海の記憶
しばらく歩いていると、甘い匂いはだんだんと薄れていった。
私は再び、ゆーくんとの雑談しようと思い、話しかけた。
「ねえ、ゆーくん」
左の方を向いてみる。彼はたどたどしい足取りで、私と同じペースで歩いている。
その顔は、私の方をじっと向いていた。
「今さっき、私たちの口の中に入っていたものは何?」
そう聞いてみた。彼は、今さっき食べたものが何なのか、知っているのだろうか?
しばらく沈黙が続いたが、返答が返ってきた。
「くっきー」
彼は、今さっき食べたものが、何なのか、理解しているようだった。
「これ、誰が作ったの?」
問いを重ねてみる。
ゆーくんと私が、かつてあったことのある人物だったとすれば、私をどう呼ぶかによって、私と彼の関係がわかるはずだ。
そう期待した。しかし、この問いに彼が返答することはなかった。
諦めて、自力でゆーくんとの関係を推測してみることにした。
私が手作りクッキーを与えたことのある5歳児とは、いったいどんな関係性だったのだろうか?
そういえば、私の前職は、保育士だった。そして、何らかの理由で、退職したのだ。
その何らかの理由が、思い出せない。おそらく、そこは重要な点だ。
そして、退職してから、約1年前の間の記憶も飛んでいる。現在勤めている職場は、この期間に採用されたものだろう。記憶が抜け落ちている数年間も何か関係しているはずだ。
保育士だったころに、子供に手作りのクッキーを与えた記憶はない。しかし、今まで数々の記憶が欠落しているので、クッキーを与えた記憶が失われていたとしてもおかしくはないだろう。
私が御霊川を嫌悪するようになった理由が、ゆーくんと関係しているとすれば……。
私は、1つの可能性を思いついた。
ゆーくんは、私が担当していた子供で、遠足や課外学習など何らかの理由で、御霊川の近くに来ていた際、そのまま死亡してしまった子供だという可能性だ。
私は、その子供を救出できず、精神を病んで退職してしまった。そして、その後の数年間、まともに働けない状態に陥った。その後、再起してパートタイマーとして現在、働いているということは、考えられないだろうか?
しかし、だとすると不可解な点が1つある。
私が特に嫌っているのが、雨の日の御霊川であるという点だ。
わざわざ雨の日に、屋外での学習や遠足をするだろうか? ただでさえ、急流として知られている川だ。この辺りの地域に住む私たちは、雨の日の御霊川の危険性を、誰よりも熟知しているはずだ。
この考えは、果たして正しいのだろうか……。
考えながら歩いていると、突然、足元に冷たい感触がした。
何、これ……。驚いた私は、足元の方を眺めてみた。
しかし、何も見えない。
歩きながら、もう一度足元を見た。
暗さではっきりとは見えないが、波紋のようなものが足元に広がっているのが見えた。
これは……液体?
刹那、生ぬるい微風が吹いた。それを浴びた瞬間、塩辛い匂いが鼻を突いた。
この風は、潮風……。ここは、海?
思わず立ち止まって、考えていた。
すると、体に思い切り水がかかるのを感じた。
「あはは、あはは」
ゆーくんが両手を大きく動かして、私に海水をかけていた。
彼は笑っていた。しかし、それは冷笑の類ではない、無邪気に水遊びを楽しむ笑いだ。
服がびしょぬれになったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
むしろ、この遊びに交わりたいような気さえした。
私はゆーくんにも思い切り水をかけてやろうと思った。そして、水を掬おうとすると、右手に傘を持っているのを思い出した。
まあ、大丈夫かと思い、傘を地面に刺した。私の予想通り、水の下は砂浜だ。
両手が自由になったところで、水を思い切り両手ですくい、彼に浴びせてやった。
「わあ。つめたぁい」
ゆーくんは再び、私に水を浴びせてきた。
今度の一撃は顔にもかかった。口の中で塩辛い味がする。
間違いない。ここはビーチだ。
「やったな~。えいっ!」
それに応じ、私も水をゆーくんに浴びせ返す。
そうして、しばらくの間、互いに水を掛け合った。
無心になって遊んだ。この時間が、とても楽しかった。
……何だろう、こんな体験が、昔にもあったような気がする。
「そろそろ、帰ろうか」
私はその場に刺していた傘を引き抜き、言った。
「……えぇ」
ゆーくんが落胆するような声を出した。ある意味、はじめて見る子供らしい反応だ。
「帰りが、遅くなっちゃうよ」
「……わかった」
わかりやすく気落ちする様子を見せながらも、意外と素直に言うことを聞いた。
もっと遊びたい。私も内心ではそう思っていた。
水遊びをやめたとき、なんだか、こんな時間はもう来ないのではないかと思えた。
なぜそう思うのか、自分でもわからない。
こんな思いを抱いてしまう原因も、欠落した記憶の1つなのかもしれない。
私たちは再び歩み出した。歩みを進めるたびに、ピチャ、ピチャと音がする。
歩み始めると、ゆーくんがもう水をかけてくることもなかった。