冷罵する声
今までの体験を踏まえて、再び、沈思黙考する。
ゆーくんが言い渋っていた好きな遊びとは、この水遊びのことだろうか?
だとしたら、なぜ答えたがらなかったのだろうか?
よくよく考えてみると、彼は好きな食べ物も答えていない。
もしかして、彼は、私と彼がかつて体験したことを、私に再度、体験させようとしているのか?
そして、その体験は、私が御霊川を嫌悪するようになった原因と、何か関係しているのだろうか?
もう一度、私とゆーくんの関係について考察してみる。
彼がかつて私の担当していた児童だったという可能性は、彼とビーチでの水遊びをしたことで、かなり低くなった。
私がかつて勤務していた幼稚園では、夏の水遊びは基本、大型のビニールプールを利用していた。先輩の保育士に聞いた話だが、かつては海に遊びに行くこともあったらしい。しかし、毒性生物の被害に遭ったり、児童が溺れたりする可能性があるという理由で、ある年から行わなくなったらしい。
つまり、私と、担当の児童が、海で一緒に遊ぶというシチュエーションは考えにくい。
となると、ゆーくんは、おそらく私の身内だろう。
身内となると、姪や甥の可能性もある。
しかし、真っ先に考えられるのは、ゆーくんが私の子供であった可能性だ。
私はおそらく、不慮の事故で、ゆーくんを御霊川に転落させてしまった。あるいは、転落してしまったゆーくんを救出できなかったのだ。
おそらくゆーくんは、御霊川で溺死している。それが御霊川を嫌悪するきっかけとなったのだろう。
だとすると、私は過去に結婚していることになる。記憶のない数年間以降の記憶で夫と生活している記憶はないので、おそらく離婚したか、死別したのだろう。
ゆーくんが5歳児であることを考えると、私が幼稚園を退職し、パート職に就くようになったきっかけは、おそらく結婚したから、もしくはゆーくんを妊娠したからだ。
確か、私が保育士を退職したのは、私が24歳の頃だ。私は現在32歳なので、その間に私が結婚し、ゆーくんを出産していたとしても、おかしくはないだろう。
ただ、そう推測することは、私にとって辛い。
この考えが正しければ、私は息子を、場合によっては夫も喪ったということになる。
もし記憶が戻ったら、その惨い過去と、向き合わなくてはならない。
気づけば俯きながら歩いていた。いつの間にか、足元の海水はなくなっていた。
「……ねえ、ゆーくん」
私は気休めにゆーくんに話しかけようと、左を向いた。
しかし、そこに彼の姿はなかった。
「……えっ?」
驚かずにはいられなかった。考え事をしていたためか、手を握っていないことにはまったく気づいていなかった。
直後、私は、無性に寂しくなった。
その寂寥感に支配され、思考がまとまらなくなる。
ねえ、どこにいるの? 一緒に、帰ろうよ。
私が、君を救えなかったから、怒っているの?
お願い。独りにしないで……。
私は無我夢中で前方へ走った。
「ゆーくん! ゆーくん!」
いくら呼んでも、返事は返ってこない。
「ゆーくん。ねえっ……」
走りながら叫んでいたので、息がすぐに上がってしまった。
心なしか、瘴気が強くなっているような気がする。
「はあっ……」
しばらくして、すぐに立ち止まってしまった。思った以上に体力の消耗が激しく、その場で呼吸を整えていた。
刹那、声が聞こえてきた。
それは明らかに、ゆーくんの声ではなかった。
くぐもった、低く野太い声だった。
「なんだよ。綾子」
綾子は、私の名前だ。
声は続けて、言葉を発した。
「お前が悪いんだ! 俺のストレスに気づけなかったお前が……!」
この言葉が、私を非難していることだけはわかる。
私は、なぜ非難されなければならないのか?
その答えは分からなかったが、無性に腹が立ってきた。
「なによ、私のせいだっていうの!」
直後、自分の意志とは関係なく、口が勝手に動いた。
しかも、私が今、感じていることを、言語化していた。
声の主はなおも、私を非難してくる。
「ああそうさ。お前がちゃんと俺の苦しみを理解してくれれば、俺だって……」
私の口も、声の主の非難に反駁する。
「そんなのただの言い訳でしょ!」
「言い訳じゃないさ。ストレスには捌け口が大切なんだよ。本当はお前がその捌け口になるべきだったんだ!」
「何よ! さも自分だけが苦労しているかのようにいいやがって!」
「その言葉、そっくり代えさせてもらうよ。お前さぁ。俺が今、どれだけ重要な案件を任されているか知らないわけ?」
案件、いったい何の事だろうか?
声の主の職業に関連することだろうか?
「それとこれとは別のことでしょ!」
口はそんな疑問を無視し、声の主に反駁する。
「まあ、そうだけどな。だけどな……」
男の声が、突然、明瞭になった。
それは、成人男性の声だった。
私はこの声を知っていた。
確か、この声は……。
「面倒くさいんだよ。お前」
その言葉を最後に、声は聞こえなくなった。
「……克久」