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八百万の神様はお怒りです! 一の神~イヌガミ~

作者: おむすびころりん丸

『八百万の神々』

この世の森羅万象には神が宿るとされてます。それは大地や大海のみならず、作物や塵一つに至るまで。


ここにある一匹の神がおりました。

その名を犬の神『イヌガミ』といいます。彼は神となる以前は一匹の野生の狼で、孤高の狩人として数多くの獲物を仕留めたそうです。そんな気高く誇り高い狼は、死後魂が昇華し犬の神様となりました。そんなイヌガミ様ですが、昨今の犬事情にはお怒りです。神の怒りは大地の怒り、神罰が下るその前に、怒りを鎮めてあげましょう。



♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦



「許せぬ。最近の犬どもはみな人間なんぞに尻尾を振りおって。狼が先祖だというのに、その誇り高い血はどこへいった」


 イヌガミは震えている。犬が震えるといえば小型犬のチワワが真っ先に浮かぶであろうが、彼の容姿はそのような愛くるしいものではない。白雪のように汚れを知らぬ体毛はゆらゆらと逆立ち波を打つ。ギリギリと軋む口からは研磨された日本刀の如き牙が顔を覗かせていた。

 そう、彼は怒りに震えているのだ。その矛先はどうやら同種族である犬に向かっているようだが。


「だが、犬どもにこれを伝えたところで無駄だった。奴ら、完全に人間に洗脳されておる。俺は犬の神だというのに、俺の言うことは聞かずに『ご主人様は裏切れない』の一点張りだ。頑として聞き入れん有り様。これは一つショック療法を与えてやる必要がある。犬が話を聞かないならば、人間の方を始末してやろう。人間さえいなければ、嫌でも一匹で生きていくしかなくなるだろう」


 なんとも物騒な話だ。だが大概にして神には物騒な者が多い。神だから仕方がないと言われればそれまでだが、こんなものは法の裁きではなくもはや私刑。自分が駄目だと思った者には罰を与えてしまえるし、それを止める者もいない。独裁国家の統治者も真っ青な独断である。こうしてイヌガミは自身の正義の元、犬の飼い主を根絶させるべく、人間界に降り立った。


「さて、まずはどいつから始末してやろうか。犬の飼い主でもいいが、まずは腑抜けた犬の供給源であるペットショップの人間から噛み殺してやろう」


 イヌガミはまず近場のペットショップに向かった。野犬がそこらを闊歩すれば大騒ぎになること請け合いだが、イヌガミは神であり姿を消す事もできる。数多の犬の匂いから街の小さなペットショップを見つけたイヌガミ。店内に入ると、そこには早速狭いショーケースに入れられた憐れな犬達が目に入る。


「世も末だ。こんな狭き檻の中で人間共の見世物になるとは……

 だがもうすぐお前らは自由になる。それは檻から出られるという意味ではない。人の手から自由となり、誇り高き野生へと還るのだ」


 売られる犬を尻目にショーケースを横切ると、奥のカウンターには一人の男がいた。身体は細く身の丈も体格相応だ。旨くはなさそうだが、一噛みで骨や肉はおろか、その生命ごと容易く砕くことができるであろうひ弱な青年。


「まずはあいつが最初の生け贄だ。だが、いきなり殺してしまうのも味気ない。自らが犬にしてきた愚行を思い知らせてから殺してやろう」


 狩猟のプロであったイヌガミは音も立てずに青年に近づくと、姿を現し背後から乱雑に声を掛ける。


「おい」


 その声に反応してゆっくりと振り返る青年。顔は青白く糸目でたれ目、なんとも貧弱な容姿である。これなら苦も無く仕留めることができるだろう。だが背後から掛けられた声には動じなかった。イヌガミはこの青年が慌てふためくと思っていた。見た目の割には図太い神経を持っているようだ。


「狼……かな? 君はどこから迷いこんで来たのかな?」


 落ち着いた様子で話す青年。先程は図太いといったが、単に抜けているだけのようにも見える。


「迷いこんで来たかだと? 否、俺は目的があってここへ来た。それは犬を愚弄する人間共を根絶やしにすることだ。そしてお前がその第一号という訳だ」

「あ、喋れるんだね、君」


 驚くべき箇所がどうにもズレている。どうやら抜けている、が正解のようだ。


「は? なんなんだ、お前は。俺は貴様を殺すと言ったんだぞ。何をそんなに悠長にしている。実感が沸かないだけか、単に阿呆なだけか……

 どちらにしろ我ら誇り高き種がこんな間抜けに飼い慣らされるなどやはりあってはならぬことだ。貴様にはこの場で死んでもらおう」

「うーん、死ぬのは嫌だなぁ」


 変わらず惚けた態度ではあるが、ようやく命の危機を感じる様子を見せた青年。独断といえどもイヌガミはあくまで神だ。その行いは裁きであって虐殺であってはならない。後悔させ、懺悔し、その上で殺すことで神としての体裁も保たれる。


「ふははは! だろう!? 自分が死ぬのは怖かろう。だが命乞いをしたところで生かしてはおかぬ」

「いや、僕はいいんだけど、この子達がなぁ。面倒を見てあげないと……」


 なんと、青年は命の危機を感じていなかった。あまつさえペットショップの犬の心配をし始める始末。だがイヌガミにとっては、そんな気遣いはむしろ種を見くびられているも同然であった。


「死ぬのが怖くないだと? あまつさえ我ら種の面倒を見るだと? いいか、我々は誇り高い種族だ。貴様ら人間の世話にならなくとも、気高く強く生きていけるのだ。貴様のその薄汚れた思考、今すぐこの場で噛み砕いてやる!」


 敵意をむき出しにするイヌガミは今にも青年に飛びかからんとす。だが青年は動揺する様子も無く、イヌガミの一言一句をしっかり聞き取り思ったことを口にする。


「ちょっと待ってよ。君は人間のことをあまりにも知らなすぎる。犬のこともだ。

 もし君が僕を殺して怒りが収まるなら最悪僕はそれでも構わない。この子達は他のスタッフがなんとかしてくれるからね。でも君は人類全てに恨みを持っている。となると話は別だ。人間がいなくなれば犬も生きてはいけない。そうなれば君達も滅んでしまう事になる」

「人間が滅べば、犬も滅ぶだと? 馬鹿言え! そんな訳があるか! 現に私は一人で生き抜いたのだぞ! 出鱈目を言って生きたいだけだろうが!」


 イヌガミにとっては耳も疑うとんでも論法。あまりに突飛な話。こうなると最早苦しい言い訳、命乞いにしか聞こえないのも頷ける。


「うーん……分かってもらえないようだね。じゃあ、今日一日だけ、僕と付き合ってくれないかな? 一日……いや日没までだけ。その後は君の好きにして構わない。ショップのスタッフには体調が悪いから帰らせてもらうということにするよ。迷惑はかけるけど、人類滅亡の危機となれば仕方がない。どうかな? 日没までに僕は君に人間を生かすように考えを改めさせるよ」


 青年は命乞いはおろか、なんと自分を始末することに条件まで提示してきた。なんと愚かな交渉だろう。しかも相手は怒り心頭の神様だ。だがそれを聞いたイヌガミの反応は意外なものであった。


「ふ……ふふ……ふはははははは!

 馬鹿か貴様は! たった半日で何ができる! だが面白い、神をやっていると刺激も少なく退屈なものでな。半日だけなら貴様の話に乗ってやるとしよう。だがな、日が落ちたその瞬間、俺は貴様の頭蓋を噛み砕く。分かったな?」


 突如の心変わり。何故かと言われれば、それは神の気まぐれとしか言いようはない。ともあれ青年は僅かの余命とチャンスを手に入れた。常人ならとりあえずその場の危機だけは乗り越えたことに安堵し腰を抜かすのが普通であろう。だがこの青年、そのひ弱な見た目に反してどこか強気で変わっている。


「それでいいよ。話を聞いてくれて有難う」

「ふん」


(なんだか調子が狂うな。だがこいつの考えは読めるぞ。所詮人間は頭が良いと思い込んでいる阿呆どもばかりだ。最期に恐怖に戦く姿を堪能させてもらおう)


「じゃあ、準備できたよ。外に行こうか」

「……ふん」



 青年は店のスタッフに早退する旨の謝罪を済ませて店を出る。その一連の流れはイヌガミも見ていた。だがこの青年が異常なだけで、本来は狼がいれば店内は大騒ぎであろう。だが前述の通りイヌガミは姿を消せる。青年には説明していないが、もちろんその事を彼は薄々感づいていた。

 


「君って僕にしか姿は見えていないのかな」

「そうだ、今はな。始末する人間にだけ姿を見せ、噛み殺していくつもりだ」

 

 イヌガミはきっと恐れさせるつもりでこう述べたのであろう。自身にしか見えない以上は助けを求めても無駄だということを。だけどやはりこの青年は変わり者だ。聞き取り得た内容が他人のそれとは大きく異なる。


「そっか、姿を操ることができるって訳だね。じゃあ今! 狼ではなく普通の犬に姿を変えることはできないのかな? 皆にも見えるようにして。狼のままだと皆が怖がるから……そうだね、抱っこできるように小型犬になってよ!」

「馬鹿も休み休み言え! 抱っこだと!? 冗談ではないぞ! そんなことをさせるはずがなかろう!」

「ダメ……?」

「無論だ」

「…………」

「だが、その前に話した犬になることと、見えるようにすることまでは仕方がないからやってやっても良いぞ」

「首輪とリードもつけてね?」

「駄目だ! それだけはプライドが許さん!」

「じゃあ小型犬で抱っこ……」

「ぐっ……」


(まさか人間の腕の中に納まる羽目になるとは。こんなことなら下らぬ約束などせずにはじめから噛み殺してしまえばよかった。だが、誇り高い我々が一度約束したことを曲げる訳にはいかぬ。だが、日没を過ぎたその後は……)


「覚えておけよ」

「そうだね、きっと今日の思い出は忘れないよ」

「……お前って奴は……」



 イヌガミを抱えた青年はある場所へと向かう。ショップから犬を抱いて行ける場所なので遠いという訳ではない。行き先は近くの公園。この街一帯は比較的犬を飼う住民が多く、この公園にはドッグランも設けられている。



「まずは公園に来たよ。ここはワンちゃんと飼い主さんがよく集まる公園なんだ。みんな仲良しで触れ合いも多い」


 生前は森を、大地を、風のように駆け抜けてきたイヌガミにとって、狭きドッグランなどには一かけらの興味も沸きはしない。つまらなそうに公園の全景を眺めていると、青年が再び口を開いた。


「どうだい? ワンちゃんも人間も皆楽しそうだろう」

「それは否定しない。だがな、そんなことは百も承知、洗脳されていれば当たり前のことなのだ。貴様ら人間もそうだろう? 宗教がその最たるものだ。信ずればそれが全てで、やれと言われたことを行えば幸福と感じる。それが例え騙し搾取するような悪徳なカルト宗教だとしてもだ」

「君、神様なのに宗教に否定的だね」

「話を聞けっ!」



 ひとしきり人々と犬達の慣れ合いを眺めた後、続いて彼らは店に入る。ペット同伴が可能な店。というよりペットと共に来店することが前提の店だ。



「ここはドッグカフェだね。ワンちゃんも一緒にご飯を食べられる」


 青年の言葉を聞いたイヌガミの耳がピクリと動く。ご飯というフレーズを覚えたペットのようなリアクションだが、もちろんイヌガミが反応したのはそこではない。


「これだ! これぞ犬にとっての諸悪の根元! ドッグカフェとやらを言っているのでない。人間に餌を与えられているという点だ! 本来腹は自分で狩り満たすものだ。餌などにつられてしまうから、犬は人間に媚を売るようになったのだ!」


 これはなんとも自然界を生きてきた者の発言だろう。その内容から語気に至るまでイヌガミの並々ならぬ尊厳が感じられる。誰よりも獲物を狩り続けてきた矜持、果敢に強敵に立ち向かっていった勇気。それらがイヌガミの言葉に尋常ならざる迫力をもたせていた。


「食べてみるかい?」

「喰うわけなかろう!」

「よだれ出てるよ?」

「こ、これは! 後に貴様を噛み砕き貪る事を考えてのことだ! 勘違いするな! 自らで勝ち取ったからこそ得られる喜びがあり、なんの苦労もなく人間から与えられたものなど無価値だ」

「うーん、僕に狩猟の価値は分からないけど……でも、美味しいよ?」

「…………」

「犬としては食べるわけにはいかないだろうけど、君は神様だろ? 神様なら捧げ物を受けとらなければならない。僕から君への捧げ物、としてならどうだい?」

「…………そこまで言うなら仕方がない。食ってやろう……」

「素直じゃないんだから……」

「何か言ったか?」

「ううん、なんでも」


「すみませーん! 注文いいですかぁ?」


 あぁイヌガミの矜持よ何処へ……

 自然界の戦いは食との戦いだ。野生の動物でも人間から与えられたものは拒まず受け取ってしまうのだ。悲しいかな、これも自然に生きてきた者の性なのだ。


「さあ来たよ。どうぞお召し上がりください」


 青年はウェイターから受け取った料理をイヌガミの前に仰々しく差し出す。あくまで体面は捧げ物なのだ。奢ってあげた訳でも、恵んであげる訳でもないのだから、参拝者が礼を尽くさねばならない。


「うむ……って……なんだこの綺麗に飾られた餌は! 餌とは血の滴るものだというのにこれは……」

「餌と捧げ物は別だよ。神様に捧げるんだから、綺麗に盛り付けてあって当然だろ?」

「む……それもそうか。では」


 お供えされた食事を口にするイヌガミ。すると口の中には得も言えぬ濃厚な風味と芳醇な香りが広がっていく。生臭く味気ない生肉とは比にならない洗練された味わい。


「……!?」

「どうだい? 美味しいだろ?」

「ま、まぁな。だが柔らか過ぎて食い応えがない。もう一つ寄越せ」

「ふふふ、ダメだよ。太っちゃうじゃないか」

「俺の本来の体格を見ただろう? なんの問題もない!」

「仕方ないなぁ……」



 イヌガミを連れて次に訪れた場所。そこはこの美しく晴れた青空と心地の良い陽射しが差しているにも関わらず、どこか詰まるような息苦しさと哀愁を感じさせる。



「次はここだよ」

「……嫌な、臭いがするな」

「ここはワンちゃんの斎場。ちょうど今日、ワンちゃんとのお別れをしている人達がいるね」

「…………」

「みんな泣いてるね」

「あぁ……」

「悲しいんだよ。君は孤高と言ったけど、狼は本来群れで行動するよね? 仲間や家族が死ぬのはつらいだろう?」

「その気持ちは分からんでもない。だがあくまで同種だからだ。異種への愛など理解できん」

「種族は関係ないよ…………犬は家族だ」



 斎場を離れると閑静な住宅街へと向かっていく。行く場所は公園から始まり、カフェ、斎場と段々とマナーが必要なフォーマルな場へと移っていく。だが次に訪れた場所は始めに向かった所とはまた別の、それはそれは小さな……



「最後に行くのはここだよ」

「なんだ? また公園じゃないか。この公園の中に入るというのか?」

「ううん、公園の中じゃなくて、あのバス停を見ててごらん」


 しばらく眺めていると、公園の角からひょっこり犬が現れる。痩せ細ったみすぼらしい身なりの老犬。その老犬は角を曲がるとバス停の前で立ち止まり腰を落とした。


「なんだ、あの犬は……」

「あの子はね、毎日この時間から飼い主さんの帰りを待っているんだよ」


 なんと言うことか。犬を自宅に置いていき、あまつさえ自分の帰宅時間に迎えに来させるとは。おまけに老犬の容姿は比類なきほどの貧弱ぶり。ぞんざいな扱いをされてなお人間に従うとは、なんとも泣けてくる子々孫々の凋落ぶりよ。

 と、イヌガミが思うのも無理はない。


「飼い主がくたばればこんな習慣も無くなるだろうに」


 その無様な光景に思わずイヌガミは苦言を呈する。だがイヌガミは一つ勘違いをしていた。かの老犬は決してぞんざいな扱いなど受けてはいなかったのだ。


「ううん、違うよ。飼い主さんは……もうすでに亡くなっている」

「!?」

「あの子はうちのペットショップから買っていってくれた子でね、飼い主さんともよくお話ししたんだ。でも二年前に仕事の出先で事故に遭い亡くなった。それから二年間、あの子は毎日毎日足しげくこのバス停に通っているんだ」

「バカな……二年間だと! 犬の二年間は貴様ら人間とはまるで違う! どこまで盲信していればそんなことができるんだ! 飼い主が死んだことにも気付かず、バカみたいに同じ事をし続ける。おい放せ! 俺が今奴に話してくる。貴様はもう待つ必要などないということを!」


 腕の中でジタバタともがき暴れ出すイヌガミ。だが青年は慌てる素振りも見せず、ゆっくりとイヌガミに語りかける。


「その必要はないよ」

「なんだと?」

「あの子はペットショップにいた時から利口な子だった。大人しくて騒ぐこともない、とても頭の良いワンちゃんだった」


「あの子は……飼い主さんが亡くなったことなんて、とっくに気付いているんだよ」

「…………」

「それでもあの子は待ち続けるんだ。それが飼い主さんとの約束だったから。きっとその繋がりを断ちたくないんだろうね」

「馬鹿が……くだらぬプライドを……」

「くだらないなんて言っちゃダメだよ。あの子には何にも変えられない大切なことだ」

「……悪い……」

「痩せ細っているね。二年もよく頑張ったよ。多分あの子はもう長くはないと思う。でも二年も辛抱強く待ち続けたあの子は、きっと向こうで飼い主さんに会えるだろうね」



 バス停を離れて元来た道を辿っていく。急ぐこともなく、ゆったりとした歩調で歩みを進めていくが。その時は、刻一刻と迫っていた。陽は傾き、街全体を憂い色に染め上げていく。



「そろそろ日が落ちるね」

「そうだな、それと共に貴様の命も堕ちる事となる」

「……!」


 切ない情景、物悲しい空気。これらを加味すればイヌガミの心も動くと誰しも思ったことであろう。だが、イヌガミの決意は動かない。この短時間で絆されるほど、イヌガミの意志は甘くはなかったのだ。


「ふははは! 意外か? 今日一日共にして、俺の心を掴めたと思ったか? 貴様の考えなどはじめの時からお見通しよ。俺を懐柔し、手懐け、同情を誘おうとしたのだろう? 浅はかな人間よ、あの程度では俺の意思は変わらぬ。むしろより人間が犬の精神を支配していることがよく分かった。殺すべき存在だということがな。そういった意味では貴様には感謝したいところだ」


 なんという皮肉か。青年の取った行動はイヌガミの決意を更に強固にするものであった。イヌガミは自身の決断が間違ってはいなかったことを改めて再認識する。そして間もなく訪れるその瞬間が、正当なる神の裁きだと証明されたのだ。青年の腕から小柄な体を跳ねさせると、ぴょんとその手を離れるイヌガミ。だがその四肢が地面に着く頃には、本来あるべき巨大な体躯に変貌していた。


「では、もう日が落ちる。死ぬがいい、人間よ。そして我ら種族の繁栄の狼煙となるのだ!」


 赤く染まったイヌガミの体毛を、日没が深き闇へと染めていく。そして強靭な後ろ足が地面を蹴ると、瞬く間に頭蓋ですら丸砕きにできるほどの大口が青年の眼前まで迫ってきた。


「君は、犬を絶滅させたいのかい?」


 鋭き牙が頭部に食い込む直前、イヌガミは青年の言葉に動きをピタリと止める。


「……今、なんと?」

「君は今、犬を繁栄させたいと言った。だけど本当は、絶滅したかったのかい?」


 一体何を言っているのだろうか? どう解釈すれば絶滅したいと聞こえるのだろう。イヌガミは下らぬ事で動きを止めたことを後悔する。


「貴様とはさっきから妙に話が噛み合わぬ。もうよい、消えろ!」

「人間を殺したら! 犬は間違いなく絶滅するよ」

「……!?」

「君はさっき僕の事を懐柔させるつもりだったんだろうと言ったね? でも僕にそんなつもりはないよ。犬と人間の関係はよく知っている。半日でどうにかできるなんてはじめから思っていなかった」


 ではなぜ? 分かっていたのなら、どうして逃げもせず、戦いもせず、あのような回りくどいことをしたのだろう?


「僕が見せたかったのはね、どれだけ犬と人間の生活が密接に関わっているかという事だよ。いいかい? 君の理想である姿、狼は幾度も絶滅の危機を叫ばれている。日本では実際に絶滅してしまった種も存在するんだ。残念ながら狼の生き方では今の自然界は生きていくには厳しい。事実狼は間接的に人間に保護されるかたちで、その個体を保っている種もいる位だ。反面、犬はどうだろう? 少なくなるどころかその数は増え続けている。それがいいか悪いかは別として、種族として成功しているのはどちらだろう。生存競争に勝ち得たのはどちらだろう」


 イヌガミは依然変わらず青年に牙を向けている。だが、その言葉は先までの有無も言わさぬ凄みに欠けるものであった。


「そんな事は……知っていた。だが狩りもできない程に退化し、醜く衰えていく様を見ていくのは……」


 今を生きる犬達が、人の手を離れれば生き辛いこと、苦難を強いられること。イヌガミは全て承知の上だったのだ。それでも彼は飼い慣らされることに我慢ならなかった。なぜならそれは犬は人間より……であることを認めなければならないのだから。


「違うよ。確かに今の飼い犬には狩りをすることはできないだろう。だけどね、これは退化ではない。進化だ。犬はこの地球で生きる上で最も適した進化をした生き物と言えるんだよ。もし、君が人間を絶滅させたら……犬はこの先生きていけると思うかい? 自分で餌を確保し生き永らえていくことを想像できるかい? きっとあらゆる犬種が早々に死を迎えることになるだろう。野生で生きることが前提ではない犬がほとんどなのだから」

「やはり貴様も、人間が犬を生かしてやっていると……そう思うのか? 犬が人間より下等な生物だと、そう言いたいのか?」 


 下等生物の烙印。これこそがイヌガミのコンプレックス。此度のイヌガミの行動の動機である。自身の種が下等である事、下に見られる事が許せなかったのだ。こんなひ弱な青年ですら犬を下に見ている、きっと人類全てが同じことを思っているのだろう。

 と、イヌガミは信じていた。明らかに優位に立つ状況にありながら、目の前の種に圧倒的な敗北感を感じていた。だが……


「違う! 確かに犬は人間がいなければ生きてはいけない。だが人間もそうだ。それは介護やレスキューとしての必要性など様々にある。だけど、一番大事なのは安らぎだ。人間は犬から多くの安らぎと幸せを貰っている。互いが互いを必要とし、寄り添いあう。犬と人間は、最早切り離すことなんかできないんだよ。人間は犬を下に見ていることなんてないし騙してもいない。犬も見下されているなんて思ってないし騙されてもいない。ただただ、互いに信頼しあっているだけだ!」

 

「それを偽りと言うのなら、僕は君のことを許さない!」


 青年の言葉には、真に迫る迫力があった。とてもその貧弱な身体から出たとは思えない、確固たる意志と決意が備わっていた。イヌガミは牙を引き開いた口を閉じると、静かに、それでいて威厳のある態度で青年に尋ねた。


「許さなければ、どうしようというのだ」


 薄暗い夜道に緊迫した空気が流れる。イヌガミは返答次第では再びその牙を青年に向けると決めていた。だが、返ってきた答えは……


「ん……そこまでは考えてなかったかも……」


 なんと、青年はあれだけの大口を叩きながら、なんの策も弄してはいなかったのだ。なんとばかばかしい。なんと呆れてしまうことであろう。だけどもその言葉はイヌガミの心にある一つのことを決断させた。


「ふ……ふはははははは! そんな中途半端な理論で、よくぞはじめに止めさせるなどと断言できたものだ! 貴様は面白い、それに言っていることもその場逃れではない嘘偽りなき本音であることも感じられる」


「だがな、やはり貴様は殺すよ」


「……そう……」

「でも明日にする」

「え?」

「明日のお前が犬を大事にするのなら、殺すのはそのまた明日だ

 その次も、またその次の日も……」


「いいか、毎日毎日を大切に思え。毎日毎日を死ぬ気で犬に接しろ。もし、少しでも犬を裏切り下に見るような真似をしたら、その時は容赦なく貴様の首を噛みちぎる!」

「ふふふ、それ、全国の飼い主さん達に伝えて欲しいなぁ」


 安易な考えで犬を飼い始め、結果飼いきれなくなる無責任な飼い主も多い。命を預かる立場として、同じく飼い主も命を懸けなければならない。そんな当たり前のことを、残念ながら忘れてしまう者が少なからず存在する。


「言われなくとも貴様に限らず、犬を蔑ろにする奴は喰い殺す。だが、俺も神だ。罰を与えれば恵みも与える」


 そうイヌガミは神なのだ。独断で神罰を下すことがあれば、その逆、天恵を与えることだってあるのだ。そしてイヌガミの思う天恵とは……


「仮にだ、もし一日も欠かさず犬と真摯に接し続けてきた者がいるとしたのなら……

 死後に必ず……両者を巡りあわせてやろう」

「……そっちの方が、伝えて欲しいかもね……」


 イヌガミは一歩引いたかと思うと、その四肢を使って瞬く間に住宅街の屋根へと飛び上がる。そして遠吠えの如く、イヌガミは人類に向かって警鐘を鳴らすのだ。


「ではさらばだ、人間! だが忘れるなよ……イヌガミは必ず! 愚かな飼い主どもを見張っているということをな!」

犬の神、イヌガミ様のお話。


犬に限らず、ペットを飼っている皆様に読んでもらいたい短編です。

なんとも恐ろしいイヌガミ様ですが、ペットを大切にし続ければ、きっとイヌガミ様が再び巡り合わせてくれることでしょう。


次回は二の神、ユキガミ様です。

別作品として投稿しますので宜しくお願い致します。

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