陸で溺れる2
船の魔法使いとの船旅
「というわけで、久しぶりだね。イスルス、君が元気そうで何よりだ。じゃ、この薬を飲んで、服を着たらここで歩行訓練と行こうか」
少年人魚は、檻に入れられたまま、甲板に放り棄てられ、苦しそうに口を開けた。
当然、彼は陸で呼吸をするすべを教わったことはない。ただでさえ、海底から水面への急上昇で心肺へ大きな負担をかけられた彼に、船の魔法使いは七色に輝く薬の瓶を無理やりくわえさせた。
「知っての通り、私は子供が嫌いなんだ。わかるね? 理解したのなら、さっさと肺呼吸と脚に慣れる努力をしろ」
瓶を口から引き抜き、口を閉じさせた船の魔法使いは杖を一振りする。それだけで、薬を吐き出そうとした少年の口は縫い付けられたように動かなくなった。
口内を満たす、ねばついた苦い液体を吐き出すことがかなわないと気が付いた彼は、不本意という気持ちを隠しもせずに飲み込む。
すると、苦い液体の後味が気にならないほどの、衝撃が体を蝕んだ。
「……相変わらず生意気な目をする子供だな、君は。ウルスラのもとに行ったと聞いたから、魔法の一つでも教わっているものだと思っていたのだが」
船の魔法使いは、尾ヒレが二つに裂けていく痛みに、声を出すこともできないままうめく少年を見下す。乗組員たちは、そんな船の魔法使いを船室のドア越しに見つめた。
しばらくして、足元にうずくまる元人魚の少年が、ゆっくりと立ち上がる。日に照らされた透き通った海のような髪が、濡れて体にへばりついた。鬱陶しそうに顔をしかめた少年に、また魔法使いは杖を向けた。
「海の魔女様は、船長と違って無駄なことはしないんで」
海とはまた違った感覚で、のどが震える。鱗のはがれた体は、乾燥しているようだ。
「さすがウルスラ謹製の薬だ。飲んですぐに立ち上がるどころか、言葉も問題なく話せているね。陸では、服を着るのが普通だ……服を用意してやる。今なら軽い要望を聞いてやるが?」
少年の皮肉を少しも気にしない男に、彼は「動きやすいの」と吐き捨てた。
それから数日。イスルスは船の魔法使いに言われるまま、昼は甲板で歩行練習。夜は文字や魔法の知識を詰め込まれるようになっていた。
「ほらほら、歩かないと君の昼ごはんは海の小魚たちの餌になるよ」
「楽しそうに杖を振るな! 皿からスープがこぼれてるじゃないか……」
「あははは、君が遅いのが悪い」
初めのころよりは、だいぶうまく歩けるようになったとはいえまだその動きは遅い。それをからかうように緑の目を輝かせ、自分をいじめる船の魔法使いへ、「性格が悪い」なんて悪態を吐けば、本当に食事を抜かれてしまう。
子供が嫌いだという割に、なぜかイスルスをいやな方向によくかまう大人へ、少年は改めてため息をついた。
「そういえば、この船はどこに向かっているの?」
「君を届ける国さ。あと半日もしないうちにつくだろうね」
何とか昼ごはんを奪取し、甲板に用意された椅子に座り尋ねると、遠くにある陸を見ながら魔法使いは言った。
「俺は……薔薇の魔女様への捧げモノだっけ? 船長が人間関係でミスするなんて珍しいね」
海の魔女が語ったことを思いながら口に出すと、船の魔法使いは肩をすくめた。
「そうだね。しかし、エマは少しばかり難しい呪い持ちだ。私が対処を間違えた結果、荒れに荒れてしまった彼女の前へ、君を投げるのは少し心苦しいよ」
「そんなこと思ってないくせに」
間髪入れずに少年が言うと、彼は心外だなと片眉を上げる。しかし、少年も撤回する気はないようで、やっと慣れてきた足を交互に動かした。
「ひどいね。それなりに長い付き合いになるから情がわくのは当たり前だろう。一応、お前はウチの見習いでもあったわけだし」
「それなりに長い付き合いだからこそ、船長の真意が読めない。薔薇の魔女様は、なぜ俺が必要になるの?」
稚魚の頃、両親の持つ宝を奪いに来た男の手助けをして、しばらく船の魔法使いの乗る船の周りを泳いだ。
彼の長い旅路に、少しの間連れ添ったイスルスは、今のギザな言動をする前を知っている。
あの頃はまさに海賊といった風貌で、海の生き物からも陸の生き物からも恐れられる、船の魔法使いの姿をしていた。
「薔薇の魔女の魔法に耐えられるだけの魔法の素質と、彼女の好みそうな見た目の生き物が必要だったのさ」
じっと見つめる少年の黄金の瞳に、観念したと船の魔法使いは両手を上げ、降参のポーズをする。
「素質、そんなもので魔女の魔法を跳ね返せるの?」
その返答に驚き、目を瞬かせた少年に呆れ、男は杖を再度振った。すると、少年の手にも同じように杖が現れる。
船の魔法使いとは異なり、装飾のない細身の杖は、羽ペンよりも軽くイスルスの手になじんだ。
「じゃなきゃ、君は生きてここに現れることはなかったさ。ウルスラの領域は、彼女がかけた沈黙の魔法で普通の生き物なら三日もいれば死んでしまう。君が死ななかったのは、それを跳ね返せてたから。そして今、薔薇の魔女は、無意識的に眠りの魔法をあたりにまいている。まずは、それを乗り越えられなければ話にならない。あと、彼女もなかなか面食いだからね。君が歯を見せて笑わなければ、殺さずに百年は手元で愛でられるだけさ。それをあげるから、きちんと自分の身は守るんだよ。せいぜい頑張るといい、しくじったら死ぬことになるだろうからね」
イスルスの少女めいた顔つきは、人形のように整っていて、もう少し成長すれば美男として引く手は数多になるだろうと船の魔法使いは笑う。
しかし、薬を飲んだことで人間の姿になったとはいえ、歯はノコギリのようにとんがっているのでそこはマイナスだ。
杖頭に透明な石が着いた杖は、まだイスルスの手に余る大きさだが、そのうちちょうど良くなる。……その頃まで、手元にあるとは限らないが。
杖と船の魔法使いの顔を交互に見た少年は、少し震えた声で尋ねた。
「無意識で魔法が使えるような魔女様相手に、俺の魔法が通じそうにないけれど」
「さてね」と笑った船の魔法使いが、立ち上がり、船首の方へ歩く。少年がそれを追いかけるために立ち上がり、一歩一歩ゆっくりついていった。
「そういえば、今はフラックとか船の魔法使いで通してるの? 前はキャプテンフックって」
「今まで通り、船長もしくは先生と呼べ」
被せるように美丈夫は声を張った。「どうして?」と視線で訪ねてくる少年を通して、在りし日の苦い記憶を思い出す。
船の魔法使いは、盛大に顔を顰めて「クソガキを思い出すからさ」と昔みたいにドスの効いた声を出して笑った。
その夜イスルスは、昼間に見た、少し急げば追いつける程度の速さで歩く男の背中を思い出して、何とも言えないむずがゆさを覚えた。
フラックは性格が悪く、子供に対しては意地悪の方が圧倒的に多い人物だ。その男が自分に対して甘い対応をとるだなんて、確実におかしい。
それに、この船の乗組員たちも、イスルスの世話をよく焼いた。それは、温かさの一枚下にある何かを、彼に感じさせる。
「これから君が過ごすのは、海の中じゃない。髪は、キチンと整えなければならないよ。これからは身綺麗にすることが、生き残る秘訣だ」
船に乗せられてから、短くすることも許されていないため、腰に届くほどに伸びた髪を梳く青年は、イスルスの明日を憂いてため息をつくのをやめないのだ。
「お兄さんは、顔合わせる度にため息をつく。俺はこれから、魔女様に会いに行くだけなのに」
もうすでに、船は薔薇の魔女がいるという国の港についていた。
陸が近くなった時点で、イスルスや他の乗組員は、船室にこもるように命じられ、船の魔法使いの魔法だけで着港が行われたのだ。
「陸で、魔法はもう人の手から失われていくものになっている。二つ名もちの魔女や魔法使いに手を出したら、俺のような弱い魔法使いは死んでしまうよ」
「そういうものなんだ」
杖を振らない青年は、そう言ってゆっくりと櫛で髪を梳いた。
「ほら、君の髪は美しい。日の光を浴びた、海面のような美しさだ。きっと薔薇の魔女様も気に入るだろう。彼女に限らず、魔法を使うものは美しいものを好むからね」
「美しいものは、魔力を持っている。だから、魔法使いは、綺麗な姿をしているのさ。力が強ければ強いほど、別の生き物になるんだ……」
そう言って、笑った海の魔女の姿を今更ながら思い出す。海の魔女も、海の中だというのに髪の一筋、ドレスの裾まで美しく整えていた。
「ウルスラの金言か。彼女の言葉は美しく、そして平等に私たちへ降り注ぐ」
「せ、船長! いつの間にこちらに」
「自室へ戻るといい。コレとの話を聞くことは、君のためにならないからね」
ほらはやく、そう何も持っていない手を振った船の魔法使いに、青年はエビのように飛び上がると、イスルスの部屋から足をもつれさせながら出ていく。
「何か用?」
「……君を連れて連盟の本部へ行くだけさ。彼女はそこでわが友の体を人質に待ってるみたいだから」
何処だ、そこ。そうイスルスが口に出す前に、船の魔法使いは彼に向けて杖を振った。
頭の上から足の爪先まで、光が降り注いだところから姿が変わったのだろう。
襟もとは開いているが、海草や貝の刺繍が施された肌触りのいいシャツに、黒いズボンと革のサンダル。
「何だか、船長の服に似てるね」
部屋の姿見に映った感想をいうと、船の魔法使いは、鼻を鳴らしてもう一度杖を構えた。
「さて、言ったとおりだ。これから薔薇の魔女のもとへ行く。お前は、彼女の元で暮らすことになる」
「……陸で暮らすって認識でいい?」
「そうとも。お前の役目は、彼女の話し相手、もしくは友人となって薔薇の魔女とともに過ごす。……彼女が昔と変わらないのなら、ハウスキーパーのような扱いを受けるだろうね。まぁ、気難しくて粗忽者だけど、お気に入りには優しい女の子さ」
なぜかそういった後、ろくでもない顔をした船の魔法使いは巻貝の髪留めを少年の長い髪に飾る。
そのことに、文句を言うより先に、イスルスの眼前は、ここ数日過ごした船室ではない空間が広がっていた。
「お前は、どんな業を背負う羽目になるのか……いや、もう背負っているようなものか」
つくづく、自分とは反対だ。船の魔法使いは、少年が薔薇の魔女に連れていかれた後、すぐさま自分の船に戻った。
陸に長時間いると、なくなった腕がひどく疼く。海の上では、波のようにひいていくというのに。
偉大な魔法使いの目覚めを祝う街をしり目に、彼は一人、空を見る。
船の魔法使いは、少年人魚への手向けがわりに、麦酒で満たした杯を空に掲げた。
「お前の旅路に、祝福があらんことを」
船の魔法使いのモチーフは、『ピーターパン』のフック船長です。今後も彼は色々なところに出てきます。
そして、次回あたりに人魚君の恋の相手も出てきます