ー闇刀ー
「闇刀!」
少しはにかんだような声で朔夜が名を呼ぶ。闇刀は弾かれたように顔を上げると、その綺麗な顔に嬉しそうな笑みを浮かべる。少女がここを訪れるようになって二ヶ月ほど時が流れていた。
「今日は竜胆の花を持ってきたの。」
朔夜の手の中で可憐に咲く花に闇刀は薄く瞳を細めた。
待宵草、鬼灯、撫子、芹、酢漿草、弟切草。
桔梗、女郎花、彼岸花、紫苑、そして竜胆。
夏を伝える花達はいつしか、秋を呼ぶ花へと季節を変えていた。独りぼっちで何もかもを諦めていた時には知る事もなかった季節の移り変わりを、闇刀は朔夜の運ぶ花達から知るようになった。
「私、竜胆の花が好きなの。」
朔夜はいつものように闇刀の側に座って言った。
「私の大好きな人の目と同じ色をしてるから。」
無邪気に笑う朔夜の言葉に、闇刀の胸がツキンと痛んだ。
「朔夜の大好きな人?」
「うん。淺月って言うの。」
闇刀は大きく目を見開く。
「あさ……き?」
「そう、淺月。私より2つ歳上で、私が13になったら淺月のお嫁さんになるの。」
「あさきの…… よめ、に……?」
それは闇刀がまだ「雫月」だった頃、何度も何度も呼んだ名だった。幼い雫月にとって淺月は魂の半分で、世界の全てだった。
「闇刀は……」
朔夜は闇刀の顔を覗き込みながら言う
「闇刀は淺月に生き写しみたいに似てる。」
頸から総毛立つように闇刀は身体を震わせた。
「…… あ、さ…… き」
久方ぶりに口にした名は、幼い頃の記憶を鮮明に呼び起こす。鏡合わせのようによく似た顔が脳裏に浮かんだ。
ーー 淺月。俺の双子の兄……
闇刀は浅い呼吸を繰り返す。うまく息が吸えなかった。
ーー どうして?
どうして俺はこんな場所でたった1人で、地獄の苦しみを受けているのか。淺月は日の当たる場所に居て幸せに暮らしているのに……。
それは幾度となく胸を過った思いだった。
何も持たない俺が、たった1つ望むものを淺月は何の苦労もなくその手にすると言うのか。
俺は何もかもを諦めて、ただ呼吸を繰り返すだけの生を重ねてきた。たった5つの時にここに連れて来られてから、俺は名すら奪われたと言うのに!
「闇刀?」
急に様子がおかしくなった闇刀を心配するように朔夜がそっと手を握りしめてきた。
ジャラリと冷たい音が響く。
ずしりと重い鎖が闇刀の手足に絡みついて、この場所に縫い止めて離さない。
同じ兄弟なのに。同じ腹から生まれたと言うのに。なぜ俺だけがここに居て、ひたすら己の死のみを望み続けているのか。
ーー 双子は忌み子なのじゃ
翁が言っていた。俺は忌まわしい子なのだと。
物心ついた頃から、座敷牢の中で育てられていた。外に出る事は叶わず、誰かから愛情を注いでもらった事もない。格子のついた明かり取りの小さな窓から見える、四角い空だけを見つめて雫月は育った。
唯一、自分と同じ顔をした淺月だけがこっそり会いに来てくれて、外の世界の話を聞かせてくれた。本当は淺月がそこに来る事は固く禁じられていただろうに、淺月は隙を見ては雫月の側に居てくれた。
大人は何も教えてくれなくても、魂が引き合うように互いを求めて寄り添っていた。
ーー 本来なら生まれてすぐ、お前は殺される運命じゃった。
翁は憐れむように言う。
ーー 淺月が光なら雫月は影。光なくして影は生まれぬ。
それを理不尽だと思う事すら出来ないくらい幼い赤子の時からそう言われ続けてきた。
俺はこの世にあってはならない存在。生まれてきてはいけなかった命。
あぁ、それならば……
最初から生まれて来なければ良かったのに。生まれてすぐ、殺してくれれば良かったのに。
ーー 雫月、お前は今日死ぬ。その名も今日を限りに無くなるのじゃ。良いか、お前はこれから闇刀となる。
翁は5つになった雫月を牢から出すと、そう言ってここに連れてきた。
雫月は死んだ。死んだと言っても実際に命を断たれた訳ではなく、存在をない者とされたのだ。そして常世神の依代として、マレビトの名を与えられた。
マレビトの名を夜常と言うのだそうだ。その依代として雫月は闇刀の名を科せられた。
闇刀は震える吐息を静かに吐き出して目を閉じる。
「お前が十で、淺月がその二つ上ならば、俺は十二になったのだな……」
「……え?」
不思議そうに銀の瞳を瞬かせて朔夜が小首を傾げる。
「朔夜、よく聞いて。」
闇刀は心が引き裂かれそうに悲鳴を上げるのを、捩じ伏せて言った。
「もうここに来てはいけない。」
朔夜は驚いたように大きな瞳を見開いた。
「…… どうして?」
「どうしても。いいね?もう二度とここへ来てはいけないよ。」
闇刀に向かいイヤイヤをするように首を振って朔夜は叫んだ。
「いやよ!」
「俺を困らせるな。」
苦しげに眉を寄せて瞳を伏せながら闇刀は言った。
「そんな意地悪を言う闇刀なんて困ればいい!」
聞き分けのない駄々をこねて朔夜は大粒の涙を零す。
駄目だとわかっていても、闇刀はそれが嬉しかった。朔夜の事を想うなら、たとえ泣かせてしまってもここで突き放さなければならない。どんなに朔夜に嫌われたとしても……
ふいに首筋に回された手に引き寄せられて、闇刀は朔夜の肩に顎を乗せるように抱きしめられた。
「私が来てはいけないのなら、闇刀が私に逢いに来て。それが出来ないなら、私が闇刀に逢いに来る。」
時が止まれば良いと思った。いけないと分かっていても、朔夜の言葉に喜びが込み上げて呼吸が止まる。
抱きしめる手の小ささや、温かさ。耳にかかる微かな息と柔らかな声音。望んでも決して手に入れる事は出来ない月が、天から降りてきたようだ。
まだ、夢を見ていても良いのだろうか。
手に出来ない月に焦がれる想いだけは、この身に宿したままで居ても良いのだろうか。
どうしようもない痛みと苦しみの狭間で、胸に灯る愛しさだけが闇刀の心を満たしていた。




