ふたりぼっち
「――あれえ? ユーくん、紅茶の缶は?」
キッチンの引き戸の中にもぐりこんだ彼女は、よいしょ、とその矮躯を引き抜いた。
「紅茶の缶はあ?」
「切れたよ」
ぼくはと言えばうつ伏せで、ベッドの上でごろごろと本を読んでいた。
ぺらり、ページをめくる。
「えー、飲んだの?」
「飲んじゃいましたー」
「どーしてー」
「喉渇いてたから」
「紅茶はあたしが淹れるって言ったのに〜」
彼女の苛立ちを如実に物語る、どすどすと響く足音はベッド脇にまで近付くと、どすんと背中への重圧に変わった。
「重っ」
「吐け」
「え」
「飲んだ紅茶、全部吐け」
「吐いてもいいけど、胃酸まみれだよ?」
「紅茶だけ抽出して吐け」
「無茶言うな」
「エスプレッソ抽出で」
「もう紅茶でもないじゃん」
「吐け〜」
背中に跨ってなお喚く彼女はさておいて、ぺらりページをめくる。
「ね」
いともたやすく観念してくれた、彼女の体が背中に密着。
肘を立てて浮かせたぼくの胸に細い腕が絡み付く。
「何読んでんの?」
「戯曲集」
「シェイクスピア?」
「お笑いです」
「お笑い?」
「コント戯曲集」
「何それ」
「コントの戯曲集……イタイイタイ」
耳を引っ張らないでください。
「ね」
今度はぼくの髪をいじりながら、彼女。
「紅茶飲んだってことは……淹れたのは?」
「ぼくだよ」
「ほんとにぃ?」
「ほんとに」
「ちゃんと淹れられた?」
「淹れられたよ」
ぺらり、ページをめくる。
「で、誰に淹れてあげたの?」
「ぼくに」
「うそよ!」
ひと際高い声が非難を伴って耳を刺した。
「じゃあこの口紅は誰のよ!」
「あっちゃんのでしょ」
「このマニキュアはどこの女のよ!」
「あっちゃんのでしょ」
「ヘアピンなんて使わないじゃない!」
「あっちゃんのでしょ」
振り返らずとも、一連のやり取りを楽しんでいる表情が手に取るようにわかる。
そして決まって、こう聞いてくる。
「好き?」
だから決まって、ぼくは言うんだ。
「好き」
「いいね〜」
体を押し付けるように、彼女に強く抱き締められる。
もし彼女が判子ならば、今頃ぼくの背中は彼女だらけだ。
ハグが好きな彼女は、前から後ろから、いつでも抱き付いてくる。
彼女自身をぼくに写すように、何度も何度でも、きつく強く。
「ね、ね」
「はあい?」
ぱらり、ページをめくるぼくの手を、彼女が止めた。
「紅茶、美味しく淹れられた?」
「淹れられたよ」
「ほんとに?」
「うそ」
「やっぱりうそじゃない!」
まだ続いてたんだ、それ。
「楽しそうだねー」
「うん、すごく楽しい」
声からして躍っている彼女の手を押しやり、ぱらり。
「あっちゃんの淹れてくれる紅茶が一番です」
「素直でよろしい」
ぼくの視界を遮った彼女の手が頭を撫でてくれる。
やわらかい、彼女の手。
やわらかくて温かい、彼女の手。
撫でる。撫でる。
撫でる撫でる。
撫でる撫でる撫でる撫でる。
「こらこらこらこら」
しまいにゃぐるんぐるん、ぼくの頭が振り回された。
「好き?」
「好き」
「あたしの淹れる紅茶、飲みたい?」
「飲みたい」
「じゃ、明日買ってきて」
絶対くると思った。
「いつもの店でいい?」
「いつもの店で、いつものブレンドで」
「しかと承りました」
「よし」
満足げに意気込んだ彼女はすっくと立ち上がると、もう一度だけぼくの背中を抱き締めて、キッチンに向かった。
「忘れないで買ってきてよー。あたしの紅茶が飲みたいでしょ、ユ……ヒロくんは」
ぺらり、ページをめくって聞いていないフリ。
ユーくん。彼女の、前の彼氏。
もう口に馴染んじゃってて――前に、申し訳なさそうに言った彼女。
そのうち治るから、ね?――そう言ってはくれたけど。
ユーくんの家には、まだ紅茶の缶があるんじゃないかい?
あっちゃんに淹れてくれるのを待っている、紅茶の缶が。
ぺらり、ページを戻して、またぺらり、ページをめくる。
鼻歌まじりに調理を始めた彼女を横目で見る。
――紅茶淹れるのヘタね。
カノジョの声が三半規管で回った。
――あたしの妹の方が、何倍も上手よ?
彼女は紅茶を淹れるのが上手だ。
カノジョは男を虜にするのが上手なのだろう。
……ま、いいってことさ。
ぺらり、めくったページに書かれた「了」の文字を見る前に本を閉じる。
今この部屋には、ぼくと彼女だけ。
本を枕元に放って、足が向かう延長線上には彼女。
栗色パーマを揺らす彼女。
茶色ストレートを掻き上げるカノジョ。
カノジョの微笑が頭を過ぎって、彼女の鼻唄が止まった。
緩く流れる栗色パーマが振り向く前に抱き締める。
彼女とカノジョの髪は同じ匂い。
「好き?」
決まって彼女は聞いてくるから、
「好き」
決まってぼくは答える。
ま、ま、ま。いいってことなのさ。
今はまだ、答えなんて。
わかっているのは。
今この瞬間、部屋にはふたりぼっち。