第321話 ジャック
「そんな……」
男は絶望した表情を浮かべる。てっきりジャックの魔剣でスパッと切り落としてくれるものだと思っていた男は躊躇いを覚える。明らかに切れ味の悪い小型ナイフ。これでは右腕を切り落とすのにどれほど時間がかかるかわからない。
それはつまり苦痛の時が永遠にも感じられるということだ。切れ味のよいジャックの魔剣なら切り落とされる恐怖は一瞬で済み、残りは苦痛に耐える時間だ。
しかし切れ味のわるい小型ナイフでは自分の右腕が切り落とされるのを今か今かと近くで見ていなければならない。同じ苦痛でも持続的に続く苦痛と目の前でじわりじわりと切り落とされていく右腕を見る視覚的な苦痛は計り知れない。
加えて切り落とすのはジャックではなく自分。自分の手で自分の右腕に引導を渡すだけでも心苦しいというのに、それを切れ味の悪いナイフでやるとなれば相当な覚悟が必要になる。麻酔もないこの状況で自分は苦痛に耐えられるのか。最後まで切り落とすことができるのか。
男の覚悟が揺らぐ。
「どうしたー? やらないのー?」
「くっ……」
まだかまだかと催促してくるジャックに男は何も言い返せない。ここで逃げ出せばジャックの手によって殺される。しかも彼は殺人を楽しむことで有名な悪魔だ。どんな殺し方をされるかわからない。
それが嫌なら自分で自分の右腕を落とす。どちらも待っているのは絶望的な苦痛のみ。だが生き残れるなら生き残りたいと思うのがその男の気持ちだった。
男には家族がいる。結婚して十年の妻と今度四歳になる娘が。冒険者としての稼ぎは失うかもしれないが、家族という存在を残して死ぬわけにはいかない。
男は意を決して目の前に落ちていた小型ナイフを手に取ると右肩までもっていく。
「右腕を落としたら見逃してくれるんだな?」
「慈悲を保証する」
「そうか」
男は意を決すると、左手を大きく振って小型ナイフを右肩に差し込む。
「うっ……」
刃渡り五センチほどのナイフが深々と男の右肩に刺さるが、当然その程度で男の右腕が切り落とされることはない。ジンジンとした焼かれるような痛みに男が苦悶の声を上げる。
その男が水属性の魔法師だったことが幸いしたか、すぐに沈静化によって痛みが鎮静される。これなら何とかなると思った男だが、直後、痛みが急激に増大する。
「魔力を使うのはなしだろー」
「な……にを……」
「闇で水を消した」
ジャックの口から放たれた無慈悲な一言。男はそこでジャックがどのような人間かを思い出して諦める。
「どうしたー? もうおしまいか?」
「まだ……だ……」
催促するジャックに対して男は苦痛に顔をゆがめながらも左手に握る小型ナイフをわずかに前後させる。途端に訪れる形容しがたい苦痛に男は悶えるが、その手を止めるわけにはいかない。
左手に伝わるガリゴリという音が自らの骨を斬っているという事実を思い知らされる。止まることなく訪れる苦痛と留まらずに流れ出る血液。
苦痛にあえぐ男の口からも血は流れ出た。おそらく余りの苦痛に歯を食いしばって口内が傷つけられたのであろう。しかしそれくらいのこと男にとってはどうでもよかった。
今は生きるためにただひたすら左手を動かす。
いつになったら終わるのかと不意に視線を自分の右肩に移すが、目に入ってきたのはまだ四分の一も切り落とせていない右腕。今までの苦痛を三回も繰り返すのかと思うと先が遠くなる感覚に襲われて左手も止まってしまう。
「どーした?」
だがジャックは休むことを許さない。まだかまだかと左手を動かすように差し置くするジャックはまさに悪魔だ。
男は再び左手を動かす。訪れるのは形容しがたいほどの苦痛とプチプチと何かが切り落とされる音。どうやら骨ではなく筋肉の繊維が斬れたようだ。
それからも男の罰は続く。
どれほど経ったか、男がふと自分の右腕を見た。すると骨は完全に切り離されており、残りは筋肉のみとなっている。あまりの苦痛で左手に伝わる感覚もわからなかった男は三分の二ほど終わった作業に光明を見始める。
だが同時にこのまま切り落としてしまっていいのか、というふとした疑問が思い浮かぶ。まだ三分の一は繋がっている。このまま病院に駆け込めば繋がるかもしれない。だが完全に切り落としてしまえばもうつながることはないだろう。
どうする?
男は苦痛で朦朧とした意識の中で考える。このまま逃げ出せばどうにかなるかもしれない。どうする、どうする、どうする。
頭の中でぐるぐると回り始める声。しかし次の瞬間、ジャックの声によってその言葉は打ち消された。
「まだか?」
つまらなそうに尋ねたジャック。だが無理もない。男が自らの腕にナイフを入れてからそろそろ三十分は経とうとしている。その間、ただ男を見ていたジャックにとってはすでに飽き飽きする時間だった。
だからジャックは急かすように男を脅す。
「あと三分以内に終わらせなければてめぇの家族に被害が及ぶぞぉ?」
「あっ……」
何かを発しようとした男だったが、もう苦痛で舌が回らない。けれども男はその言葉に今まで以上の恐怖を覚える。暗部のやり方はとても残酷で聞いただけでも身が竦むほどだ。
そんな彼らの目が家族にむくのは避けたい。男は一心に左手を動かし始めた。
三分の二を終わらせるのに三十分以上かかった男が残りを三分で終わらせるのはまず不可能。だが男は一心不乱に左手を動かし始める。
苦痛が再び男を襲うが、もはや関係ない。家族のことを思えば苦痛などどうだってよかった。頭に浮かぶのは妻と娘の笑顔。絶対に守るという強い意志が男を突き動かし、ついにその時がやってきた。
ボトリ、という音を立てて男の右腕が胴体から切り落とされる。ぼたぼたと流れ出す血を左手で抑えながら男はジャックを見つめた。
「はぁはぁ……」
言葉にならないが、その瞳が「これでいいだろ?」と言いたげなのはよくわかる。ジャックは笑みを浮かべると優しい声音で答えた。
「お前の思いはよく分かった」
「……」
「まさか自分で自分の腕を落とすとは尊敬するよ」
「……!」
男の表情がわずかに明るくなる。これで見逃された、と確信した。しかしジャックの浮かべた笑みが気持ちの悪いほど悪意に満ちたものになる。
「だが五分の遅れ。タイムオーバーだ」
「そ……」
「お前の家族も直にお前のところに行くだろうなぁ」
ジャックはそう言い残して魔剣を振り上げると、なんとためらいもなく振り下ろす。魔剣は止まることなく振り下ろされ、男は縦に真っ二つに割れた。
あたり一面が血で染まる。
「慈悲深い最期に感謝しろよぉ」
笑みを浮かべるジャック。これが暗部、これが冒険者組合だ。裏切り者は徹底的に苦しめて徹底的に弾圧する。二度とそんな存在が生まれてこないように。
ジャックは魔剣を振ってついた血液を振り落とすと再び闇に消えていく。そしてビルを挟んだ向かい側の路地裏では新たな魔王がレストランの娘を暴漢から救い出しているのであった。




