―闇刀―
「なぜじゃ!?」
老人の喉からしわがれた呟きが漏れた。
「何が足りないと言うのだっ!」
わなわなと震える枯れ木のような手には、ぬらりと濡れた刀が握られている。
錆くさい血の臭いにむせ返りそうになりながら琥珀はこみ上げる吐き気を無理やり飲み下した。目の前で力なく地面に倒れた少年の頬に、闇よりも暗い文様が蠢く。それ自体がまるで意思を持っているかのようにザワザワと忙しなく浮かんでは消える文様は、少年の身体の半分を覆い尽くしていた。
「まさか、この娘……」
はっと顔を上げて老人は横たわる女の身体を睨んだ。
「おのれ……。儂を謀ったか!」
琥珀も老人に釣られて女に視線を移した。着物の襟を肩まで引き下げられ、後ろ手に縛られた女の首から上は無残にも切り落とされ、倒れた少年の傍らに転がっている。琥珀はまたしてもこみ上げる吐き気に、慌てて口元を手で覆った。
「ええい!忌々しい!こ奴、生娘ではなかったな!?」
老人は吐き捨てるように言うと女の身体を蹴り飛ばして、地面に伏せたままの少年の傍に近づく。
「だがしかし……」
何やら思案するように呟いて、少年の頤を持ち上げるとその顔を覗き込んだ。
「覚醒は進んでおる。もう闇刀の身体の半分は常世のものだ。」
ざわり と少年の頬の文様がうねる。それは顔の左半分から首筋を通り滑らかな肩と背へと広がっていた。
「生贄となるのは、ただ生娘であれば良いと言う訳ではないのかもしれぬな……」
老人は眉間に深く皺を寄せて考えを巡らせる。ふと、闇刀の手に何か握られている事に気付いた。訝しみながら蝋燭の火を近づけてきつく握りしめた闇刀の手を掴むと、指の間に何やら茶色いものが見えた。
「何だこれは……」
老人の声に、琥珀も少年の側に寄って跪く。
「何かの花のようだな。」
「なぜ闇刀が枯れた花など持っているのだ……」
昼間でも陽の光など届かない、あるのは冷たい闇と静寂だけのこの場所で、いったいどうやって花など手に入れる事が出来たと言うのだ。
「……誰かここに来ているのか。」
老人は少年の手の中で、茶色くなった花弁を凝視して唇を歪めた。
「どうするつもりだ?」
琥珀の問いかけに老人は視線を空に彷徨わせると、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「次の生贄が決まったようじゃ。」
「どう言うことだ?」
琥珀が驚いたように顔を上げると、老人は目尻の皺を深くしてニタリと口角を持ち上げた。
「ここに誰が来ておるかは分からぬが、男に花を贈るなど大の男がする事ではなかろう。この花が誰かの手で持ち込まれた物であるなら、それは女が贈った物だと言う事じゃ。」
老人は蝋燭を手に立ち上がると女の亡骸を見て眉を顰める。
「始末しておけ。」
琥珀に向かって顎をしゃくると短く吐き捨ててその場を後にした。琥珀は血溜まりに沈む女を見て、それから倒れたまま動かない少年に視線を向けると蒼い瞳に悲痛な色を滲ませて俯く。
せめて、少年が目覚める前にここを片付けておいてやろう。人知れず屠られた女に形ばかりでも墓を作ってやろう。
琥珀は女の身体を肩に担ぐと自分の蝋燭を片手に持ち、ゆっくりと歩き去った。
遠ざかる足音を聞きながら闇刀はぼんやりと暗闇を見つめていた。緩やかに意識が浮上すると、甘い血の臭いが鼻腔を満たす。自分の身体の中に自分とは違う意思を感じて小さく呻いた。皮膚の下を何かが這いずりまわっているような悍ましい感覚が血を求めてざわめいている。
―― 朔夜
駄目だ。
―― お前に会いたい
駄目だ。ここに来てはいけない。
―― 朔夜、朔夜
呼んではいけない。求めてはいけない。
―― 朔夜…… ここは暗くて寂しい。
そんな感情などとうの昔に捨てたはずなのに。
―― 会いたい。会いたい。
焦がれても決して叶わない願いだと分かっているのに。
―― 寂しくて、会いたくて、お前が恋しい……
駄目だ、来てはいけない……
―― あぁ、朔夜……
寂しい……。1人は嫌だ。
ーー 会いたい。寂しい。会いたい。
会いたい。恋しい。寂しい……。
ーー 朔夜……。朔夜……。
「……早く、おいで…………」
甘い甘い血の臭いに酔いしれるかのごとく闇刀の唇が弧を描く。
おいで、朔夜。
早くここに来て、その温もりを感じさせて。
常世の果てに行こうとも、地獄の底に堕ちようとも、俺はお前を離せない……。
「ごめん、朔夜……」
俺はお前の幸せを願ってやれない。
なんて愚かで、浅ましい……
それでも、願うのはただ1つ。
「お前に 会いたい……」
本当は分かっているんだ。諦めなくてはならないと。お前に笑っていて欲しいと思う気持ちに嘘はないのに、お前を泣かせても側に居たいっ!!
―― 会いたい。ただ、一目お前に会いたい。
俺はいつかお前を地獄に堕とすだろう。それが分かっていても、求める事を止められない。
2人で堕ちて逝けるなら、他に何も望まないから……
濡れて揺れる漆黒の瞳から、一筋の涙が溢れる。
むせ返る血の香りがこんなにも甘く感じるのは、きっと俺がもう現世の者ではないから。
瞬きもしないで、闇刀は虚ろな瞳で闇をただ見つめ続けていた。




