陸で溺れる3
薄暗いし、なんだか涼しい。けれど、海底よりは明るいし、あったかいな。
そんな風に思いつつ、少年はあたりを見回す。なぜだか、海藻よりも黒くて大きい、とげの生えた凶悪な装飾があたりに張り巡らされている。
しかし、一度だけ入ったことのある貴族の邸宅みたいな内装に、ここが薔薇の魔女の住処だと把握した。
「何をボケっとしているんだ? 置いて行くぞ」
声のかかったほうに目を向けると、大きな扉の前で、深紫色の三角帽子とマント、白い花の飾りをつけた薔薇の魔女がこちらを呆れたように見ている。
「スイマセン。……陸に上がるのは初めてなので」
そういうと、ひどく不機嫌そうに鼻を鳴らした彼女は、踵で床を鳴らす。
「これから、お前はこの景色をいやというほど見ることになるんだ。陸のことは、あの野蛮男から聞いてんだろ?」
船の魔法使いに連れていかれた、魔法連盟の本部だという建物で、彼女はたいそうご立腹のまま、「ごめんね。この人魚、君の好きにしていいから許して」と差し出されたイスルスを一瞥した後、すぐにここに連れて帰ってきた。船の魔法使いと同じ空気を、吸いたくないといわんばかりの行動だ。
長い廊下や、窓の外に見える景色からきっと広いのだろうという考えしかない少年は、陸の知識不足をはっきりと自覚していた。
「あの、俺はあの人からほとんど聞いてないんで、あなたに教えてほしいです……手始めに、その、帽子についてる飾りの花はなんなのか、とか」
きょとん、そう表現するしかない顔をした後、次に薔薇の魔女は、勢いよくイスルスの肩をつかんだ。
「本当に! お前は、私がなぜ薔薇の魔女と呼ばれているのかすら知らずに! あのくそ野郎に差し出されたっていうのか!」
船の魔法使いとは違った色味の緑色の目が、嘘は許さないと睨み付けている。だが、イスルスが船の魔法使いから教わったことは、文字と少しの魔法、それ以外はテーブルマナーと人間の体の仕組みだけ。
「薔薇の魔法が得意な魔女というのは知ってます。けど、本物の薔薇は海で見たことがない……です」
だから、イスルスは掴まれた肩に食い込む細い指が痛くとも、目をそらさず、正直に告げた。
しばらくそうして見つめあうと、彼女は肩から手をはなし、数歩後ろに下がって頭を抱えてうずくまった。
「ああああああ……っとにあのくそ、やってくれやがった。人魚ってことは、お前の知識の仕込みに海の魔女もかかわってやがるな。何を考えてやがるんだ、あいつら。魔法の素質があるだけましか? いや、普通に外道じゃねぇか」
何やら、海の魔女や船の魔法使いに対して文句を重ねる。このままだと、海に送り返されそうな気配を感じ取り、少年はあわてて口を開いた。
「俺、泳ぐのヘタクソなんで、薔薇の魔女様のところに来れてよかったです。このまま帰っても三日と経たずに死体になるので、どうせなら解体して薬の材料にでもしてください! 今は人ですけど、もとは人魚なので、余すことなく材料になれますよ」
焦るあまり、あまりするなと言われたギザギザの歯を見せるような笑顔になってしまったが、自分をきちんと売り込めたことに彼は満足する。
最悪、海に帰れなかったとしても、薔薇の魔女は眠りの魔法で優しく殺してくれると、海の魔女が言っていたし。
しかし、薔薇の魔女は、海溝の底から絞り出すような声を上げて立ち上がる。そして再度彼の肩をつかみ、叫んだ。
「冗談でも、お前が生きてるうちに、俺の前で薬の材料になるなんて言うんじゃねぇ。次に言ったら、その足が二度とヒレに戻ることはないと思え! お前は大人しく俺に守られろ! 返事は?」
「え、あ、はい」
あ、この人、悪い魔女じゃないのかもしれない。
なんとなく、そう思ったところで、イスルスの意識はなぜか遠のいていく。
「あ! ちょ、ここで寝るんじゃねぇ!」
そう焦ったように、少年の手を握った魔女の手の温かさを心地いいと感じながら、意識を失ったところで、薔薇の魔女と少年人魚の初めての出会いの日は終わるのだった。
薔薇の魔女は、笑った。うっかり呪いをかけてしまった少年は、腕の中で健やかな寝息を立てている。
少年の髪に窓からさした月光があたって、水面のようなきらめきが宿っている。閉じられてしまった目も、深い青、光が当たると緑にも見える美しい宝石だ。
海が閉じ込められたような色彩を持つ少年に、彼女は数年ぶりに見惚れていた。
指先で、少年の髪を梳くと、巻貝の髪飾りが外れる。ソレに気が付いたとき、薔薇の魔女は顔をしかめた。
「ウルスラ……お前、どうせわかってやってたんだろう。……というか、ガキにとんでもない副作用のある薬、仕込むんじゃねぇよ」
拾い上げたそれに向かって声をかけると、潮騒の音の後に、「クフクフ」という笑い声が聞こえてくる。
『やっぱり気が付いたネ? 船の魔法使いも嬉々として乗ってきたし、いい趣向だと思ったんだガ。……今度は、泡になんかしてあげなイ。その程度で逃げられるくらいなら、あの子はきれいだし手元に置きたかったのサ。でも、君がその子を気に入ったならうちにはもう帰ってこないのかナ?』
聞いた相手の脳を、溶かすような声音で、海の魔女は告げる。
「しらねぇ。ま、飽きるまでは手元で見ててやるよ。あのくそ男にも、今回は手打ちにしてやるけど、今度やらかしたらお前の船を沈めるって言っといて」
そういって、巻貝を砕く。さらさらと白い砂になって手のひらから流れ落ちたそれを一瞥してから、起きる気配のない少年の髪に口付けを一つ落とす。
「お前に知識をやろう。お前の望むものを、俺は与えよう。……お前は、俺に何をくれるんだろうな」
眠る少年は、起きない。今はそれでいいと、彼女は歩き出した。客室なんてものを、魔女は用意していない。
翌朝、同じ寝具に横たわる薔薇の魔女に、少年は床へ転げ落ちた。
ヒロインの登場です。だから何だって感じですけどね