宇宙のウイルス
1
学校は夏休みに入っていた。僕は毎朝近くの神社の境内へラジオ体操をしに行く。首からカードをぶら下げて、一日一個赤い判子を押してもらうために。
僕の名は守。緑小学校の5年生。弟の悟は1年坊主。僕は近頃この小さな生き物から解放されつつあることを喜んでいた。小学校に入るまでの悟はやたらと僕にひっついて離れようとしなかった。幼稚園児の悟の行動範囲はとても狭かった。スクール・バスで通っている友達の家は悟にとって遥か彼方、虹の向こうにあった。今では歩いて5分の緑小学校の学区域を網羅して渡り歩いていた。学校から帰るとカバンを置いてすぐさま飛び出して行く。どうやら人の家に上がり込むのが好きだったらしい。
僕はこの突然訪れた(降って湧いたような)自由を喜んだ。しかし、夏休みというのは大きな誤算であった。またまた悟がいつの間にかぴったりと横に張り付いていたのだ。
「うるさいなー、友達のナントカ君のところへでも行って遊んでこいよ」
ゆっくり本も読んでいられない。
「だって僕、約束していないもの。行くって言ってないもの」
遊びに行くのに予約がいるのか当節は。なんて律義な奴だと感心した。
「おーい、守」
玄関の前で恥ずかし気もなくでかい声を出す奴、約束もせずにいきなりやってくる僕の友達、哲郎がやってきた。
「プールに行こうと思ってさ、区民プール」哲郎は海水パンツの入った水玉模様のビニール袋をぶらぶらさせた。
「ああ、いいよ、待っていて。今、支度するから」
僕は大慌てで部屋に戻り、ビニールバッグに海水パンツと帽子を詰め込んだ。居間にいた悟は、畳の上に画用紙を広げて一人で何やら絵を描いていた。自分も行くと言って騒ぎ出すかと思ったが、悟は関心を示さなかった。身構えていただけに、いささか拍子抜けの感がした。僕は哲郎と一緒に家を出た。
太陽はギラギラと輝いていた。プールはイモ洗い場と化していた。人の頭の間に水面が見えた。僕らは人にぶち当たりながら、しゃかりきに泳いだ。出来るだけ人を避けようとして、ジグザグに。時にはぐるりと回りながら進路を確保しようと躍起になった。やはり泳ぐのはまっ直ぐが良い。2時間という制限時間を使いきった。
プールからあがると、売店でアイス・クリームを買った。歩きながら食べるアイスは格別にうまい。まだ濡れている髪に生暖かい風が触れていくのが気持ちよかった。体の中がポカポカとして、全身の皮膚がサラサラとした。
区営プールの近くに図書館が建っていた。建物のガラスの扉が開くと、冷房の乾いた空気が吹き付けてきた。児童室には母親と一緒の小さな子供達がいて、赤いカーペットの引かれた床の上に転がっていた。絵本のページを捲る母親がいた。僕らは真っ直ぐに少年少女SF文庫シリーズの並ぶ棚に向かった。
哲郎は素早く一冊の本を手にした。
「やっと、あったぞ。探していたやつだ」
図書館の本は貸出中の物も多く、そうそう目当ての物を手に入れるというわけにもいかなかった。僕は少し離れたところに同じシリーズの背表紙を見つけた。なかなか今日は収穫ありだ。他に2冊の本を選び出し、全部で4冊の本を借りた。
外に出ると、太陽は随分低い位置にきていた。しかし、まだ辺りは明るかった。僕らはてくてくと歩いた。私鉄の駅3つぶんを苦もなく歩いた。そしてお互いの家の近くの小さな公園の前で別れた。
家では夕飯の支度ができていた。父親が帰ってきて、家族一同が食卓についた。母親は、さて、子供達を何処かへ連れて行かなけりゃと言い出した。父親にも夏休みっていうものがあるらしい。どうやら来週はそれらしい。
「そうだな、何処へ行こうか」父親はビールの泡をこくこくと飲んだ。「お前は、何処へ行きたい」
「僕、火星」
父親は飲んでいたビールにむせた。「そりゃ、行けないこともないだろうが。そう、お前が大人になる頃にはね。行けるかもしれない。うん、きっとその頃には海外旅行ではなく、宇宙旅行になるのだろうな」
「冗談だよ」
僕の言葉に父親は顔をしかめた。
「何処にも連れて行ってやらないぞ」
「まあ、まあ、そう言わず」と、母親が宥めた。
そう、いつものように田舎へ行くだけでいいんだ、僕は。遊園地に行きたいって年でもないしね。ちょっと意外だったのは、さっきの父親の言葉。宇宙旅行だなんて、結構真剣に話していた。
食後の西瓜はひんやりと冷え、水分をいっぱい含んで甘く口の中に広がった。夏の夜。虫の音を聞きながら、昼間借りてきた本を読み始めた。悟はもうすやすやと寝息をたて、水色の肌がけにくるまって寝ていた。 僕は小説の中の主人公と一緒に江戸時代にタイム・トラベルして……。そして、やがて、いつの間にか眠ってしまった。
2
僕は大きな道路の真ん中にいた。太陽は真上にあり、アスファルトの道路はゆらゆらと揺れて陽炎がたっていた。鍋の中に突っ込まれてぐつぐつと煮られているような感じ。空気はたっぷりと水を飲み込んで、べったりと体にまとわりついた。光と影がくっきりと静止していた。生い茂った緑の葉はそよとも動かなかった。
僕は生え際から吹き出す汗を拭った。哲郎は素足に運動靴を履いて、いつものように爪先立ってヒョイヒョイ歩いていた。道の向こうに車の姿が見えたので、僕らはゆっくりと道路の端に寄った。夏休みの宿題で絵を一枚描かなくてはならなかった。スケッチ・ブックと画材道具をぶらさげて、暑苦しい真っ赤な車が通り過ぎるのを横目で追った。つるつるとした車体に日の光が反射した。道は真っ直ぐ伸びていた。赤い点はその先に広がる公園の緑に滲んでいった。白をふんだんに混ぜた水色の絵の具を塗りつけたような空。白い太陽。
突然、大きな紫色の一条の光が、パーンと音をたてたように強烈な輝きで空一杯に広がった。目の前が真っ白になり、一瞬のうちに尻餅を付いていた。青い光が道路の上をサッと走っていった。爆風に飛ばされたのだろうか? 哲郎も道路にへばり付いていた。辺りを見回したが、家並みも公園の緑も変らなかった。
哲郎はすぐに立ち上がって服の汚れを払った。「雷かな。青い光が走ったろう、見たかい」
「ああ。だけど、音がしなかったよ」僕はしんと静まり返った家々を見た。
「音がしなかったかい」哲郎は首を傾げた。「パーンという音を聞いた気がしたけれど。それとも、人工衛星でも落ちたのかな」
「人工衛星っていうのは落ちる時には前もって予告するだろう。そんなニュースは聞いていないし。そういえば、昔人工衛星が落っこちて年寄りが一人死んだそうだ」
「なに、その人の真上に落ちたのかい」
「いや。人工衛星が落ちてくるというニュースが流れたとき、日本に落ちてくるかもしれないというので、結構大騒ぎになったんだって。結局、海の真ん中に落ちたらしいけど。一人の老人がショックで倒れて、うわ言で人工衛星が落ちてくるって言いながら死んじゃったんだって」
「嘘のような話だ」哲郎は全然信用していなかった。
2台の車がクラクションを鳴らしながら悠々と僕らの脇を走り抜けて行った。
「あ、血が出ている」哲郎が僕の肘を持ち上げた。
「擦りむいたんだ、さっきひっくり返ったときに」
傷口にそっと触ってみた。今まで気が付かなかったのに、言われてみると急にひりひりと痛んできた。
背後でまたクラクションが鳴った。いやに急いだやかましい音がした。車が猛スピードで走って行った。一台、二台、三台…続々と繰り出す車に僕らは顔を見合わせた。
「新聞社の旗が立っていた」
「テレビ局のマークだ!」
そう叫ぶと僕らは駆け出した。次々と車に追い抜かれながら一目散に走った。肩から下げた絵の具箱がカタカタと大きな音をたてた。手に持ったスケッチブックをぶんぶん振って、緑の広がる自然公園に辿り着いた。
公園の前にはたくさんの車が停まっていた。集まってきた人々は皆、一様に期待に顔を輝かせて喋り合っていた。人々の波は公園の中心部へと足早に流れていた。
「飛行機が落ちたのか」アベックの片割れが言った。
「いや、隕石が落ちたらしい」と、インテリ風の眼鏡をかけた中年の紳士が言った。
「UFO(未確認飛行物体)だ」男の子が叫んだ。
「まあ、一体何があったのですか」老婦人が周りの人に訊ねていた。
「空に、すごい光が走るのを見ましたよ」気のよさそうなでっぷりと太った女性が、大声でそのときの情景を語っていた。
うっそうと茂った並木道を抜け池を過ぎると、急に視野が開け、そこは広々とした芝地になっていた。緑の芝の上には、銀色のジャンボジェット機くらいはあろうかと思われる流線型の大きな物体がでんと横たわっていた。
「あら、まあ。熱気球がこんなところに」さっきの老婦人が溜め息を漏らした。
「違うよ、おばさん。UFOだよ」男の子が甲高い声を出した。
「あらまあ、今はそういうふうに言うのかしらね。近頃はなんでも横文字になってしまって」
テレビ局のカメラがセットされ、アナウンサー達が各々リハーサルをしていた。皆、興奮して大慌てで怒鳴り合っていた。数名の警官がその場に立っていた。
「UFOか」哲郎は訝し気に眉をひそめた。
「火星人襲来のテレビ番でもやろうっていうのかしら」アベックの片割れの女性が言った。
「なに、それ」男のほうが聞き返した。
「アメリカで、その昔ラジオで実況中継風に放送したのよ、火星人の襲来をね。まるで今起こっていることのようにニュースのアナウンサー風に。で、その放送を聞いていた人達がそれを真に受けて、ちょっとしたパニックを起こしたっていうわけ」
「で、これがそれだっていうわけ?」男の方が肩を竦めた。「だけど、日本人がこんな大掛かりな事を且つ精巧にできると思うかい。もし、そうなら、日本映画の水準はもうちっとましな物になっている筈だよ」
「私達は歴史的な場面に遭遇しているのですよ」インテリ風の眼鏡を掛けた中年の紳士が、青白い顔を紅潮させて呟いた。
自衛隊の一団が到着し、辺りは物々しい雰囲気に包まれた。えたいの知れない機械が組み立てられ、無線機の音がせわしなく鳴った。カメラマン達は銀色の物体に近付こうとし、自衛官に押し戻されていた。
背広姿のアナウンサーが、キューの合図と共に喋り出した。「正午、突然日本上空に出現した謎の未確認飛行物体は、ここ自然公園の緑地の上に降り立ちました。皆さん、この銀色の流線型の物体を御覧いただけるでしょうか。先程から自衛隊幹部による呼び掛けが行われています。宇宙人からの応答はまだありません」
「一体、何語で呼び掛けているんだろう」哲郎は首を捻った。
「英語かな。なんたって、インターナショナル・ラングエッジだし」
銀色の物体の中央部にポッカリと穴が開き、スルスルと長い階段が降りてきた。僕らは思わず固唾を飲んだ。すべての目が一点に釘付けになった。一瞬全ての音がなくなった。人声も咳払いもコトリという音もしなかった。静寂のベールの中に吸い込まれていくような感じを覚えた。
僕らは待った。
次第に音が戻って、やがて人々はざわめき出した。無線機のガーガーピーピーという音。アナウンサーは、「どうしたのでしょうか」を連発していた。銀色の階段には何も現れなかった。
そのとき、肩に触れる手があった。僕は半分ばかり首を回して、その手の持ち主を一瞥した。大きなくりっとした目をした同じ年頃の女の子が立っていた。彫りの深い浅黒い顔で、明らかに日本人の子供ではなかった。顔が異常に小さく、肩まで伸ばした黒い髪はカールがかかっていた。
「お前ら、何している」女の子は男言葉の変な日本語を使った。
「宇宙船だよ」僕は一言で済ませたかった。
「それで?」
「宇宙人が出てくるのを待っているんだよ」
「自衛隊は何をやっている」アベックの片割れが叫んだ。
「そう、宇宙船に乗り込むべきです」インテリ風の眼鏡を掛けた中年の紳士は妙に意気込んでいた。「なんなら、私が行ってもいいですよ」
「まあ、あなた、そんな恐ろしいことを」老婦人が心配気に紳士を止めた。
「やけに気を持たせるじゃないか」哲郎は不満気な声を出した。
「動き出したぞ」
群集の中から声が上がった。制服姿の自衛隊の一団が、銀色の物体に向かってぎくしゃくと歩き出した。
「いいぞ!」
「頑張れ」
拍手がパラパラと鳴り出し、ピューピューと口笛を吹く音、励ましの歓声が響いた。
自衛官達はあと10歩というところで立ち止まった。長い銀色の階段が出てきたときと同じようにスルスルと宇宙船の中に吸い込まれていった。宇宙船はすっと垂直に浮かび上がったかと思うと、物凄い光を放って次の瞬間には影も形もなくなっていた。
宇宙船の周囲に集まっていた人々は、気が付くと、一様に緑の芝の上に倒れていた。あっという間の出来事だった。一体全体、どうやって倒れたのか。宇宙船のすぐ傍にいた自衛官達でさえ、火傷あるいは爆風による被害はみられなかった。只、てんでんばらばら地面に転がっていたのだ。まるで白昼夢を見ていたかのように。人々はゆっくりと立ち上がった。さっきまであれ程騒いでいた群衆が誰も口を開かなかった。人の話し声の代わりに金属的な音が高く低くあちこちで聞こえた。
僕は横にいた哲郎の背中を小突きながら辺りを見回した。「おい、哲郎。何か様子が変じゃないか」
ロボットのような声を思わせるバイブレーションのきいた金属音。その音が哲雄から発せられていることに気が付いた。得体が知れない恐ろしさにぞっとして息をのみ、思わず身を退いた。哲郎は人波の中を歩き出していた。
人々は互いに話さず、しかし、金属的な音を絶えず発しながら歩いていた。その機械的な音で、なにやら話し合っているようにも見えた。アナウンサーも若いアベックも老婦人もインテリ風な眼鏡を掛けた紳士も、列を連ねて大通りに向かっていた。
突然、肩に置かれた手に、僕は心臓が飛び出るほど驚いた。
「おい、お前」
さっきの外人の女の子だ。僕は人の言葉を聞いてほっとした。
「よかった」外人の女の子とだけ話ができるというのがなんだか不思議な気がした。「一体、皆、どうしたんだろう。なんだろう、宇宙船は行ってしまったというのに」
「お前さー」女の子は傍らを通り過ぎる人に小突かれて少しよろけた。「ひょっとして、宇宙人が手を振りながら降りてくるなんて期待していたのか」
女の子は人形のように小さな整った顔に似合わない、ちぐはぐな乱暴な日本語を使った。
「君、誰に日本語を習ったのか知らないけれど、普通女の子はそういう言葉を使わないものだよ。まあ、近頃はそんなのも流行らしいけど。僕はそういうの直した方がいいと思うよ」
「お前、ばかか」女の子は呆れた顔で言った。「今、そんなこと言っている場合か。これは侵略だよ、明らかに宇宙人の攻撃だ。お前、少しは自分でも考えろよ、この異常な状況についてさ」
「うーん、宇宙人による集団催眠とか、そういったものかい? 僕らは運よくかからなかったとか」
公園に詰め掛けていた大勢の人の姿はあらかた消えていた。大通りへ向かう行列の最後尾を占めると思われる人々が通り過ぎようとしていた。人々の顔には表情が無かった。
「前にこんな話を聞いたことがある」女の子は言った。「ネズミは、ある種のネズミは増えすぎるとその一部が突然群れを作って駆け出し、そのまま海に飛び込んで自殺するんだって。なんだかそういうのを思い出しちまう。少し似てないか、列を作ってもくもくと行進するっていうのは」
「哲郎が前の方にいる筈だ」僕は列の後ろに付いて歩き出した。
「わかんないけどさ」女の子は小走りになって追いついた。
「海まではかなりあるよ」
僕は足を速めた。女の子も殆ど駆け出す速さで、列になった人々を次々と追い越していった。公園の入り口に辿り着いたとき、人々の波は予想に反してそこから散っていた。皆、てんでんばらばらな方向へと移動していた。駐車してあった車に乗り込む者、自転車に乗って走り去る者、歩いていく者。なんの一貫性も方向性も見られなかった。
只、人々は言葉を口にしなかった。口を閉ざしたまま、金属的な機械音をブーンブーンと発し、ハミングしていた。哲郎の姿は見当たらなかった。
「海に向かっているわけでもなさそうだ」女の子は去って行く人々を眺めながら言った。
「ネズミになったわけではなさそうだね」僕はほっとしながら哲郎の家に向かって歩き出した。
「うーん」女の子は頭を掻いた。「いい案だと思ったんだがな。地球の人口は増え過ぎだよ。宇宙からやってきた宇宙人がみかねて減らそうとしてくれたのかと思った」
「凄いこと言うなあ」僕は女の子をまじまじと見た。「そういうことはたとえ思っていても口に出しちゃいけないんだ。皆の反感をかうよ」
「お前、年寄りみたいなことばかり言うな」女の子は口をへの字に曲げた。
「もっとも僕らが何を言っても彼らにはわからなくなってしまったみたいだけど」
僕らは、ブンブンという機械音を発して通り過ぎていく人々とすれ違いながら歩いた。家のドアを力強く叩くと、哲郎の母親が出てきた。
「哲郎君は……」
僕はそう言ってすぐに口を噤んでしまった。母親は例の機械音を発していたのだ。一瞬怯んだが、ともかく哲郎の名を連呼して中に入ろうとした。母親は首を振りながら例の音を発し、ドアを閉めてしまった。
僕は閉ざされたドアの前に立っていた。
「信じられない。あの場にいた者だけではないんだ、言葉をなくしてしまったのは」
女の子が砂利を踏む音が背後で聞こえた。
「テレビを見ていたのかもしれない。お前さっき言っていただろう、催眠術みたいなものかもしれないって。テレビを見ていた奴等もそれにかかっちまったのかもしれない」
僕はくるりと振り返った。「何人がそうなってしまったんだ」
女の子は言い放った。「何人がそうならなかったっていう方が当たっている」
「いやに冷静だ」
「半年前に日本に来たときと同じようなものだ、俺にとっては。あの頃は全く日本語なんてわからなかったからな」
「家に帰らなけりゃ」
僕はそう言うといきなり駆け出した。
家の前の石段に座っていた悟は、笑顔を浮かべてその小さな手を振った。それを見てほっと安堵しながら駆け足を緩めた。
「よかった、お前は大丈夫だったのか」
悟の頭をもじゃもじゃと掻き回した。その手の下から聞こえてきたのは、いつもの悟の声ではなかった。ギクリとしてその手を止めた。
玄関の扉を急いで開けると、靴を脱ぎ散らかして家の中に入った。母親は台所で急がしそうに働いていた。振り返った母親は例の機械音を発した。僕は2・3歩後退りした。母親は不思議そうな顔をして歩み寄った。機械の震える音を発しながら。
僕は駆け出して、表へ飛び出した。門には女の子が立っていた。悟はまだ石段に腰掛けていた。首を振って女の子の脇を通り抜け、足早に通りに出た。女の子は歩調を合わせて歩いた。
「だけど、お前のことはわかったろう。言葉を忘れちまったみたいに忘れてしまったわけじゃないだろう」
「まあね。でも、ぞっとした。まるでロボットと話をしているみたいだ」僕は首を振りつづけた。「君の家にも行ってみなくていいのかい」
女の子は肩を竦めた。「誰もいないよ。親父はまだ会社だろうし。午前中なら家政婦がいるけどね」
「だけどこんなすごい事が起こっているんだよ。家に帰っているかもしれない」
「お前の父親は帰っていたか」
「いや」
「大変な事が起こっていると思っているのは今のところ俺とお前だけみたいだぞ。集団催眠だかなんだかわからないけど」
そのとき、路地から飛び出してきた白いワイシャツ姿の若者に避けきれずにぶつかってしまった。
「失礼」ワイシャツの袖を肘まで捲り上げた若者は、ぶつけた肘を摩りながら立ち去ろうとした。
「いえ」僕は腕を摩りながら顔をしかめた。
若者は行き過ぎてからはっとして立ち止まり、つかつかとこちらに向かって大股で引き返してきた。
「君、話せるんだね」
「ええ」
「そうか。うん、そうか、話せるか」若者は僕の手を取って力いっぱい上下に振った。「僕は新聞記者だ」
そして、大急ぎで事の成り行きを話始めた。編集部内が宇宙船の着陸でてんやわんやの状態になっていたこと。現場の模様を伝えていたテレビは宇宙船が忽然と消えたかと思うとプッツリと映像を途絶えたこと。現地に赴いた記者連中からの連絡もずっと途絶えていたらしい。
「どれくらい経ったろう。突然、周囲の者が機械音を発し始めたのだ。周囲の者全てが。僕はデスクから立ち上がった。驚愕して辺りを見回すと、咄嗟に使用されていない会議室へ駆け込んだ。鍵を掛け、そこから片っ端に電話をしてみた。警察、消防署、友人、知人。殆ど全滅だったが、遠方の者とは連絡を取ることができた。今のところどうやら東京近郊だけの現象みたいだ」
「じゃあ、他の地域は大丈夫なんだね」僕はほっとした。
「ともかく、此処にいたのでは何もできない。車を取りに戻ってきた。とりあえず東京近郊で連絡の取れた森博士の所へ行くつもりだ。世界的に有名な科学者だ」新聞記者は大きく手招きをした。「君達も来た方がいいだろう」
僕らは屋外駐車場に置いてあった新聞記者の車に乗り込んだ。車窓の向こうに流れる街の様子は何も変っていなかった。人の流れ、車の流れ。僕らの不安や懸念を何か空々しくさせた。カー・ラジオの音だけが僕らに現実を実感させた。全ての局で、あの機械音が幅をきかせていた。音楽は全てインストゥル・メンタル。あらゆる言葉は全て駆逐されていた。これっぽっちの欠片も取り残されることなく。
新聞記者はラジオのスイッチを切った。「なんだか嫌な感じだな。こう徹底していると」
予告なしの急ブレーキで、後部座席に座っていた僕と女の子はしたたか額を前の座席の背にぶつけた。
「いて~」女の子は反動で反った額を手で押さえた。
「どうしたんですか」
「いや、人が飛び出してきて」新聞記者はドアを開けて外へ出た。
「轢いてしまったのですか」僕もロックを外して外へ出た。
制服を着た若い警官が道路の真ん中にへたりこんだ格好で座っていた。僕らが近付くとよろよろと立ち上がり、片足を引き摺りながら駆け出そうとした。
「あなた、血がでていますよ」新聞記者が思わず呼び止めた。
警官は振り返ろうとしてバランスを崩しかけたが、なんとか踏ん張った。
「よかった、言葉を喋るのですね」警官は顔を輝かせた。
「ええ」新聞記者は大きく頷いた。
車体を挟んで、十字路になっている道路の先に4・5人の人影がうろうろしていた。そのうちの一人がこちらを指差した。僕とその警官は同時にそれを目に留めた。
「早く」警官は僕らを車に追い立てて、自分も後部座席に乗り込んで叫んだ。「追い掛けられています」
新聞記者は半信半疑といった感で、急き立てられるままにエンジンをかけて車をスタートさせた。こちらを見ていた一団の中の一人が、肩から下げていたライフルを構えて撃ちだした。車の後ろのガラスが吹っ飛んだ。 新聞記者は狂ったようにスピードをあげて叫んだ。
「おい、どうなっている」
「どういうこと、これ」僕は首を縮めてシートにうずくまった。「警官が民間人に追い掛けられているなんて」
ライフルを持った民間人が、車に乗って追い掛けてきた。
「あいつら本気だぜ。俺達を殺す気だ」
女の子は飛んでくる玉の中で、シートから首を出した。冷静に後方から近付いてくる車を観察していた。
「あんまり射撃はうまくないみたいだ。あ~あ、あのおじさん、撃ったときの反動で銃口が上がって空を向いている。初めて銃を撃つんだな。おい、お前。拳銃持ってるんだろう」
「ああ」若い警官は慌てて拳銃を取り出して、ぎこちなく構えた。
「おい、安全装置を外してないぞ」女の子が呆れた声を出した。
「拳銃を撃つなんて慣れてないもので」
「見ていられないね。ちょっと貸せよ」女の子は警官の手から拳銃をもぎ取ると、狙いを定めた。
「追い付かれるぞ」新聞記者が一人で叫びまくっていた。
女の子の拳銃が火を吹いたかと思うと、後方から迫ってきた車がおもいっきりスリップしてスピンしながら横に曲がっていった。ゴムのタイヤと道路の擦れ合う甲高い音。ガードレールを突っ切って、キャベツ畑に突っ込んだ。
「やーるー」僕は目を丸くした。
「タイヤに一発だ」警官は絶句していた。
「俺の国では皆銃が撃てるぞ。いつも訓練している。父さんはいつもライフルを背負っている。15になったら軍隊に入れる。女も男もな。俺達は俺達の手で祖国を守るんだ」女の子は誇らしそうに言った。
バックミラーに映っている新聞記者の目が点になっていた。畑に突っ込んだ車から這い出してきた奴等が見る見る小さくなっていった。警官は血の出ている足をハンケチで縛った。
「奴等に撃たれた。幸い掠っただけだが。まったく、世の中が突然変っているのだからな。驚くべきことに彼らはあの機械音でちゃんと会話をしているようだ。しかも対象地域はどんどん広がっている。世界中があのボイス・ボックスを使ったような無機的な音で、しかも言葉もなく語り合うようになりそうだ」
「バベルの塔か」新聞記者が言った。
「バベルの塔?」僕は聞き返した。
「旧訳聖書だ」女の子は真面目な顔で言った。
新聞記者はハンドルを握っていない左手を天に向けた。
「人類はバベルの塔を、天まで届くほどの大きな塔を建てようとした。神は怒り、皆の言葉を乱された。人々は世界共通の言葉を忘れてしまい、それぞれ別の言葉を話すようになった。お互いの言葉が通じず、争いが始った」
「バベルの塔の逆をいっているというわけか」女の子は腕組みをして座席に寄り掛かった。「じゃあ、なにかい。神様は人類をお許しになって共通の言葉をお返しになったが、俺達はお許しにはならなかったってことか」
「あなたとあなたより劣れる人を除いては」新聞記者はカーブでハンドルをきりながら言った。
僕らは一斉に体を斜めにした。
「俺達、ひょっとしたらノアの箱船に乗り損なったのかな」女の子がポツリと言った。
3
長い夏の日が徐々に暮れようとしていた。辺りの景色がだんだんと深い紺色に包まれていた。僕らは郊外の住宅地へ来ていた。前面に緑の庭を持つ白い家が並んでいた。
新聞記者は道路の脇に車を止めた。辺りを見回しながら車を降りた。隣の家の窓にちらりと人影が見えたような気がしたが、道路に人影はなかった。気持ちの良い風が熱さを少しづつ吹き飛ばしてくれていた。
白いペンキで塗られた小さな木造りの門をくぐった。庭の草を踏む足元から、むせかえるような濃い緑の匂いが立ち昇った。森博士の家の鍵は開いていた。ドアを開けると、荒らされた部屋の様子が目に飛び込んできた。
博士は書斎で、頭から血を出して倒れていた。
「森博士」新聞記者が駆け寄った。
「うむ」世界的に有名な科学者は弱々しく唸った。
「誰がこんなことを」新聞記者は唖然としていた。
「決まっているじゃないか、奴等だよ。あの、ガーガーピーピーという奴等だ」女の子が叫んだ。
警官が出血している博士の傷口を見た。「銃弾だ」
「博士。これは、この全ての混乱はあのUFOの着陸によるものなのですか」新聞記者が博士に話し掛けた。
森博士は弱々しく言葉を区切った。
「ウイルスのようなものだ。風邪のウイルスのように人々に伝染していくのだ……」博士は2・3度目を閉じて、苦しそうな息の下から言葉を発した。「信じられない程の速さで広まっている。しかも感染の確率はほぼ100%だ」
「言語中枢を破壊するようなウイルスだというのですか」新聞記者は身を乗り出した。
「宇宙人が取り付いたわけじゃないのか」女の子が静かに言った。
博士はそれらの問いに答えてはくれなかった。博士の顔はもうすっかり色をなくしていた。
「何故、彼らは、宇宙人は行ってしまったのだろう……。私は知りたかったのに。多くの事を。この宇宙はどうなっているのか、そして何よりも……」
博士は静かに言葉を途切らせた。そして、眠るように目を閉じた。新聞記者は頭を抱えてうつむいた。若い警官は椅子にぐったりと腰をおろした。
「あれは、宇宙人が運んできた病源菌の一種なのか。かつてのペストやコレラのように、世の中に蔓延して人々を滅ぼしていくのか」警官は額の汗を拭いながら言った。
「違うのは、病気にかかった方が死ぬのではなくてその反対だってこと。死ぬのは僕らだ」新聞記者が言った。
「どうして健康な我々の方が迫害されなけりゃならないんだ」警官は椅子の中から叫んだ。
僕らは今や少数者になっていた。僕らは本能的に同じ種として集まっていた。窓の傍らに立っていた女の子がカーテンを閉めて振り返った。
「おい、外の様子が変だ。囲まれているぞ」
僕は窓際へ駆け寄った。カーテンの隙間から、通りに集まっている人々の黒い影が見えた。手に持っている松明の灯かりがちらちらと彼らの表情を映し出していた。静かな夜の空気の中に低い機械音がブーンと唸っていた。
警官が鼻をひくつかせた。「なにか、焦げ臭いぞ」
新聞記者が廊下に通じる扉を開けた。炎と煙りの波がどっと押し寄せた。
「俺達を丸焼きにする気か」女の子が咳き込みながら言った。
「ちくしょう」新聞記者は叫んだ。
火の手はあっという間に広がっていった。躊躇している暇はなかった。燃えさかる炎と煙りを逃れているうちに玄関の前に立っていた。僕らは顔を見合わせた。他に逃げ場はなかった。
新聞記者が前に進み出て玄関の扉を蹴破った。僕らは一斉に扉の向こうを見た。松明を掲げた人々がじっとこちらを見ていた。その上に四角く切り取られた星空が見えた。
警官は棍棒を手にしていた。
女の子は拳銃を握っていた。
僕は角材を持ち上げた。
「行くか」新聞記者は振り返って笑った。
「ああ」
僕らは煙の中を駆け出した。