス様もこの呼び方だ。
「僕はそうは思わない。この学園は身分に関係なく交友を深めるために創立されたものだ。下位貴族と親しくして何が悪い。男爵家だからふさわしくない? 少なくとも二対一で相手に詰め寄る卑怯な者よりは、ずっと好感が持てるよ。僕の幸せを君の物差しで決めつけないでくれ」
卑怯者と断じられて、エリーゼ様とイルゼ様の顔が引きつった。
ディーはイライラを隠そうともしていない。
「……本気ですのね?」
エリーゼ様が問い、ディーが「ああ」と答える。目線が交わり火花が散っているように見える。
私は止めに入るべきか迷った。確かにこの学園では学生同士の活発な交流を教育理念に掲げているので、あまり上下関係に厳しくはない。だからと言って不敬が許されるわけではなく、王子と公爵令嬢の間に割って入るには勇気が要るのだ。
「そろそろ行こうよ、ハルト。時間がないからここまで迎えに来たんだろう?」
私がのろのろしている間に、カルパス様が収拾に動いた。
するとディーが矛を収めて言う。
「あ、そうだった。今日からカフェの新作スイーツが発売されるから、売り切れる前にリーと食べようと思って」
それを聞いたイルゼ様がギロッと私を睨む。こわっ!
でも、ディーが悪い。婚約者の前で他の女性を誘うなんて。
「で、殿下、今日はやめたほうが……」
お断りの返事をしようと口を開くけれど、今度はディーの顔が怖くて尻つぼみになってしまった。
「『殿下』じゃないよね?」
「デ、ディー」
「うん。新作はリーの好きな桃のコンポートをふんだんに使った数量限定のタルトなんだ。今日を逃せば、もう食べられないよ?」
「な、な、なっ!」
なんですって! と叫びそうになって、慌てて口を押えた。しかし『食べたい!』と顔に出ていたのだろう。
ディーがニヤリと笑みを浮かべて手を差し出す。
「ほら、行こう」
板挟みになってしまった。なら、私の選択は一つだ。
ごめんなさい。好きな人と桃の魅力には抗えません!
「はい」
私はディーの手を取り、グイッと引っ張られるようにこの場を後にした。
大丈夫。彼の耳には、まだ金のペアピアスが光っている。情勢に変化なし!
この恋の結末は決まっている。卒業までだ、と。
ごめんなさい、エリーゼ様。本当に、ごめんなさい。もう少しだけ――。
どんな罰でも受けますから。
その三日後。
私は学園の階段を転がり落ちていた。
「きゃあ!」
誰かが私の背中をドンと押したのだ。
身体を何度も打ちつけながら、ああ、これは罰なんだと思った。
※※
転落の痛みで動けなくなっていた私を医務室まで運んでくれたのは、ハンス様だった。
タイミングよく現れたのは、どうやらカルパス様に頼まれて、私の監視のようなことをしていたらしい。医師の治療を受けている間に「殿下に知らせてくる」と出て行ってしまった。
私は、ぼーっとしている。口の中が切れて出血し、頬には擦り傷。身体のあちこちが打ち身になっているけれど、運よく骨折はしていないし頭を打ったわけでもない。ただ、精神的ショックがあとから襲ってきて、脳みそが上手く働かないのだ。
「軽傷ですんでよかったですね。頭を強打していたら大変だった」
私の頬の傷にガーゼを当てている中年の医師に、
「私は頑丈なんです。田舎育ちのせいですかねぇ。紅茶よりミルクを飲む回数のほうが多くて」
そんなしょうもないことを話している。
ハハハ、と医師が笑った。
「目の充血は徐々に引いていくでしょう。打ち身のあざが完全に消えるのには、二、三週間かかります。傷は残らないので安心してください」
説明を受けている途中、ディーが慌てた様子で入室してきた。そのあとにカルパス様が続く。
「リー! 階段から突き落とされたんだって?」
肩で息をしている。急いで駆けつけてくれたのだ。
「大丈夫よ、ディー。たいした怪我じゃないの」
ディーが一息吐き、安堵の色を見せた。
「殿下、いくら心配だからって婦女子のいる医務室に断りもなく乱入するなど、紳士の振る舞いではございませんぞ」
苦笑しながら医師が窘める。それから「学園長に報告してきます。少しの間、ご令嬢をお願いします」と気を利かせるように席を外した。
医師がいなくなるなり、ディーが私の手を握る。充血した赤い目を見て痛ましげな表情になった。
「ごめん、僕のせいだ。まさかこんなに堂々とリーに危害を加えるなんて……。治癒魔法をかけてあげたいけど、傷害事件だから証拠を消すわけにいかないんだ。調書を取るまで、もう少しだけ我慢して」
「いいのよ。傷跡は残らないと先生がおっしゃっていたわ。それよりも、ディーが来てくれて嬉しい」
「リー……」
ディーの顔が私の唇に近づく。すると医務室のドアの前からゴホンと咳払いが聞こえた。
「俺もいるんだけど?」
カルパス様の顔が赤らんでいる。
あ、存在、忘れてた! だって気配を消しているんだもの。
「カルパス様にもご心配おかけしました」
カルパス様がハンス様に頼んでいたお陰で、こうしてスムーズに医務室に運ばれ治療を受けられたのだ。もし一人だったら、誰の手も借りられず自力で起き上がって……ということになっていたのかもしれない。
「ハンスが犯人の姿を見ている。子爵家の令嬢だそうだが、命じた者がいるはずだ。黒幕まで捕らえられるかはわからない」
確固たる証拠がない限り権力で握りつぶされるだろうから期待できない、とカルパス様が状況を説明した。
「無理だろうな。その子爵令嬢が退学になって終わりだと思う。……ったく、アンテス家は何をやってるんだ」とディーが憤る。
「ディーはアンテス家の仕業だと考えているの?」
「あー、いやそうじゃなくて、アンテス家のご機嫌取りをする連中の暴走というか……。彼らは、王太子の寵愛を一身に受けるリーが邪魔なんだよ」
「自分で寵愛とか言っちゃう?」
気恥ずかしくて、つい関係のないところを突っ込んでしまう。
ディーは、それを「うん。だって事実だし」と軽くいなして続けた。
「本来であれば、学園内は安全なんだ。王侯貴族が在籍する学園の治安が悪いなんてイメージダウンだろ? 前国王が創立者だから、王家の沽券にもかかわる。だから園内で事件を起こさないのは、創立以来守られてきた不文律だった。それなのにリーがあからさまに攻撃されたということは、アンテス家は派閥の統制ができていないか怠ったんだよ」
アンテス家には管理責任があるという考えらしい。
現在、学園で最も身分の高い生徒は、ディーを除けばアンテス公爵家のエリーゼ様、次いで親戚筋に当たる侯爵家のイルゼ様だ。
バーデン家、シュレーゲル家の令息、令嬢が不在のため、今はどうしてもこの二人の影響力が強くなる。その彼女たちの不興を買っているのが私……元平民のアメリー・ハースなわけで。
任務失敗でバーデン家に消されることばかり考えていたけれど、成功したらしたでアンテス家に消される可能性があるってこと、すっかり失念していたわ。
「エリーゼ様の気持ちを考えれば仕方ないわよ。だって私はディーを奪ったんだもの。殺されても不思議じゃないと思う」
ディーがぎょっとして「僕とエリーゼの間には、誓って恋情はないよ」と言う。
「信じて、リー」
ガーゼを当てていないほうの頬をそっと撫でられる。その指には私と同じスフェーンの指輪がはめられていて。
「わかった、信じる。ディーに恋情はない、でも……」
でも、本当にエリーゼ様に恋心はないの? ――ディーの金のピアスを見つめ、私は言葉を呑み込んだ。
「でも?」
「ううん。なんでもない。私はディーがいればそれでいいの」
微笑むと、ディーが傷に触らないように優しく私を抱きしめる。
そしてまたドアのほうから、ゴホンとカルパス様の咳払いがした。
私を突き落としたのは、顔も知らない子爵令嬢だった。
本人は泣いて謝るばかりで、誰にも命じられていないと頑として口を割らない。子爵家には借金があり、病弱な弟がいた。所詮、私と同じ捨て駒だったわけだ。
「え? 突き落とされた? いいえ、手に持っていた教科書を落としてしまったので、拾おうとした拍子にバランスを崩してそのまま転んでしまったんです。階段の前だったのが運の尽きですね。目撃証言? 見間違えでしょう。はい、私が勝手に落ちたんです」
私は学園長室で自分で落ちたと証言した。
ディーは「きちんと訴えるべきだ」と渋い顔をしていたけれど、どうせ黒幕は捕まらないのだからと押し切った。
「トカゲの尻尾なんて裁いても意味ないもん。その子爵令嬢だって、私と同じように脅されたんだと思うの。『家を潰す』とか『借金のかたに娼館に売る』とかね。私のことはディーが救ってくれたけど、彼女には誰もいなかった。ただ、それだけだよ。それに王立学園で事件は起きないほうがいい。でしょ?」
「それはそうだけどさぁ」
納得がいかない、というような顔でディーはブツブツ言っている。
しかし最終的には、私の希望どおりに処理された。
そしてこの出来事を境に、私への嫌がらせが減った。学園の調査が入ったことが、彼女たちへの牽制に繋がったのだろう。
ああ、平和だ。
※※
卒業パーティーの二週間ほど前にドレスが届いた。
光沢のある白いドレスだ。飾りはウエストの切り替え部分に、ディーの色である深緑のリボンだけ。けれど、同包された真珠のネックレスと合わせれば、それなりに華やかだ。
目立ちたくないので、なるべくシンプルなデザインを希望した。『高価なドレスや宝石を強請っている』という噂を気にしたのもある。
「おまえは、本当に殿下に寵愛されていたんだな」
これを見るまでは半信半疑だったとお父様は感心している。
真珠のネックレスの留め金具に前王妃のお印がある。ディーにとっては、母親の形見だ。そんな大切なものを私なんかのために――と胸が熱くなった。
「ネックレスは売るなよ? 窃盗を疑われる。おそらく殿下にお返しすることになると思うがな。ドレスは売ってもいい。金になる」
「売りませんよ!」
「夢は見るなと言っているんだ。思い出の品なんか何の役に立つ?」
「夢なんかっ……身の程はわきまえています」
「なら、いい。卒業パーティーのあと、フリーデルの部下が迎えに来るからそのつもりでいろ」
お父様は、言いたいことを言うと手元の書類に視線を落とした。それから退室を促すようにシッシと手を払う。
用はすんだと言わんばかりの態度にムッとして、私は返事もせずに黙って執務室を出た。
パーティーの日だなんて、ずいぶんと早い。でもわかっている。
王立学園の卒業式と同時に、社交シーズンが本格的に幕を明ける。王宮の舞踏会を皮切りに、いろいろな催しが行われるのだ。
だから今シーズンに間に合うように私を追い出し、一刻も早くお義母様を呼び戻したいのだろう。それがハース男爵家のため。お父様はそういう人だ。
パーティーの前日、私たちはあの隠れ家で落ち合った。いわば最後の逢瀬といったところだ。
改めて部屋を見渡してみれば、初めて訪れた時と何も変わっていない。ベッドとテーブル、ただそれだけ。物が増えたわけでもなく、私が消えてもなんの痕跡も残らない。
なんとなく悔しくてベッドの脚に爪を立ててみたけれど、小さな傷一つつかなかった。
私たちはいつものように抱き合い、くだらない話をして過ごした。
「最近、刺繍を始めたのよ。新しく入ったメイドが得意でね、教えてくれたの」
「えっ、リーが? どういう風の吹き回しだろう。雨でも降るんじゃないか?」
「こういう風の吹き回しなのよ」
ディーに刺繍入りのハンカチを渡す。
「おおっ、僕のイニシャルが入ってる! 上手じゃないか」
「これも」
もう一枚、追加する。
「こっちは、星だな」
「ブブー! 違います。ひまわりよ」
「ははは、黄色いから星かと思った」
こんなものでディーに自分の痕跡を残そうなんて、我ながら小癪だ。やっぱり返してもらおうと「失敗作だから見せるだけ」と言ったら、「せっかくだから家宝にする」と取り上げられてしまった。
こんな駄作が歴代王の宝物庫へ? うわ、それは痕跡ではなく人生の汚点だわ。
そうこうしているうちに日が傾き始め、別れの時間が近づく。
「もう少しだけ一緒にいたいの」
離れがたくて思わず引き止めた。
「今日のリーは甘えん坊だなぁ。明日はパーティーだから早めに帰ったほうがいいんじゃないか?」
「でも……最後だから」
「あ、そうか。ここに来るのも、もう最後か。じゃあ、もう少しだけ」
ディーの手が伸びてきて、私の髪を弄び始める。
指にくるくると巻きつけたり、毛先にキスしたり、頭をわしゃわしゃしたり、また整えたり。
私は、その感触を記憶に刻みつけるように味わっていた。
翌日は刺繍を教えてくれたメイドのマーヤさんの手伝いでドレスを着た。
ケチなお父様も日常生活に不便がないように、料理人を含め数人の使用人をこのタウンハウスに置いている。
その中でも新入りのマーヤさんはとても有能だ。家はいつもピカピカだし、勉強中に差し入れてくれた紅茶も、淹れる人によってこんなに味が違うの? とびっくりするくらい美味しかった。きっと料理も上手なんだろうな。
彼女の担当は掃除と洗濯なので、私の専属というわけではない。だからお給金以外の仕事をさせるのは気が引けるのだけど、「せっかくのパーティーなんですから」とササッと私の髪を結ってくれた。親切な人だ。三十代半ばで、息子がいるらしい。何くれとなく世話を焼いてくれて、なんだか肝っ玉母さんみたい。
「お美しいですよ、お嬢様。きっと殿下もお喜びでしょう」
仕上げにパールのネックレスを留めてくれたマーヤさんが、涙目になっている。本当にいい人だ。
この家を出るのに荷造りまで手伝わせてしまったので、お礼にイニシャル入りのハンカチをプレゼントして迎えの馬車を待つ。
緊張して胸がドキドキする。
しばらくして馬車に乗って現れたのはディーだった。
え、なんで? エリーゼ様は? 私のエスコートはカルパス様じゃないの?
「ドレスまで贈ってるのに、なんでリーのエスコートをカルがするのさ」
勘違いをしていた私に、ディーがむくれた。
「え? だってディーが『カルがいるから大丈夫』って言ってたから」
「カルがエリーゼをエスコートすればいいだけだろ? この卒業パーティーは、あくまで学生主体の略式パーティーだからね。わりと自由だよ」
どうやら思っていたより気軽なパーティーらしい。父兄の参加がないので学園に婚約者がいない場合は、クラスメイト同士でエスコートを頼んだりするそうだ。
そう言われると、肩の力が抜けてくる。
ディーがクスッと笑って手を差し出す。
「贈ったドレスを着てくれて嬉しい。とてもキレイだよ」
「ありがとう。メイドのマーヤさんが手伝ってくれたの」
私はディーの手を取り、馬車に乗り込みながら答える。
その時、ちょうどマーヤさんが大きなトランクを抱えて走ってきた。私の所持品はすべてこの中に入っている。
「お嬢様、荷物をお忘れですよ」
「え? あ……」
一旦、家に戻るつもりだったので、呆気にとられた。
まさかお父様の指示? パーティーのあとって、まさか学園から直行ってこと? そんな情け容赦ない……けど、お父様ならあり得る!
これ、邪魔になるよね。どうしよう……。
「荷物はこれだけ? 学園の控室に置いておけばいいよ」
私がボケッとしている間に、ディーがさっさと御者に指示して馬車に積んでしまった。
こんなトランク一つで妾に出されるのを見られたのかと思うと、顔から火が出そうになる。けれどディーが気づいた様子はなく、馬車は出発した。
二人でいられる最後の時間だから別れ話をすべきかどうか迷ったけれど、とうとう言葉にできなかった。
「ディーの足を踏まないように、マーヤさんがダンスの練習につき合ってくれたのよ。彼女、なんでもできるのよねぇ」
私たちの口から紡がれる会話は、やっぱりとりとめのないことばかりで、もう二度と会えなくなる悲壮感がまったくないのだった。
「リー、ごめん。ダンスだけど、ちょっといろいろあって踊れないかもしれない」
急にディーが真面目な顔になった。
あ、踊れないんだ。やっぱりエリーゼ様の前ではダメだよね。
身体の熱がスッと冷める。
どうやら私は、ディーとのダンスを楽しみにしていたらしい。
「うん、わかった」
顔には出していないつもりだったけれど、私の元気がなくなってゆくのを感じたのか、向かい側に座っていたディーが隣に移動してきた。
「ごめん。でも大事なことだから」
ディーが私の肩を抱く。
それからは、お互い無言になった。
私はずっとディーの胸に頬を寄せていた。
会場に到着すると馬車がゆるりと停止し、扉が開かれる。降りなくては。
ディー……私のディー、今までありがとう。
さようなら、と心の中で呟いた。
※※
パーティー会場は、学園の敷地内にある。王侯貴族が集うだけあって豪華だ。
煌めくシャンデリア、令嬢たちの華やかなドレス。この日のために王家お抱えの一流楽団が優美な調べを奏でようとスタンバイしている。
私は、目を見張るほどのきらびやかさに委縮した。
どこが気軽なパーティーなんですって? これで略式なら、本格的な王宮舞踏会の素晴らしさは想像もつかない。
右も左もわからないぽっと出の私は、ただ大人しくディーの腕につかまって歩くしかない。
けれど――これは一体どういうことなの?!
「エリーゼ嬢、私は君との婚約を破棄する。アメリーを愛しているんだ。王太子を辞し、王位継承権を放棄して彼女と添い遂げたいと思っている」
いよいよパーティーが始まろうかという頃、ディーは私を連れてエリーゼ様の前まで歩いていくと、大きな声でそう宣言したのだ。
そりゃ、びっくりするでしょ? こちらは失恋する気満々で、ずっと気が塞いでいたんだから!
大勢の前で口にしたことは、もう取り返しがつかない。
どうしちゃったの? あなたは優秀な王太子だったはず。こんなところで人生棒に振るなんてあり得ない。
会場は水を打ったように静かになった。誰もがこのあとの展開を固唾を呑んで見守っている。
私はディーの腕をぎゅっとつかんだ。添い遂げたいと言われた嬉しさよりも、王位継承権放棄の衝撃のほうが勝った。私にそこまでの価値、ある? ないよね?
空色のドレスを纏ったエリーゼ様の隣には、カルパス様がいる。さすが高位貴族。二人ともスッと背筋を伸ばし、動揺した様子はなかった。
「婚約破棄を受け入れます。殿下、わたくしは、これで失礼しますわ」
エリーゼ様は悠然と微笑み、優雅にお辞儀をしてからゆっくりと踵を返した。
その絶妙のタイミングで、カルパス様が手を差し伸べる。
「エリーゼ嬢、お手をどうぞ」
「ありがとう」
エリーゼ様はカルパス様に伴われて、出口に向かって歩いてゆく。
完璧なエスコートだ。美男美女。人垣が割れて扉までの一本道ができる。まるで一つのショーを見ているようだ。
「ディー……本当にいいの? 引き止めれば、今ならまだ間に合うかも」
私はディーの袖を引き、小さな声で耳打ちする。
ディーもまたヒソヒソ声で「いいんだよ」と返事をした。
「あとで事情を話すけど、あの二人は相思相愛だから」
「え? じゃあ、そのペアピアスは?」
そうよ、ピアスよ。二人の絆の証。『最後は君のもとに戻るよ』というサインのようなものだと考えていたのに、カルパス様と相思相愛? それでこの茶番なの?
「ピアス? ああ、これは……」
とその時、二人の花道を遮るように一人の令嬢が躍り出た。
「お待ちくださいっ!」
イルゼ様だ。赤毛に合わせた美しい深紅のドレス。だが、身体が黒いオーラに覆われている。これは呪いの魔力? 暴走しかけているの?
『呪』の魔法は魔力の消費が非常に激しく、どんなに魔力の多い人でも「一日だけ悪夢を見せる」や「数日間、顔を吹き出物だらけにする」などの期間限定の軽い呪いが精いっぱいなので、命を奪われる心配はない。しかし『数時間だけ相手を魅了する』といった人の精神に働きかける魔法も含まれるため、特別な許可がない限り『呪』の魔法の使用は固く禁じられている。
普段は魔法を発動できないようにするための専用アクセサリーを身につけているのだが、魔力が暴走するとその拘束が外れてしまう場合がある。
暴走し制御不能に陥った魔力は、人を傷つける恐れがあるため危険だ。
周囲がざわつく。と同時に後ずさりながら、イルゼ様から遠ざかっていく。
ディーが「絶対に僕から離れちゃダメだよ」と私の腰を引き寄せた。
「イルゼ?」
エリーゼ様も親友のただならぬ様子に気づき呼びかける。
イルゼ様は、それには返事をせずに、フラフラと私とディーの手前まで近づいてきた。
会場の警護をしている兵士たちに緊張が走る。
「殿下……なぜ男爵家の庶子などをお選びになるのですか?」
「イルゼ、ゆっくり深呼吸するんだ。これ以上、魔力のコントロールができなくなれば暴走する。廃人になる可能性だってあるんだ」
ディーがイルゼ様を落ち着かせようと話しかけるが、聞こえていない様子だ。正気を失っているのか目が据わっている。
「殿下にその娘がふさわしいわけないでしょう? だったら、わたくしのほうがずっとずっとマシです。隣にいるのが優秀なエリーゼだからこそ辛抱できたのに……わたくしはハルトを諦めたのに……破棄……ならわたくしでいいじゃないですか。なのにどうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてそんな女を選ぶのです? なぜ、なぜなぜなぜなぜ……わたくしではないのですかっ」
ぶわりと黒いオーラが膨張する。
「ダメよっ、イルゼ!」
エリーゼ様が焦ったようにイルゼ様へ駆け寄ろうとした瞬間、黒いオーラが私とディーを襲った。
何も見えない。私はぎゅっとディーに抱きしめられる。
パリンッ!
氷の割れるような音とともに、一瞬にして黒いオーラが消えた。ディーを見ると金のピアスの片方が砕けている。
そして視界が晴れた先には、イルゼ様が倒れていた。
「早く、医務室へっ!」
警備兵たちが駆け寄り、担架に乗せて運んでいく。
エリーゼ様とカルパス様も付き添うように追いかけていった。
生徒たちは、呆然としながら彼らを見送っている。
「リー、大丈夫?」
「うん、平気よ。でもディーのピアスが……」
「これは『呪』魔法防御のアクセサリーだからいいんだよ。為政者が精神を操られないように、王家の者は必ずつけているよ。もう片方は毒無効の効果がある。エリーゼも王太子の婚約者だったから」
なんだ……そうだったのか。
ピアスはペアじゃなくて、ディーは、本当に私だけのディーだったんだ。
「リー、僕と結婚してくれる? 王太子も辞めるし、これでリーに捨てられたら行くところがないんだ」
ディーが私を抱きしめたまま求婚する。
行くところがないだなんて。なら、もらってもいい? 村娘はたくましいのだ。どんな生活だってディーと一緒なら天国だ。
私はポロポロと泣きながら「うん」と頷いた。
「毎日、パンを焼いてあげる。ちょっと焦げたやつ。貧乏生活は慣れてるから任せて」
涙が止まらない。気持ちのタガが外れたみたいだ。急に腰が抜けて、ガクンと体勢が傾く。
「えっ、ちょっと、リー!」
ディーが咄嗟に私を横抱きにした途端、なぜか拍手が沸き起こった。
令嬢たちから「お二人は真実の愛で結ばれたんだわ」とかなんとか聞こえてきたような気もするけど、よくわからない。
その時にはもう、ディーの腕の中で意識を手放していたから。
※※
「エリーゼと婚約破棄することは、最初から決めていたんだ。だって自分の妻と側近が相思相愛なんだよ? そんな歪な関係が一生続くのかと思うとうんざりしちゃってさ。それでもユリアンが無能なら、これも国のためだと諦めもつくけど優秀なんだよ。僕より血筋もいいし。だったら、ユリアンが次期国王になればいいって思うだろ? だけど王命は簡単に取り消せない。病気になったとか不祥事を起こしたとか相応の理由がない限り、婚約は継続されるわけだ。そんな折にエリーゼの兄とシュレーゲル家の縁組だよ。権力なんかに興味はないのに派閥争いに巻き込まれそうなって、それで提案したんだ」
ディーは淀みない口調で一気にここまで話し終えたところで、ようやく紅茶のカップに手を伸ばした。
私は王宮にある豪奢な部屋で説明を聞いていた。なぜなら、あのあと目覚めたのがこの部屋だったから。
ディーは、婚約破棄で卒業パーティーを台無しにしたとして謹慎処分になった。ってことは、一緒にいた私も? つまり、軟禁状態ってことだ。部屋が隣同士なので、こうしてこっそり会ってはいるけれど。
一夜明けたが、イルゼ様の意識はまだ戻らないそうだ。
「提案って?」
「ユリアンがエリーゼの妹を妃に迎えれば、派閥争いをしないで丸く収まるってこと。僕とエリーゼが破談になってもアンテス家に不利益はないうえ、三家の足並みが揃う。次代の治世が安泰になるなら、王家としてもそのほうがいい」
そりゃ、バーデンの血を引くユリアン殿下とアンテス家の令嬢が結婚すれば、婚姻関係で三家は繋がるけど――。
「そんなのディーがバカを見るだけじゃない。失うだけで何も手に入らない」
「そう。まるっきり損をするのも癪だから、わざと不祥事を起こして廃嫡される代わりに、政略ではなく好きな人と結婚させてもらえるよう父上に条件を呑ませた。エリーゼとカルも自分たちが一緒になれるならと同意した。それから王家と三家の当主の間で密約が交わされ、次期国王はユリアンということになったんだ。しかし――」
ディーの説明によると、『好きな人と結婚する』というディーに、三家の当主たちが年頃の令嬢を紹介し始めた。
我が身を犠牲にする提案をしたディーに対する憐憫の情なのか、たとえ失脚する王太子でも縁を持っておきたいという計算が働いたのかはわからない。
何度も断るうちに、偶然を装って近づいたり、媚薬を盛ろうとする者まで現れるようになったという。
あ、そうか。王太子を誘惑しろと命令されたのは、私だけではなかったんだ。
もしかして、密約を知らないデツェン伯爵が、バーデン公爵の意図を理解せずに勝手に動いたからなんじゃない? 誘惑やら媚薬やらって、はた迷惑な状況になったのは。
「僕を好きでもないのに、好きなふりをする令嬢たちに嫌気が差してた。そんな時にリーが生徒会室に来たんだよ。もうこの際だから、この子と不貞して婚約破棄しようって決めたんだ」
「えっ、あの日に決めたの?」
「うん。ストレートに事情を明かすバカ正直さと『私に誘惑されてください!』って殺し文句に惚れた。普通は『助けてください』と縋るところだろ? なのに口説かれると思わなかったからおかしくてさ。絶対に悪い子じゃないと思ったし……」
ディーが、ふにゃりと照れくさそうに笑った。
「可愛かったから。自分の目に狂いはなかったね」
私はディーの言葉に照れつつも、頬を膨らませる。
「だったら、もっと早く教えてよ~!」
「ごめん。この話は国王と王妃、三家の当主のほかは僕とエリーゼとカルしか知らない。それにリーはわかりやすいから、すぐにバレる。こういう顔できる?」
そう言ってディーは最初に会った時のように、感情のない顔で口の端っこだけで笑みを作った。貴族がよくするアルカイックスマイルというやつだ。
「あはは、絶対に無理だわ。でもねぇ、フリーデルの妾になるつもりで私は……あっ、しまった!」
文句を言いかけて思い出した。いろいろありすぎてコロッと忘れていたけれど、昨日はフリーデルの部下が迎えに来るはずだったのだ。
ディーのプロポーズに喜んだり、気絶している場合じゃなかったのでは? 約束を破ったと、違約金を請求されたりしたらどうしよう。
「ああ、それなら今頃、王家からハース男爵に僕とリーが結婚することになったと報せが届いているよ。昨晩は男爵も焦っただろうね。迎えが来ているのに肝心の娘は帰ってこないし、荷物もなくなっているんだから。いい気味だよ」
「わざと報せを一日遅らせたの? まさか、あの荷物も……」
「リーがフリーデルの妾になるのを僕が許すわけないだろ。そんな酷い男に見える? マーヤは僕が送り込んだ間諜だよ。ハース男爵とフリーデルには、後ろ暗いところがある。我が身が可愛いなら大人しくしているはずさ」
マーヤさんは、代々王家の間諜を生業とする家門の出だそうだ。道理で優秀なわけである。
彼女がお父様を探ったところ、フリーデルとの違法取引の証拠と大金で自分の娘を売る証文が見つかったのだとか。
うわ~、私を妾にするのにお金を受け取っていたのか。サイテー!
ディーも「リーと正式に結婚したら、地獄に送ってやる!」と怒り心頭である。
ともあれ私は、もうあの家に戻らなくていいことになってホッとした。
軟禁生活四日目に、エリーゼ様が来訪した。
イルゼ様が目を覚ましたので、その報告のためだ。
魔力暴走を起こした彼女は、三年分の記憶を失っていた。学園に入学する前の状態に戻ってしまい、卒業パーティーのことも憶えていない。しばらくの間、領地で静養することになるそうだ。
「わたくしが悪いのです」
目の下にクマ。痩せて身体が一回り小さく見える。
だがディーは、憔悴したエリーゼ様を労わりもせずに険しい表情を向けている。
その様子を訝りながらも、私はディーの隣に腰かけ、次の言葉を待つことしかできなかった。
お茶を運んだメイドが退室してからエリーゼ様は、ぽつぽつと話し始めた。
「わたくしがハルトと婚約破棄になると言ったから、あの子は希望を抱いてしまったんです」
「事前に機密を漏らしたのか。当事者のリーだってここへ来てから知ったんだぞ」
ピリピリと緊張感に満ちたディーの声が冷たく響く。威厳のあるところは、やはり王太子だったんだなと感心してしまう。
「ハルトは、お父様たちが紹介した婚約者候補を断り続けていたでしょう? 釣り合う身分の令嬢がいなくなり、残るはイルゼくらいだったから、てっきりハルトはそのつもりなのかと思って……それでつい言ってしまったんです。『わたくしとカルが結ばれたら、あなたがハルトと結婚すればいいわ。そうしたら、ずっと四人でお茶会ができるわね』って。あの子はハルトのことが好きだったし、誰にとってもこれが最善なのだと疑いもしませんでした」
エリーゼ様の瞳に涙が浮かんだ。ハンカチを目に押し当てながら「それなのに」と続けた。
「男爵令嬢との浮名が流れ始めました。最初は婚約破棄のための自作自演だと気にも留めていませんでしたわ。けれど予想に反して二人の仲が深まっていって……。ハルトの口から『本気だ』と聞いても、どうしても納得できなかったんです」
「だからイジメを黙認して、階段から突き落としたのか? 学園内の派閥統制は、君の役目だったはずだろう。それなのに自ら事件を企てるなんて、一体何をやってるんだよっ! 打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれないんだぞ!」
ディーが声を荒げ、バンッとテーブルを叩く。ガチャと陶器のこすれる音がした。
エリーゼ様がびくっと肩を跳ね上げた。頭を振って「殺すつもりはなかった」と嗚咽する。
「わたくしは……わたくしの恋がっ、ハルトの……ディートハルト殿下の輝かしい末来を奪ってしまいました。だからせめてっ、殿下にふさわしい家門の令嬢をと思ったんです。地位もお金もない男爵家の娘だなんてあんまりだと。少し脅かすつもりで……でも予想外に大きな騒ぎになってしまって……グズッ……幸せになってほしくて――」
それからしばらくの間、エリーゼ様のぐずぐずと鼻をすする音だけが部屋に響いていた。
黒幕がエリーゼ様だったと聞いて、ああやっぱりと腑に落ちた。
ディーはアンテス家のご機嫌取りの連中だと濁していたけれど、この人に断りもなく学園の不文律を破る勇気のある人、いる?
よもやエリーゼ様ではなく、イルゼ様がディーを好きだとは思わなかったわ。
きっとディーは黒幕に気づいていた。だから、あんなに怒っていたんだ。でも幼馴染みとしての情もあるから、気持ちは複雑だろう。
「これだけは、はっきり言っておくよ。僕はリーがいないと幸せになれない」
長い沈黙のあとにディーが断言した。
ディーは激怒しているしエリーゼ様は泣いているけれど、この瞬間、私は最高に幸せで、ニヤニヤしそうになる口元を引き締めるので精いっぱいなのだった。
「……はい。わたくしが愚かでした。カルに別れを告げられて、やっと目が覚めました。ライザー家は次男が継ぐそうです。侯爵になれないから、わたくしにふさわしくないのだと言われました。この時、たとえカルがただの一兵卒だったとしても、わたくしの幸せは彼の隣にいることなのだと気づいたのです。アメリー・ハース男爵令嬢、わたくしはあなたに酷いことをしました。誠に申し訳ございませんでした。お許しくださいませ」
エリーゼ様は私に向けて謝罪すると、ひれ伏さんばかりの勢いで頭を下げた。
いきなりのことで動揺してしまう。ニヤニヤを堪えている私は、頭の中もごちゃごちゃしている。
カルパス様と別れたの? という衝撃と、階段から落ちた時は痛かったけど治癒魔法ですぐ治ったしなぁとか、イルゼ様も記憶をなくして大変だなとか、いろいろな思いが入り混じり、何より、ここまで自分の非を認めて謝っているボロボロな姿を見てしまうと、憎む気にはなれなくて……。
「ひゃい! 許しますっ」
気がつけば叫んでいた。
隣でディーが、ぷっと噴き出した。
※※
二年後――。
私とディーは平民として小さな町に住み、畑仕事に勤しんでいる……というわけではない。
『捨てられたら行くところがない』と言っていたから、そういう慎ましやかな生活を想像していたのに、肩透かしを食らったような気分だ。
私たちは一年前、私の卒業を待って結婚した。お父様がまだ退学届を提出していなかったので、無事に進級できたのだ。
そのお父様は数々の違法行為で逮捕され、お義母様とは離婚。ハース男爵家は、親戚が爵位を継ぐことで存続を許された。フリーデルも捕まり、商会は潰れた。
筋書きのとおりに廃太子となり王位継承権を放棄したディーは、王籍を離脱したあと『癒』の魔法持ちとして伯爵位を授けられ、王宮に勤務している。
学園では醜聞まみれの私たちだったが、卒業パーティーでの公開プロポーズのせいなのか、一転して「王太子の身分を捨てた世紀の恋」だともてはやされるようになった。お陰で肩身が狭い思いをせずにすんでいる。
今暮らしているのは、あの隠れ家のアパートメントの最上階だ。間取りはワンルームではなく、ワンフロアが丸ごと居住スペースになっているので広い。
この建物、実はディーの持ち物だった。ほかにも不動産やらなにやら個人資産を持っていて、どうやら上流階級では、それが普通らしい。
だから、王子を辞めたからといって、いきなり貧乏にはならないのだ。
それに、よくよく考えたら『癒』の魔法持ちなので高給で働ける。
陛下だって自分の息子を見捨てるわけがない。こんな小娘に「息子をよろしく頼む」と頭を下げるような優しい親だもの。もともと爵位を授けるつもりでディーの提案を受け入れたのだ、と今ならわかる。
平民に戻れないと知った私が、青くなって淑女教育を受け始めたのは言うまでもない。
ありがたいことにマーヤさんが、私が伯爵夫人としてやっていけるようになるまで、我が家のメイド兼教育係として勤めてくれることになった。有能な間諜だったのに、なんだか申し訳ない。
「たまには、こんなふうにのんびりした仕事もいいものですよ」
笑いながらウィンクをして、特製のチキンスープを作ってくれる。やっぱり、いい人だ。
そういうわけで、私は男爵令嬢から伯爵夫人へと出世した。
エリーゼ様が私の家庭教師を買って出てくれたこともあり、最近になってやっと貴婦人として格好がついてきたところだ。
そのエリーゼ様だけど、結局、私とディー、イルゼ様の結婚を見届けたあと、跡継ぎのいない親戚の子爵家を継いだカルパス様に嫁入りした。今は子爵夫人だ。なんと領地まで押しかけて口説き落としたそう。お嬢様って意外と根性あるのね。
イルゼ様は、静養先の領地で担当医の青年と恋愛結婚をした。出会って三か月のスピード婚だったというから、びっくりだ。
少しずつ記憶を取り戻し、先日、詫状が届いた。卒業パーティーで魔力を暴走させてしまったことの謝罪と私たちの結婚を心から祝福する言葉、今は幸せで、今後も領地で暮らしていくことが綴られていた。
そしてなんだかんだと、人生はまだまだ続くわけで――。
今日の私は朝からパンを焼いている。
伯爵夫人のすることではありません、と叱られそうだけれど、たまになので許してほしい。パンを焼くのはディーとの約束だから。
この頃、つくづく思う。結婚はゴールではなくスタートなのだと。
非日常だった恋が、形ある現実のものとして色づき始める。それが結婚生活。
ディーは寝起きが悪い。夜更かしをするからだ。
朝、前髪に寝癖がついている。
無精髭がチクチクする。わざと頬擦りしてるでしょ?
本を読むのが早い。
夏はミントティー。
冬は紅茶、たまにココア。
最近のお気に入りは、紅茶よりもコーヒー。
変わらないのはパン……の少し焦げたやつ。
そういった何気ない生活の細かなパーツ一つ一つが、人生を作り上げていく。そして、お互いのパーツが一つ一つ組み合わさって『夫婦』が形作られる。とても素敵なことだと思う。
一緒に暮らしてみて、初めて知ること。
変わらないもの。
変わらないようで少しずつ変わってゆくもの。
増えてゆくもの。
いろいろなパーツが複雑に絡み合っている。
「おはよう、リー。いい匂いがする」
食堂に入ってきたディーが、寝ぼけ眼で鼻をくんくん鳴らしている。
シャツのボタンを留め忘れているのは、今朝はマーヤさんが留守にしていて叱る人がいないから。鬼の居ぬ間にとばかりに、二人してだらけている。
「おはよう、ディー。パンを焼いたの」
「リーが? 久しぶりだなぁ。どれどれ……相変わらず香ばしいな。外はカリカリ、中は……」
席に座り、お行儀悪く焼き立てのパンに手を伸ばしてパクついている。
うん、外はカリッと中はフワッ……とはいかないのよ。王宮の料理人じゃないのだから。
「蜂蜜もあるのよ。マ……」
「マヌカの蜂蜜っ?」
ディーが前のめりになる。
「ブブー! マーガレット様からいただいた、ローストナッツを漬け込んだ蜂蜜です」
マヌカの蜂蜜は貴重品で滅多に手に入らないため、代替品を求めていろいろと試しているのだ。
ちなみにマーガレット様はエリーゼ様の妹で、ユリアン殿下の婚約者だ。
「くっ、やっぱり父上に分けてもらうしかないのか」
「これも美味しいよ? ウェルゼ地方の特産品として売り出すんだって。先月、バルべ伯爵令嬢が隣領に嫁いだじゃない? 共同事業の一環みたい」
「ん、ホントだ。チーズに合わせたら、ワインのつまみにぴったりだな。確か隣領のペーテルゼンにはワイナリーがあったはずだ」
ディーが感想を述べながら、コーヒーをすする。目が冴えてきたのか、段々口調が滑らかになる。
いつもの他愛ない会話。だけど、地方の特産品が話題に上るようになったのは、エリーゼ様とマーヤさんの教育の成果だ。
「ワインに投資するの?」
「考えてみてもいいかな」
「来年のワインが欲しいのよ」
「リーは飲めないだろ?」
ディーが、アルコールが苦手な私の顔を見てキョトンとする。
「少しくらいは飲めるわ」
答えながら、どうしようかと思案した。
もし喜んでくれなかったら?
少しの不安とディーへの信頼が入り混じる。
躊躇していると窓から差し込む朝日を受けて、ディーの指輪のスフェーンがキラキラと煌めいた。
緑、オレンジ、赤橙……。
ああ、この輝きは変わらない。
温かな光に背中を押されるように、息を吸い込む。
「赤ちゃんができたのよ。だから生まれ年のワインで、いつかお祝いしたいの」
ディーが、手に持っていたパンをぽろっと落とした。
翠眼が見開かれている間、お祖父様とお父様の顔がぐるぐると脳裏を駆け巡る。けれどディーが笑顔になった瞬間、二人の顔がシャボン玉のようにパチンと弾けて消えた。
愛は増えてゆくものだ。
一人ぼっちが二人になって、子どもができて……いつか孫ができる頃には、きっともっとたくさんの愛で溢れているのだろう。
なんて幸せ。
私は、もう要らない子じゃないんだ。
「よしっ、ワインを買い占めよう!」
とんでもないことを言い出した。
一本でいいのよ――答える前に、キスで唇を塞がれる。
抱きしめられて、私もディーの背中に腕を回し、ぎゅっと密着した。
唇が離れると、ディーが半泣きになっていて、ありがとうと何度も繰り返している。
だから私もありがとうと言う。あの日、私に誘惑されてくれて、ありがとう。
そして、どのくらい時間が経ったのか――。
「あらまあ! お二人ともどうなさったんですか? 旦那様、シャツのボタンは、きちんとお留めになってください。この焦げた臭い……さては奥様、またパンを焼きましたね!」
私たちは、マーヤさんが帰ってくるまで、ずっと抱きしめ合っていたのだった。
それから、翌年に息子が生まれて……ディーはワインを買い占めはしなかったものの、瓶ではなく大きな樽ごと購入した。
成人を迎えたら、皆で乾杯するつもりだ。その頃は、この子も王立学園の卒業パーティーに参加するのだろう。どんな令嬢をエスコートするのかな?
私は、このワインの封が切られる時を楽しみに待っている。もちろん、ディーと一緒に。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!