第251話 ロナ
ロナ。その名前にセイヤは聞き覚えがあった。だがその名をいつ、どこで聞いたかは具体的には覚えていない。それは聞き覚えはあるというのに、その名に付随する記憶が全くないもどかしい感覚。
セイヤはつい聞き返してしまう。
「ロナとは……」
その先の言葉は出なかった。もっと言うのであれば何と聞けばいいのかわからなかった。そもそもロナという名前はセイヤを惑わすためのハッタリかもしれない。だがもしその名前が本当なら、一体セイヤとどういう関係だったのかわからないため、どのような口調で話せばいいのかもわからない。
ロナと名乗ったルナはセイヤの反応を見て事情を察する。
「まさか忘れられていたとは……悲しいのう……」
「すまない」
なぜか無意識にセイヤの口から謝罪の言葉は出た。それは言うのであれば脳よりも体が反応したような感じ。どうやら記憶はあいまいでも、セイヤの身体はロナという名前を憶えているようだ。
「昔はロナちゃんロナちゃんと妾の尻を追いかけて来たのじゃがのう。それにあんなにかわいがってあげたというのに……」
ルナの言葉を聞き、セイヤは何となくだが思い出した。それはセイヤがまだ幼い頃、年齢にすれば五歳前後だっただろう。確かにロナという少女とセイヤはよく遊んでいた。
だが目の前にいる女性の姿よりはもっと幼かった気がする。それがセイヤの記憶が曖昧なせいかもしれない。確実に言えることは幼少期のセイヤの周りにロナという少女が存在したこと。
そして何となくだがセイヤは目の前の女性がそのロナなのであろうと確信していた。特に確証があるわけではなかったが、それでも感覚でわかるというものだ。それが脳の作り出す幻でない限り。
「ロナ。確かにいた気がする」
「ほう、思い出したか」
「だが、どうしてルナがロナになるんだ」
セイヤの疑問は単純。目の前にいる精霊の名前はルナであり、ロナではない。一体どこをどうすればルナがロナになるのか。その答えをロナは懐かしそうに語る。
「単純な話じゃ。生まれた頃のお主は『ルナ』をうまく発音できず、いつも『ウナ』と呼んでいた。ウナちゃんウナちゃんとしつこく続くものだから、妾はあるとき一喝したのじゃ。『ウ』じゃない、『ル』じゃ! と。そしたらお主は泣きながら『ウじゃない』と呪文のように唱えおってのう。ところがどこで間違えたのか、『ウじゃない』がいつの間にか『ル』じゃないに変わりおって、気づいたら『ロナちゃん』と呼ぶようになったのじゃ」
ルナの嘘か本当かわからない説明を聞いたセイヤは、なぜかその話に懐かしさを覚えた。思えばセイヤにはお幼少期に姉のような存在から一喝されたような記憶がある。そのことを知っているとなると、やはり目の前の女性はロナで間違いないのだろう。
それにセイヤの父であるキース=ルシファーと契約していたことを考えると、幼少期のセイヤと接点があってもおかしくはない。
「それでは俺はロナと呼ぶようになったのか?」
「そうじゃ。さすがに呆れてそれ以上は直さなかった。それにウナよりはロナの方がマシじゃからな」
「そうか」
セイヤの声が震えた。その声を聞き、ルナが優しく声をかける。
「大きくなったのう、セイヤ」
次の瞬間、セイヤの瞳から涙があふれた。
これまで生きて来て、初めて出会う記憶が消える前の知り合いにセイヤは涙が止まらなかったのだ。それは自らの過去が本当に存在したことを裏付けてくれる存在であると同時に、キリスナ=セイヤという人物の生い立ちを保証してくれる人物。
言葉にしていなかったが、セイヤは心の底で自分が一体何者なのかという不安があった。それはいくら新しい人に出会おうとも埋まることのなかった溝。それが今、ロナという姉のような存在によって埋まった。
これまで自らの存在は偽りで、いつか否定されてしまうのではという一抹の不安があったセイヤにとってロナはまさにやり場のない不安から救い出してくれた救世主であった。
「セイヤ」
ルナがセイヤのことをあやすように抱きしめる。その姿は泣き虫の弟をあやす姉のようだ。
「よくここまで来てくれたのう。会えてうれしいぞ」
「俺は……俺は……」
かけられた優しい言葉に涙が止まらないセイヤ。これまで堰き止められていた不安が一瞬にして流れ出るようにセイヤは泣き続けた。信頼できる姉の胸の中でセイヤは一人の少年へと戻った。
そしてどれほど泣いただろうか。やっと落ち着き始めたセイヤにルナが尋ねる。
「ここまでは聖騎士たちと来たのか?」
「あいつらは?」
ルナからアーサーたちのことを尋ねられて、途端に思い出したように三人の安否が気になるセイヤ。結界を張っているギラネルはともかく、青龍を相手にしているアーサーたちが心配だ。
「それなら大丈夫じゃよ。全員無事じゃ」
「そうか、それはよかった」
三人の無事を聞き、安堵するセイヤ。そこでセイヤはやっとルナから離れると、その瞳を強く見つめて懇願する。
「なあロナ、俺に夜属性を教えてほしい」
ロナなら快諾してくれる。そんな確信があったセイヤだったが、ロナの答えは違った。
「それは断るのじゃ」
「どうしてだ?」
昔のロナはセイヤがやりたいことを何でもやらしてくれた。時には危険なこともあったが、そういう時でもできる限りセイヤの気が済むまで手伝ってくれた。だからその答えは意外だった。
「逆に問おう。どうしてそこまで夜の力を求めるのじゃ?」
「それはもう一人の俺を抑え込むため」
「そうか。なら妾が代わりに抑え込んでやるといったらどうする?」
「なに?」
思いもよらぬ提案に呆気にとられるセイヤ。だがロナの提案はセイヤにとってはとても魅力的なものだ。しかしセイヤはすぐに返事ができなかった。なぜか、セイヤにもわからない。
「夜の力は強大過ぎる。危険じゃ」
「だが……」
何も言い返せないセイヤ。
「例えばお主が妾を三度殺したが、夜の力で妾は『妾が死んだ』という事実を消し去ったのじゃ。夜の力は闇の力とは格が違う。この力をお主に渡すわけにはいかん」
「でもそれじゃアーサーたちとの約束が」
ここまで同行してくれたアーサーたちのことを考えるセイヤ。だがその言葉は言い訳に過ぎなかった。
「なぜ聖騎士たちのために夜の力が必要なのじゃ? あやつらはどうしてセイヤに夜の力を会得させようとしている?」
「それは……」
ロナの質問に言葉が詰まるセイヤ。言われてみれば、どうしてセイヤによる属性を習得させる必要があるのか、具体的な説明はされていない。しかしそんなことに疑問を覚えず、セイヤはここまで来た。
「あやつらはお主を利用しようとしているのじゃ。そんなやつらのために妾は夜の力をお主に託そうとは思わぬ」
ロナの決意は固い。おそらくいくら御託を並べたところで、その意思は折れない。ならセイヤは思っていることを言うしかない、はずだというのにセイヤは何も言えなかった。
そんなセイヤのことをロナは優しく抱きしめる。
「セイヤ、お主はここまでよく頑張った。じゃが、もう傷つく必要はない。無理をする必要もない。辛いなら辛いと言っていいのじゃ。妾はお主の味方じゃよ、セイヤ」
「ロナ……」
ロナの腕の中に収まっているセイヤはその懐かしい感覚に心地よさを覚えた。
(これが母親みたいなものなのかな……)
その言葉は覚醒前の、まだ弱いセイヤのようだ。セイヤは思ってしまった。
(もうこのままでもいいかも……)
それはここまで進化を続けてきたセイヤが初めて漏らした停滞の言葉であった。
実は十一話『覚醒』で名前だけ登場していたロナさんがやっと登場することができて歓喜な高巻。




