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月鬼の華 ~ tuki no hana ~  作者: うめは
生贄の姫
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ー朔夜ー

「もう少し、あと少しで悲願が叶う。」


 老人の興奮した様子に、男は苦しげに唇をキツく引き結ぶ。冴えた月明かりが庭の松葉に濃淡の影を作り、(ぬる)い風が夏の空気を震わせる。




 朔夜がそれに気づいたのは、二ヶ月(ふたつき)ほど前の事だった。


 その日は月の明るい夏の夜で、昼間の熱気を冷ます風も今夜はじっとりと湿気を含んで蒸し暑かった。寝苦しさに何度も寝返りを打ちながら、朔夜はなかなか訪れない眠りに焦りを感じていた。寝なければと思えば思うほど、逆に意識は冴えてくる。


 その時、家人が寝静まった夜更けだと言うのに人の話し声が聞こえてきた。それは低く途切れながらも切迫したような響きを含んでいて、朔夜はなぜかとても気になった。


 誰だろう?


 こっそりと布団から抜け出した朔夜は声の主を探して屋敷の中をそろりと歩く。


 その声は(おきな)の部屋から漏れ聞こえているようだった。


 音を立てないように朔夜はそっと様子を伺いながら部屋を覗いてみる。翁はこちらに背を向けて座り、対面する男に何かを話していた。


「貴方は怖い人だ。」


 男が震える声で言う。


「今更何を言う。お前とて同罪じゃ。」


 (おきな)はクツクツと喉を鳴らして笑った。


「会いたいのだろう?」


 男はキツく眉根を寄せて顔を歪めると、それでも老人に向かって頷く。


「…… あぁ」


「それで良い、琥珀(こはく)。」


 琥珀(こはく)と呼ばれた男は蒼い瞳を更に苦しそうに歪めると、ギュッと両手の拳を握りしめた。


「お前が苦しむ事はない。」


 翁は憐れむように慈愛の込もった声で言う。


「この世は理不尽な事で溢れておる。お前もそう思わんか?なぜ、お前だけが苦しまねばならんのだ。」


 骨張った手で翁は琥珀の背をそっと撫でる。


「なぜ、雨音(あまね)が死なねばならんかった。」


 琥珀は引き結んだ唇を噛み締めて瞼を伏せた。


「なぜお前達が引き裂かれねばならなかったのだ!」


 老人は一呼吸置いて、静かな声で男に問いかける。


「のう、琥珀。お前の受けた理不尽を、理不尽で返して何が悪い?」


「必ず叶うのだな?」


 琥珀は決意を込めた声で言った。


「本当に死者を、常世から必ず呼び戻す事が出来るのだな?ならば俺は迷わない。俺はただ一目、もう一度だけでも雨音に会えるのなら、この命すら捨てられる。」


 朔夜の胸がドクンと鳴った。


 死者を呼び戻す?もう一度会える……?


 もしそれが本当ならば、私も母様に会える?

 もう一度、あの腕に抱いて貰う事が出来るのだろうか。


 ドクドクと朔夜の耳の奥で鼓動が早まる。


「己の命は捨てられても、己が犯す罪は怖いか。」


 翁は琥珀の苦痛に歪んだ瞳を見て溜息を吐いた。


「ならば尚更、その目でしかと見届けるが良い。」


 翁は男を促すように立ち上がると着いて来るよう目配せして歩きだす。琥珀はゴクリと喉を鳴らすと、意を決して翁の後を追って部屋を出た。


 朔夜は無意識に2人の背を追いかける。闇に隠れて2つの背中を見失わないようにそっと着いて行った。


 2人は頼りない蝋燭の火だけを持って、しかし迷う様子もなく森に入って行く。月の明るい夜で、2人の影が長く地面に伸びていた。


 やがて2人は神域(しんいき)と呼ばれる禁忌(きんき)の地に立った。

 そこは里の一族で崇める神が祀られた神の領域と言われている場所で、飢饉(ききん)天災(てんさい)があった時に神に生贄を捧げる為の場所だった。


 ーーそこに決して足を踏み入れてはいけない。マレビトが来て常世に連れて行かれてしまうよ。


 里の大人たちは子ども達に何度もそう言い聞かせていた。


 朔夜もそこは、神の怒りを鎮め崇める為の場所で儀式の時以外、誰も入ってはいけない場所だと教えられていた。


 だが、翁と男は何の躊躇(ちゅうちょ)もなくそこに入って行く。朔夜は一瞬、躊躇(ためら)ってそれでも母恋しさから2人を追った。


 やがて切り立った岩肌に爪を立てたような亀裂の入った崖の下に着いた。翁は琥珀に向かって頷くとその亀裂の中へと歩みを進める。朔夜は木陰に身を隠して、2人の消えた暗い闇を見つめていた。


 あそこに行けば母様に会える?あの中に母様が居るの?


 朔夜は小さな身体を震わせた。怖いからではない。なぜか恐怖心はなかった。怖さより今は亡き母様に一目会いたいと言う気持ちの方が強かった。母の温もりが恋しかった。優しく朔夜を呼ぶ声が恋しかった。


 血の気の引いた青白い顔で、痛みも苦しみも微塵も見せず朔夜に微笑みかける母様の優しい面影を思い出すと、ジワリと涙が滲む。夜着の袖でそれを拭って朔夜はじっと待った。じっとりと夜の湿気が纏わりつき、朔夜の額に汗が浮かぶ。どれほどたったのか、ふいに岩の切れ目から小さな明かりがチラリと見えた。


 来た時と同じく翁と琥珀は無言のまま、迷う素振りもなく夜露に濡れる下草を踏みしめて森の中に消えて行った。

 朔夜はその場で2人が完全に見えなくなるのを待って、ゆっくりと岩の亀裂に向かい足を踏み出した。

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