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見えない夢

 夢を見た。

 深い雪に埋もれて死体になっていく夢だった。

 黄泉の境を踏み越えて、冷たい死の水底へと深く深く沈んでいく夢。

 肉体の危機は少しも減じていないというのに、窒息と凍傷の激烈な苦痛を徐々に感じなくなっていく。

 あらゆるものの喪失。そして無へと変質して、全てを覆う死の大地の一部になる。


 美しく死が満ちた世界に、異質な汚点として生ける自分が迷い込んでしまった。

 白い死の嵐が洗う光景の中で一本だけ枯れ残ってしまった松の木のように。

 だがその自分が斃れれば、そこは再び完全な世界として完成する。


 死者になってみると、死の天使の姿が見えるようになる。

 童女の姿。肌は氷のように硬質に輝いて、唇にも頬にも首筋にも血の気は皆無。

 そして、やはり有機物というよりはむしろ鉱物的に光を反射する長いプラチナブロンドの髪。

 生命とは正反対だが、決して枯れているのとは違う、無機の輝き。

 だがそんな天使のような幼い少女の目だけが、まるで1000年も生きたような、枯れた樹木を思わせる眼差しを投げている。

 何か、大切なものに。


 自分に背を向けて、無理に染めたような黒味がかった赤い服を着た童女の背中が遠ざかっていく。

 その大切な誰かに近付いていく。

 大切な誰かは横たわり、逃げることができないようだ。

 そして死んでいる自分は、それを見ていることしかできない。

 少女は大切な彼の前で立ち止まり、羽の生えていない黒い翼を開く。

 そして食物に手をかけるように彼に口を寄せる。


 そして……目が覚める。



 目を開くと、眼前の童女と目が合った。


 「ヒッ」


 夢の中では死を受け容れていたような気がするが、現実には身体が、防衛本能が彼を支配する。


 「…誰だ?」


 ひどくみすぼらしい身なりの子だった。肩まである髪はほつれ、着古したモンペは元の色が判別できないほど汚れている。

 栄養不良を思わせるほど痩せているから余計に背が高く見えるのか、ひょろりとしているが、背の高さから彼と同じ小学校の上級生くらいの印象がする。


 童女は、答えず、さりとて目を逸らすでもなく彼を見詰めてくる。

 その目には怯えよりもむしろ利発さが伺え、何と答えたら良いかわからずに思案しているのではないかと彼は思った。


 「岡村伸太郎」

 「…香世子だ」


 伸太郎には聞き取るのもやっとの、ひどい訛りだ。


 「何してる?」

 「………」


 香世子はそれ以上は口を利く気が無いとでもいうように、口を閉ざしている。

 だが、その手に湯気の立つ手拭いがあるのに気付き、遅れて伸太郎は自分が藁布団の中で、冷たい汗でびっしょりと濡れていることに気付いた。


 「…ありがとう。寄越せ。自分で拭く」

 「まいね」

 「え?」

 「……!」


 香世子が久しぶりに発した言葉の意味がわからなかったが、そんな伸太郎の様子に、香世子は薄っすらと涙すら浮かべて、険しく、明らかに傷付いた眼差しを伸太郎に向けてくる。

 懇願するかのようでもあるその視線に、伸太郎はそれまで凍っていたような心臓が急に暴れ出しそうになるのを感じた。


 「すまん‥」


 香世子の視線に自分まで胸が苦しくなった伸太郎は、謝らずにはいられなかった。

 だがそのとき、伸太郎の胸を喪失感が鎖のように締め付けた。


 「…ヴェア」

 「え? …ああ、そうか。誰だ?って聞いたつもりだったんだけど、ドイツ語になってたんだな」

 「どいつ語?」

 「そうだ。……ドイツ、知らないみたいだな」

 「……!!」


 香世子の少しとぼけたような顔が一瞬で険しくなった。

 今度こそ涙さえ零してしまいそうだ。

 伸太郎は矢も盾もたまらず何か言い繕おうとした。

 だが、泣き出すかと思われた香世子が今度は急にしゅんとなってうずくまった。

 そして、古ぼけた床板を眺めながらぽつりと。


 「すかふぇでけろ」


 沈黙が落ちた。


 「どいつってなに?」


 目線だけ上げて、リスのような目で真っ直ぐに伸太郎を見据えてくる。


 「お、おう!ドイツはな、俺の故郷だよ。冬は雪が深くてな……」


 香世子の目まぐるしく変わる表情と純粋な瞳に、地に足が着かないような心地になっていたが、それでもようやく理解できる言葉をその口から聞けて、伸太郎はここぞとばかりに彼なりに最大限にわかりやすく生い立ちから境遇、そしていずれは外交官になることまでも香世子に語り聞かせた。

 香世子はただ目を輝かせてうなずくだけだった。

 それはあまりにも楽しく、胸の疼きすら忘れるほどだった。


 だが、伸太郎がこの村に来る段になると、言葉が途切れた。

 凍りついた記憶が思い出されるのを拒むかのように、何も思い出せなかった。

 いつ、どうやってこの村に来たのか?

 疎開の前に、父がかけてくれた言葉までは辛うじて思い出せた。


 「フィール エアフォルク」


 その先で自分は取り返しのつかない重大な過ちを犯してかけがえの無いものを失った気がするのだが、それが何なのかわからない。

 急に黙った伸太郎に、香世子が案じるような目を向けてくる。


 「すまん」


 思わず謝ると、また鎖が心を締め付けるのがわかった。


 「ふぃーるえあふぉるくってなに?」


 胸に浮かんだ父の言葉が、声に出てしまっていたらしい。


 「ああ、それはな。成功を祈るっていう意味。別れの挨拶だ」


 香世子が寂しそうにうつむく。


 「父上が俺に言ったんだよ。香世子にじゃない」

 「!」


 今度は驚いたように目を瞬かせて見詰めてくる香世子。

 香世子は何も言わないのに、見ているだけで明るくなってくる。

 そして気付いた。

 ヴェアやフィール エアフォルクの意味を香世子が聞いてきたのは、伸太郎の心が内なる鎖に締め付けられたとき。香世子はそれを察して、あえて違う話題を向けてきたのだと。


 香世子の気遣いに伸太郎の胸が熱くなった。

 まるで雪山で遭難して凍えていた心が人家の暖かさに帰還したかのような心地がした。


 「ありがとう、香世子」

 「…!」


 香世子がつぶらな瞳をいっぱいに見開く。

 だが、そんな香世子の素朴さと知性が同居した優しさに触れていると、否応も無く胸が締め付けられる思いがする。

 …おそらくは香世子に似た、とても大切な何かを忘れている。


 三度沈みかける伸太郎に、香世子がずいと近寄ると、伸太郎を藁布団の中に組み伏せた。


 「おい、香世子、やめろ」

 「まいね」


 毅然と言われ、すっかり冷めた蒸し手拭いで顔を丹念に拭かれる。そして香世子の手が掛け布団の中にまで進入してくる。


 「だめだって」

 「まいね」


 中学生に間違われることも多い大柄な伸太郎の厚い胸板を、折れてしまいそうな腕で香世子がごしごしと力強く擦ってくる。


 「俺もまいね!」

 「…」


 不意に香世子が笑った。それはこれ以上ないほど朗らかな、初めての笑顔だった。

 見惚れる伸太郎。対して隙ありとばかりにすぐさま攻撃を再開する香世子。

 腕力なら香世子の百倍あってもおかしくないと思うのだが、しかし伸太郎には華奢な見た目とは裏腹に強情な香世子を押しのけることが、ついにできなかった。

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