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遭難、遭遇

 「ハチーー!」


 伸太郎の必死の叫びが吹雪に吸い込まれた。

 『赤い鳥女』を探して踏み込んだ雪原で喜八を見失ったのは、下宿先の農家から1キロと離れていない地点だった。喜八の足跡は、不可解なことに雪原の只中で消えていた。喜八自身がまるで吹雪にさらわれて消えてしまったかのように。


 伸太郎達が大獅子村に着いてから1週間目のことである。

 村の予想以上の人の気配の薄さに、結局は好奇心と退屈に負けてこの探検に同行していた流一も、喜八がいつ消えたのか気付くことができなかった。それでも冷静な流一が落とし穴にでも嵌ったかと疑うと、二人で周囲の雪を散々掘り返したが、やはり喜八の気配は見付からず、そうしている内に急激に風雪が強まってきた。


 汽車で鳥女を見て以来、不気味な予感にとりつかれていた伸太郎は、引き返して人を集めるべきだという流一の主張を受け容れず、二次遭難を心配する流一をついに振り切って、一人山へと進んできてしまっていた。

 流一にしてもこの吹雪の中、1キロとはいえ一人で村まで帰れるかどうか心配なところだ。足跡も吹雪のせいで急速に消えてしまっている。それでも、喜八を追わなければならないという罪悪感にも似た思いが、心中であの鳥女の残像とない交ぜになって脅迫的ともいえる強さで伸太郎を追い立てていた。


 山はその名をカクラヤマというのだという。その由来までは聞いていなかったが、それは『隠れ』が東北風に訛った名、隠れ山という意味の名なのだろうと、薄々伸太郎には思えた。

 傍目には綿で覆われたように扁平に見えていた山だったが、足を踏み入れてみると予想以上の勾配に息が乱れる。見通しが利かないその視界を埋める頂上へと続く雪の斜面が、白い壁のように立ちはだかっているように見え、体力だけでなく気力さえも奪っていく。

 それから、道標も無い山の中をどれくらい彷徨ったのだろう?

 何もしなくても骨身を削るような吹雪が刻一刻と生命力を奪い、思考すら麻痺する中、ついに立ち止まり辺りを見回すと、周囲にはいつの間にか薄闇が降り、伸太郎は自分が進んできた方向さえも判別できなくなっていることに気付いた。延々と登ってきたように思っていたが、どこまでも続いているかのような一面の雪景色はほとんど進んでいなかったようにも見え、感覚さえアテにならない。数メートル先すら見えず、どこにも行けない今の状態では、さすがに遭難したことを認めざるを得ない。それも、死の大地の只中で。


 「ハチー」


 叫ぼうとしたが、凍えた身体からはか細い声が零れただけだった。

 急速な状況の変化に思考が追い付かない。一体なぜ今朝まで談笑していたハチが、そして自分自身がこんな死の充満した世界に捕らわれてしまったのだろう。

 帰りたい。

 来た道を引き返した。だが、数歩歩いたところで転んだ。立ち上がろうとしたが、そこでとうに手足の感覚が無くなっていたことに気付く。世に言う雪山で凍死するときに襲われる睡魔というのは、眠気というような穏やかなものではなく、意識を剥ぎ取られる感覚なのだと伸太郎は知った。

 病的なまでの無情さで氷点下の大地に意識を奪われていく中、抵抗する力など残っていない伸太郎には為す術も無かった。


 「ハチ…すま…ん…」

 「ハチというのはどなたですの?」


 まるで場違いというしかない少女の声が答えた。しかもそれは死の世界にあって、まるで死を寄せ付けないかのように落ち着き払っている。走馬灯やら三途の川やらならドイツ生まれの伸太郎も知っていたのだが、予想だにしなかった事態に、朦朧としながらも狐につままれた気分になってくる。この目前に迫った死さえも幻だったら、どんなに良かっただろう。


 「ハ…チ…鳥女…を…探…して……俺が…見付けな…ければ……」

 「鳥女? それがあなた達に不幸をもたらした。ヒュッケバインというわけですのね」


 自分の発する声が誰かに届いているとは思えない。それどころか、本当に声になっているのかさえ大いに疑わしい。なのに少女の声は明らかに伸太郎に答えているように聞こえるし、吹雪など無いかのようにはっきりと伸太郎の失われる寸前の意識に届く。

 そう、それは日本語では何と言うのだろう?

 凶鳥、か。

 そこで伸太郎は少女とドイツ語で会話していたことに気付いた。

 死に際にあって、自分が自然と零していたのはドイツ語だったのだろう。


 「どな…たか…存じま…せん…が…どう…か…ハ…チを…お助け…くだ…さい」


 顔面の感覚もとうに失せていたが、伸太郎はそのとき自分が微笑んだと思った。

 その笑みが自嘲なのか、それとも身勝手にもハチの無事を祈ったことに対する自己満足なのかは、伸太郎自身にもわからない。


 「あなたは死を恐れないのね。でもそのハチさんはどうかしら? 卑小な人間はアッティス様の血肉になることを喜ぶべきだわ」


 少女の言葉が理解できない。だが、最後にこうして人に伝えられたことで、自分のできることは全て果たしたのではないかと伸太郎は思った。

 父を呼んだが、言葉にならなかった。

 既に全身の凍る痛みが全て無くなっているばかりでなく、光さえも感じない。

 そんな伸太郎の耳に鋭利な羽が風を切る音が聞こえたような気がした。


 そして、何も感じなくなった。

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