異形の顔の男児
鉛色の雨雲が、夏の夜空を覆っていた。
雨がざあざあと降っている。私が差しているビニール傘に激しく雨があたり、耳障りな音を立てる。
私はパート勤務を終えたばかりで、ちょうど家路に向かっているところだ。本来、まだ明るいはずの、7月の午後7時だが、雨雲のために、空の光は完全に遮られ、帰り道は薄暗かった。
今、この道には私を除いて誰一人としていない。もともと、私が住んでいる場所が僻地なので、それほど人が通らない場所を歩いている。
女1人で歩くには、少し不安を感じる道だ。山道のため、路傍は草木が生い茂っているほか、何もない。
目の前には、御霊川上流と、そこに架かる黒滓大橋が見える。
御霊川はもともと急流として有名な川だが、今日は雨のために、流れがより激しくなっており、水も茶色く濁っている。
私は、この光景が大嫌いだ。
雨の日の、御霊川の濁流を見ると、あの時の忌々しい記憶が呼び起こされるからだ。
とにかく、早く橋を渡って、この川から早く離れたい、そう思った。
無意識に速足になっていた。さあ、とっとと渡ってしまおう。
大橋というだけあって、徒歩で渡り切るには6分ほどかかる。
濁流の流れる耳障りな音を聞きながら、歩みを進めた。
左右を見ると、降りしきる雨粒が、御霊川の茶色い流れに吞み込まれていくのが見える。
ああ、あの時の御霊川もこんな感じだったな。
そんなことを思った、その直後だった。私がふと、私が歩いていなかった橋の右端を見たときに、子供の人影のようなものが見えた。
「……なに、あれ?」
そこにいたのは、幼稚園児くらいの、至って普通の子供だった。
ただ一つ、異形の顔を除いては。
その顔には、個々の顔のパーツの代わりに、大きな黒い影のような何かが渦巻いていた。髪が短髪だったので、かろうじて男児であろうと推測できた。
「ねえ」
声が聞こえた。私は子供の方を振り返った。
えっ? あの子が喋ったの? 驚かずにはいられなかった。
その子供に気をとられ、思わず立ち止まってしまった。
何だろう、あの子?
そう思った直後、周囲が暗転した。
しばらくして、雨が降っていないことに気づき、傘をたたんた。
音が全く聞こえない。この空間全体が瘴気と、異様な静寂に包まれている。
ただ、薄暗い場所の人影のような、うすぼんやりとした姿ではあるが、子供のような何かの姿だけは、視認できる。
それを除き、あたり一面、何も見えない。
私が歩いていた黒滓大橋も。
あの時、嫌いになったはずの、御霊川も。
……あれ、あの時って、いったい何だったっけ?
その時、私は自分が御霊川を忌むようになった経緯や原因を、完全に失念していた。
その時の記憶を思い出そうとしてみる。しかし、思い出そうとすればするほど、思考が混乱していく。
ダメだ、思い出せない。思い出せない……。そう私が狼狽していると、また、声がした。
「おいていかないで」
置いていかないで……? もしかして、この子供のような何かは、私と行動を共にしたいのだろうか……?
声が再びする。もはや、この声があの子供のような何かから発せられていることを、私は疑っていなかった。
「いっしょに、かえろう」
一緒に、帰ろう。
何だ、この心苦しさは?
この言葉を聞いた途端、私はなぜか、この何かを、自分の家に連れて帰らなければいけないような気がした。
「うん。一緒に、帰ろう」
気づけば、こう答えていた。
それを聞いた何かは、たどたどしい足取りで、私の方へと歩み寄ってきた。