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「僕の暮らす甲斐国は内陸の国なのに東海道に属してるんだ。」
咲夜の歩調に合わせて、ゆったりと歩きながら魄が言う。
雨に濡れた野草が青々とした香りを放ち、地面には幾つも水溜りが出来ていた。
「駿河から富士川沿いに甲斐へと続く支道が通じていてね、その景観は桃源郷かと謳われるほどの美しさを誇っているんだよ。」
魄は咲夜の手に自分の指を絡ませるように握りしめ、それを優しく引くように並んで歩く。
道行く人が見れば、仲睦まじい夫婦か恋人同士に見えただろう。だけどそれは咲夜を逃がさないための縛めである事を咲夜は知っていた。
「春を誘う梅が咲くと、それに続いて桃と杏が花開く。そして桜が弥生の空を彩って、それはそれは綺麗なんだ。君にも見せてあげたいな。」
少し背を前かがみに落として、咲夜の顔を覗き込むような仕草で魄が微笑む。
咲夜が何も答えずにいると、少し頬を膨らませて魄はわざと拗ねたように甘えた声を出した。
「ねぇ、聞いてる?」
「私は禕牙にどうしても戻らなくてはいけない理由があります。」
咲夜は前を向いたまま言った。
「僕には君を帰す理由がない。」
それに対して魄は別段、怒った風でもなく咲夜の手を握る指に少しだけ力を込めた。
「もうすぐ日が落ちるね。悪いけど、今夜も野宿して貰うよ。」
魄は咲夜を街道から外れて木々の立ち並ぶ脇道へと誘う。
「一応、追われる身だからね。呑気に宿場に泊まる訳にもいかないんだ。」
戯けたように肩を竦めて見せながら、魄は木立の間を迷う事なく進んで行った。
「この辺でいいかな。火を起こすから君は座ってて。」
咲夜を木の根の傍に座らせると魄は火打金を取り出しそれに火打石を打ちつけると、手際よく火口で火花を受けて付け木に火を起こした。その手慣れた仕草に魄はもう幾度となくこういった事を行ってきたのだろうと咲夜は思う。
チリチリと火が燃えると、魄は持っていた巾着から人差し指と親指を輪にした程の大きさの団子を取り出して咲夜に差し出した。咲夜の知っている兵糧丸とは少し色も大きさも違うが、里によってその材料や製法が違うのだからこれが魄の里の兵糧丸なのだろう。
「食べて。」
咲夜はそれをぼんやり見つめて小さく首を振った。
「ダメだよ。昨日も食べなかったじゃない。」
少し声を尖らせて魄は兵糧丸を指先で割り、それを咲夜の口元へ差し出す。
「ほら、食べて。」
咲夜は魄の手から逃れるように顔を背けた。
「ふーん。それで僕を困らせてるつもり?」
魄は少しの間じっと咲夜を見つめていたが、おもむろに腰から竹筒を取りそこから水を口に含んだ。
そして右手で咲夜の顎を捕えると強い力で自分の方へ引き寄せる。
柔らかな感触が唇に触れ、咲夜はそれが魄の唇だということに気づいて息が止まった。
ゆっくりとこじ開けられた唇の隙間から水が流れ込んでくる。そして一瞬だけ離れた唇が再び重なると今度は少し苦味のある丸薬が舌の上に差し込まれた。それが兵糧丸だと気づくより早く三度の口づけでさらに水が流れ込み、丸薬を喉の奥へと押し流す。それを咲夜が飲み込むまで魄はまるで栓をするように唇を重ねたまま離してくれなかった。
ごくりと咲夜が丸薬を飲み込むと、魄は唇を合わせたまま口角を上げて笑う。
「自分で食べられないのなら、これからは僕が毎夜こうして食べさせてあげるよ。」
触れた魄の唇が咲夜の唇の上で言葉を発して掠めるように動く。咲夜は強く押しのけるように魄の胸に両手を当てた。華奢な体つきからは想像できないほど硬い胸板に一瞬たじろぐ。
魄は喉の奥を鳴らして笑うと顔を傾けて口づけを深くした。




