恋の迷宮案内
『方向オンチ』
『神経質』
同じ価値観。同じ性格。
どうせ連れ添うならば、同じものが多い方がいい。それが本寸法な考え方だ。その方が衝突が少なくて長続きしそうだ。
夫婦になるならば、連れ添うのは一生のつき合い。なおさら、互いの衝突は少ない方がいい。
『無計画』
『わかってへんなあ。無計画なのがええのに』
だけど、それでは説明がつかないことがあるのもまた、事実だ。
『すぐ迷う』
『迷うと楽しいで。知らん土地を肌で感じられる』
『この口八丁』
『直人は融通が利かへんからな。私やなかったら、つまらへん言われとるで』
真宵と直人。
同じ名字になって、三ヶ月が過ぎた。
未だに分からない。どうしてこうも合わないふたりが、一緒になったのか。
君がすうすうと、健やかな寝息をたてて布団で眠る。
座卓の上に置いてあった饅頭をあてに、粉コーヒーを淹れた湯飲み茶碗を傾ける。こんな不格好な飲み方になるのは、常備している粉コーヒーを、旅館の一室で飲むからだ。
――ふと、君が、寝返りを打つ。窓から射し込む朝陽に、「まだ眠いよ」と背を向ける。
起きる時間も違う。
僕を起こした爽やかな朝陽に、君は口をへの字に曲げる。
どうして、僕と君は一緒になったのだろう。
五年半ほど前。ちょうど、生まれ故郷を出て、京都の大学に進学し、ひとり暮らしを始めた頃。僕は、ひとり旅が好きだった。
今も旅は好きだが、ふたりで行くことの方が多くなったので、だったとしておく。
どこかに行くってなると下調べだ。随分と念入りに下調べをする。
まだスマートフォンなんて利器は持っていなかった。店頭にはもちろんあったが、液晶画面が裸で板に張り付けてあるという具合の見た目が気に食わなかった。だからネットで周辺の地図を調べて印刷する。何枚かに分けて、見やすい大きさに印刷する。
そうして計画を立てて、その通りに行くのが僕の嗜みだった。そんな僕だ。出先で道に迷うというのは、イライラするものだ。
京都の町を歩いている時だった。四条から清水に向かう道の途中で現在地を見失ってしまった。頭を抱えていたところに、ひとりの女性が声をかけてきた。
「迷うてんの?」
長い黒髪がさらりと揺れて、視界に飛び込んできた。シャンプーの香りが嗅覚を刺激する。ひまわりの匂いだった。背はすらりと高くて、目線の高さは同じくらい。七分丈のデニム地のパンツは動きやすそう。透けて下の服が見える薄っ手のカーディガンは、ラメが控えめに入っていた。
「教えてあげよか」
少し馴れ馴れしいと思ったが、美人なので悪い気はしなかった。
「どこ行きたいん?」
「清水寺」
「そしたら、産寧坂通って行こ」
「さんねいざか?」
旅は好きだったが、今思うと風情のない旅をしていた。
旅に行くというのに、カメラさえ持ち合わせていない。そして、ネットで地図を調べて印刷してくるというのに、どこを通るかは決めていない。
ただ、印刷した地図を睨んで最短距離で向かおうという忙しなさだ。そんなものだから、清水寺のことしか頭にない。
「産寧坂知らへんの? あっこら辺の街並み、もの凄う綺麗やのに」
彼女は口をへの字に曲げる。
知らないことをそう言われてもと、僕は首を傾げる。
「私の名前は、真宵言うからよろしく」
「あ、はい」
ただの道案内なのに、向こうから名前を言ってきた。
「あなたの名前は?」
「ぼ、僕は、直人と言います」
「直人言うんか、よろしくな。――産寧坂いうたら、こっちかいな」
よろしくと言うのも妙なものだ。
そして疑問形で語尾が上がったまんまで、宙を指さして道案内をする。なんだか心許ない。足取りもどこかはっきりせず、どうにも道を知っているという体ではない。
「こっから言うと健仁寺があっちやから――」
「あの、道分かりますか?」
「八坂の方まで出たら道が大きなるけんど、町並みがよろしい方がええやろ?」
「いや、清水に行けたらそれでいいんですけれど」
「風情のないこと言わんのっ」
当時の僕としては、行きたい目的地があって、それだけだった。
彼女が言う風情だとか、情緒だとか。そんな感覚がない僕は、鼻歌混じりに案内をする彼女に対して、不信感を抱くばかりだった。
やがて歩いていると、古い町家の体をした建物が並ぶようになる。昭和の時代に建てられただろう古ぼけたビルなら、よく見た。アスファルトの道ならば、さっきまで歩いていた。
ところが自分の足音が変わった。アスファルトを踏みしめる鈍い音から、石畳を打つこつこつと小気味のいい音に。彼女のパンプスが奏でる音が、僕の鼓膜をノックする。
すると、彼女は振り返って僕にこう言った。
「はいっ、タイムスリップ完了っ」
「えっ」
間抜けな声を出した僕に、口をへの字に曲げて、切れ長の瞳でのぞき込んでくる。本人は意識していないだろうが、眼孔が鋭く、見つめられると思わず仰け反ってしまう。ちょっと怖いくらいだ。
「ちょっとくらい感慨に浸りいな」
まじまじと辺りを見回す。軒先には簾がおろしてあり、玄関先には、両脇に木製の格子の柵、その真ん中を分かつようにして、店の暖簾がぶら下がっている。趣のある古い町並みだ。
「こっでも、中は喫茶店やったりするんよ。景観規制言うてな。あれがしかれてから、おもろい建てもんが増えたわ」
彼女はショルダーバッグから、デジタルカメラを取り出した。ネックホルダーを首にかけて下げる。線の整った綺麗な指でボタンを押す。すると、レンズの筒がウィーンと音を立てて伸縮する。
言葉遣いからして、普段も京都からほど近いところに住んでいるだろう彼女だが、地方から出てきた僕よりもずっと、京都を楽しんでいるようだった。数歩歩いては、町家を被写体に、屋根瓦の上に留まっているカラスに寄ってみたりして。バインダーをのぞき込みながら後ずさりをしたり。すっかり、彼女のペースだ。
「ちょっと、入ってみーへんか」
「中にですか」
「店ん中ちゃうで。被写体に入らんかって」
初対面の僕を連れ回すし。被写体に入れと言うし。
しぶしぶ彼女の言うとおり、町家の玄関先の格子にもたれかかってみる。
「もうちょい、右やわ」
口にヘアゴムを加える。髪を後ろできゅっとまとめて、縛る。ポニーテールが出来上がるとともに、色白のうなじが振り向きざまに覗く。同時に頭がすっきりとしたことで、すらりとした背の高さ、手脚の長さが際だつ。
なんだか変な汗が、たらりと首筋を流れる。だけど目の前では、バインダーをのぞき込む彼女が、必死に思案している。そんな照れくさい時間が続いた。もはや道案内という本来の目的は、忘れてしまっているみたいだった。
しばらくすると、ふと彼女の歩みが止まった。
なにか良い絵を見つけたのかと思ったが、辺りを見回すといつの間にか、もとの時代に戻ってきたように古ぼけたビルが間に挟まったごく普通の住宅街となっていった。
「え、えーと。どっちやったかいな」
「えっ……」
「ごめん、被写体探しとるうちに、迷うてもうたわ」
これには、流石にあっけにとられてしまった。
道案内という本来の目的を忘れて、さらには道まで忘れてしまう。ひとりで迷っていたときは、こちらも来た道をある程度覚えてはいたため、引き返すことはできた。しかし、彼女に道を預けてしばらく経ってしまった今では、ふたりともがどこから来たのやら、とんと分からなくなってしまった。
「まあ、このまま歩こうかー」
なんとも呑気な話だ。こっちは道案内を頼んだというのに、迷宮案内をされたのではたまったものじゃない。
「このままって、自分がどこにいるのかも分からないのにですか」
「そ。ふらふらと迷ってみるのもええもんやで。旅は道連れ言うやろ」
ごめんとは一言言ったが、なんだか言いくるめられた気分だ。ばつの悪いことに、人気のない住宅街で僕と彼女のふたりきり。自分は狐にでも騙されているんじゃないかと思えてきた。
苛立つ僕を差し置いて、彼女はカメラを首にぶら下げたまんまで、鼻歌混じりに歩いていく。
「まっすぐ歩いたら、大きい通り出るって」
彼女の軽い足取り。飾り気のないパンプスが、アスファルトを打つ音。どうして、彼女はそう楽天的なんだろうか。頭を抱えていると、電柱を三本ほど追い越したところで、彼女が口を開いた。
「ああ。ここ、高台寺の近くやわ」
ようやく分かる道まで出たらしい。一気に彼女の足取りが速くなる。
「こっからこの通りまっすぐ言ったら、八坂の塔が見えるから。そこを左に進んでずっと上ったら、産寧坂行けるわ」
足取りはかなりの早歩きなのに、よく息が上がらないものだと感心してしまう。華奢な体躯をしているくせに、やけにバイタリティがあるものだ。
――八坂の塔の前まで来ると、坂の両脇にずらりと町家が軒を連ねている。観光客の足並みもどっと増えて、おしろいを塗った着物姿の舞子が下駄でもってつかつかと石畳の坂を上っている。
「また、昔ん町並みに戻ってきたなあ。ええ町並みやろ」
声が出るまでもなく、頷いてしまった。
ふたたび彼女は、意気揚々とカメラを携えて駆け回る。坂の向こうを仰ぐようなアングルで一枚。少し上って八坂の塔の方を向いて一枚、二枚。すると、町家の間の路地からするすると一匹の猫がやって来た。白地に橙のぶちがあって、毛並みは野良とは思えぬほど綺麗だ。こちらを見上げて、しばらくするとにゃあと一声。ぼうっと突っ立ってる僕をよそに、彼女は猫に向かって断りを言う。
「写真入ってもらってええか」
すると人の言葉がわかったように、にゃあと頷いて石畳の上に箱を作るような形で座った。ぱしゃりと一枚取ると、こっちまで彼女が走ってきた。
「ほら、ええ写真撮れたで」
石畳の脇で、あくびをする猫の向こう側で、町家の軒先が並んでいる。ゆったりとした時間の流れを切り取ったような一枚だった。
今までの旅というのは、本当に忙しないものだった。ぶらぶらと歩くこともなければ、どこかで一息するわけでもなく。ましてやこうして普段は見ない町並みに浸ることなど、まるでして来なかったのだ。
日は傾き、当初計画していたよりも大分時間が経ってしまった。僕の計画を狂わした主犯は彼女だ。
彼女がポニーテールを揺らして、こちらを振り返る。薄っ手のカーディガンがふわりと風に舞った。
「はい、産寧坂到着っ」
僕らの前に急な石段が、立ちはだかっていた。すっかり定着した僕の三歩先という立ち位置で、彼女はこちらに手を伸ばして無邪気な笑みではにかむ。
「こっちこっち」
いつしか、ひとり旅はふたり旅になってしまった。
清水参りのあとで知ることになるのだが、彼女は同じ大学の一年先輩だったのだ。道理でなれなれしく声をかけてきたわけだ。そう納得すると、彼女はお腹を抱えてけらけらと笑っていた。
写真部に連れ込まれて、一緒にいろんなところを旅した。教えてもらううちに、僕も写真に凝るようになって。もともと色気のない旅をしていたものだから、彼女の色にすっかりと染められた。
そんな今でも、旅行計画中はよく喧嘩をする。
『方向オンチ』
『神経質』
『無計画』
『わかってへんなあ。無計画なのがええのに』
『すぐ迷う』
『迷うと楽しいで。知らない土地を肌で感じられる』
『この口八丁』
『あなたは融通が利かへんからな。私やなかったら、つまらへん言われとるで』
ふたりの喧嘩はこんな具合だ。
そんな思案をしていると、湯飲みに注いだ粉コーヒーがすっかりと冷めてしまった。温かかったときは、コーヒーの甘みが感じられたが、苦いだけのものになってしまった。
「朝から、おかしな顔しとんね」
君が眠い目をこすって、そう言った。
「ちょうど、真宵と会ったときのことを考えてた」
「私のこと考えとって、そんな顔かいな」
「あれからずっと、真宵に振り回されてんだなって」
「なんや、朝からご挨拶やな」
君も変な顔をした。
「でも、真宵といるようになってから楽しいよ」
僕の旅には目的地があって、でもそれだけだった。その間をつなぐ道にあたるものが、僕の中では砂漠のようで殺風景だった。でもそれを真宵が変えてくれた。これからも、真宵は僕を振り回し、迷宮へと誘うだろう。
だけど、君となら。きっとそれも楽しいだろう。