1.旅立ち
春が過ぎて初夏の香りが漂い始める頃。それはひっそりと佇む屋敷をピンクの薔薇が彩り始める頃でもありました。町の人々はいつだって遠巻きに麗しの花々を見つめるだけです。誰も近寄ろうとはしません。
富豪の家だということは一目でわかる外観です。それはそれは立派なもの。しかし五年前、この家の主であった老紳士が亡くなりました。葬儀は身内だけで行われました。そして残された屋敷の後を継いだ者を誰一人として見たことが無いのです。
小さな男の子が一人、老紳士と一緒に住んでいた。それが最も詳しい者の情報です。しかしそれも十年以上前のこと。手入れの行き届いた庭を見る限り、誰かが管理しているのは明らかですが……
真相は屋敷の中にだけ。高い塀に身を隠し、薔薇の花に水をやる者だけが知っています。そう、成長した男の子。もう立派な青年になっています。
皆の前に姿を現さない青年。彫刻のような端正な顔立ち、セピアの瞳は垂れ下がり気味、同色の癖毛の髪は初夏の風に吹かれてワルツを踊ります。そして暑い日であろうと黒い羽織りについたフードを鼻の半分の位置まで被っている。隠しているのは青白い肌と尖った耳です。青年の名前は『スノウ』。儚げな雰囲気は偶然にもその名に合っています。
庭から室内に入ったスノウはカモミールティーを淹れ、錠剤の瓶を手繰り寄せます。鋭い犬歯で噛み砕かぬようそっと何錠かを飲み下す。錠剤は人の血に近い成分です。
だけど時折、本物が飲みたいなんてちらりと頭をよぎります。スノウは老紳士とは血が繋がっていない、拾われた子。スノウの正体は人の血液を主食とするヴァンパイアです。錠剤は庭に植えてある花の成分と両親から譲り受けた秘薬を調合して出来たもの。生前の老紳士も大変博識で、スノウが一人になっても生きていけるようにと薬の調合に協力してくれていました。それが外に買い出しに行かなくても生きていける理由です。
ヴァンパイアは言うまでもなく人間たちにとっての脅威です。実はこの屋敷に潜んでいるのではないかと怪しんでいる者も何人かいます。しかし噂は財力で捩じ伏せています。老紳士の遺産はこの町のあらゆるものへの資金に充てられている。誰も頭が上がらないのです。
そしてこの町はまだ治安が良い方。今、スノウの手元にある手配書は幼い頃に住んでいた町のもの。写真に写っているのはぽかんとした表情でありながらも愛くるしい、それでいて人間ではない者の姿です。高い賞金がかけられています。上半身が裸である理由もスノウは知っています。
「そうか、そうだったのか……君は」
そして幼い頃会ったときにはわからなかった事実にも今気付いたのでした。
スノウはすっと立ち上がるとその長い脚で隣の部屋へと移りました。日が傾いて時刻は十五時過ぎ。クラバットのついたシャツにベスト、上からくるぶしまでのマントを羽織って、頭には中折れの帽子を乗せました。髪にふわりと空気を含ませ耳を隠します。トランクの中には屋敷の財産の半分程を。そして再度庭へ出ると瑞々しく咲き誇る花々を名残惜しげに見つめました。もうここに住むことは無い、きっとそんな流れになると覚悟していたからです。
ごめんね、と小さく呟いて。ピンクの薔薇を一輪摘み取りました。