知っている香り
手を伸ばせば触れられるほどの距離になると、私はその子の右手を掴んでやった。その小さな手に、温もりを感じた。だが、それは生きている人間の温もりではなかった。
むしろ、死んだばかりの遺体の余熱のような、そんな暖かさだった。
この温度は、どこかで体験したことがある。だが、いつ体験したのか、全く覚えていない。ただ、わずかに記憶が残っているのか、なんとなく、この体験は、私が御霊川を嫌悪するようになった原因と連関しているような気がした。
「君、名前は?」
私の問いかけに、返答はない。
「じゃあ、私があだ名をつけてあげる。
あだ名を何にするか、私は少し考えた。すると、ある言葉が浮かんだ。
ゆーくん……。この響き、どこかで聞き覚えがある。
「ゆーくん。それが君のあだ名ね」
彼は小さく頷いた。意外と素直なようだ。
「じゃあ、一緒に帰ろう。ゆーくん」
私たちは2人で、まっすぐ歩み出した。道も何も見えないが、ただ、まっすぐ歩まなければならないような気がした。私はその直観に従って進んだ。
その道中で、私はゆーくんの会話を試みた。
「ゆーくんは今、何歳?」
彼はしばらく押し黙っていたが、こう答えた。
「……5さい」
「好きな食べ物は?」
彼は答えなかった。
しばらくしても返答がなかったので、私は質問を変えた。
「嫌いな食べ物は?」
「……ぐりーんぴーす」
私は別の質問を与えた。
「じゃあ、好きな……ものは?」
我ながら随分と漠然とした問いだった。
「……わからない」
あまりに具体性がなかったためか、わからない、という返答をされてしまった。
私は再び、別の質問をした。
「じゃあ、嫌いなものは?」
ゆーくんは少し間をおいて、こう答えた。
「りもこん」
その瞬間、背筋が凍るような思いがした。
なぜだ? なぜ彼は、リモコンを嫌悪している?
そして、私はその返答に、なぜここまで震えあがっている?
彼は、いったい何者なのか? かつて私は、あの子と何か特別な関係だったのか?
歩きながら考え込んでいると、突然、甘い匂いがするのを感じた。
どぎつい人工的な香りではない。素朴な、やさしい香り。
これは……。焼き菓子の匂い? しかも、どこかで食べたことがある気がする。
この匂いが何だったのか、私は思い出そうとしたが、思い出せなかった。
歩めど歩めど、匂いは消えない。それどころか、より香気が増しているような気さえする。
しばらく歩いていると。突然、口の中に異物感を覚えた。
いつの間にか、口に何かの塊が入っていた。塊は表面が少しざらついており、かすかに甘い味がした。大きさは、飴玉程度だろうか。
不思議と、不快には感じなかった。
舌で転がしてみる。舐めまわしてみてわかったが、どうやら扁平な形状をしているようだ。そして、ところどころに、甘くしっとりした、何かの粒が入っているのを感じる。
……これは、クッキー?
私はそう予想した。思い切って、その塊を噛んでみる。塊は呆気なく砕け、素朴な砂糖と小麦の甘味が口に広がるのを感じた。
間違いない、これは、クッキーだ。
そう確信し、ためらいなく塊を嚥下する。
その直後、思い出した。これはかつて、私が趣味で作っていたクッキーだった。
私は趣味で、お菓子作りをしている。パンケーキやマドレーヌ、最近ではマフィンなども作っている。
かつては、クッキーを作っていたこともあったが、1年ほど前、やめた。
あれ、私。なんでクッキー作らなくなったんだっけ?
クッキー作りをしなくなったのは、何か理由があったはずだ。だが、その理由を全く思い出せない。
その理由も、私が御霊川を嫌悪するようになった原因と、何か関係があるのだろうか。
「……あまあい」
声が聞こえた。ゆーくんの声だった。
もしかして、彼も今、このクッキーを食べているのだろうか? 私がかつて作っていたはずの、このクッキーを。
ゆーくんは続けた。
「……これ、すき」
彼が先ほど答えなかった、好きな食べ物。それは、私がかつて作っていたクッキーなのだろうか?
そして、そのことは私がクッキー作りを止めた理由と、何か関係があるのだろうか?
疑問に思いつつも、足は止めなかった。茫漠たる闇の中をひたすらに歩いてゆく。