赤い鳥
フィール エアフォルク。
父からの別れの言葉はドイツ語だった。
父は外交官として同盟国ドイツに家族ともども赴任していた。
ドイツがヨーロッパを蹂躙していた3年前に、そのドイツから一家で帰国して以来ずっと家族揃って東京にいられたのは、日本中の男達が戦地へと駆り立てられているこのご時勢では奇跡のようなことだった。
父の赴任地、ドイツで生まれ8歳まで過ごした岡村伸太郎は、ドイツ語に不自由することはない。
だが、父は帰国して東京で外務省勤めをするようになってからも、伸太郎にドイツ語を教え続けた。
父の仕事の詳しい内容は機密のため伸太郎にもわからなかったが、将来は父と同じようにドイツとの外交に携わるべく英才教育を受けている自覚が伸太郎にはあった。
しかし今、伸太郎自身にとってのみならず、お国のために重要であるはずのその教育が中断を強いられた。
汽車の車窓に広がる雪深い東北の山々は、11歳の伸太郎にとっては未知の景色だった。
家族や東京との別れに重苦しい空気が漂う集団疎開の列車の中、他の疎開児童達とともに伸太郎もまた父を想い、暗澹たる思いに捉われていた。
「青森は2月でもまだこんなに雪深いのか。ロシアと戦争しなくて良かったな」
「雪ならドイツで見慣れたさ」
ひょうきん者の森野喜八は、伸太郎が日本の学校に通うようになって一番早くできた友達だった。
厳しく躾けられた良家の子女が通うその学校で、明るい喜八は学友達から人気を集めていた。
昭和19年2月。
学校や新聞では戦局は優勢と伝えられていた。他の学校ではこのような学童集団疎開など全くしていない。
にもかかわらず伸太郎達だけが、よりによって東北の山村にまで疎開するというのは、この学友達が皆日本の将来を担うエリート達だからなのだろう。それは秘密裏の集団疎開だった。
そんな伸太郎の胸に出発前の東京で偶然耳にした父の不気味な言葉が蘇る。
『ルールにある巨人の製造施設が奪われた…』
ドイツ西部のルール地方は軍需産業の拠点だ。巨人の製造施設というのも恐らく軍事施設だろう。
「憂国の黄昏かよ。それを杞憂って言うんだよ」
「ハチなら米英に攻められても平気だろうな」
喜八の言うことはいつだって図星だ。
まるでお国から伝えられていない不利な戦況でもあるかのように思えて、伸太郎の口調も刺々しくなってしまう。
冷静に考えればこれほど不気味なこの旅の中でも友を気遣う喜八の優しさは、凍て付くような車内で懐炉のように暖かく思える。
「まだ村までは遠いな。よし! 俺は女子車両に行って退屈されてるご婦人方の相手をしに行くぞ。シンも来い」
「行くか。行ったら俺まで下心丸出しのお前と同類に見られるだろ」
周囲を暖めるような優しさは良いのだが、喜八のひょうきんさは時に度が過ぎて軽薄に見られることがある。
「どこに行くって?」
「おう。女子車両にご婦人方の退屈凌ぎのお相手をしに行くんだ。リュウも来るか?」
そんな降りかかる火の粉を苦笑で受け流すのは鈴木流一。文部省の高官の家の倅らしく上品な容姿と学生の鑑のように礼儀正しく柔和な振舞いで女子にも少なからず人気があるが、決して堅物ではなく、伸太郎とは馬が合う。離れた座席にいたはずだが、やはり退屈凌ぎに伸太郎の様子を見に来たのだろう。
喜八の気遣いは嬉しかったが、ドイツで軍事施設に深刻な問題がありそうなどと言うこともできず再び窓外に目を移す。
白に埋め尽くされた世界には生物の気配が全く無い。もちろん死者がいるわけでもないのだが、その大地には死が充満しているように伸太郎には思えた。
その時、舞う雪の中を何かが横切ったように見えた。
「どうした、シン?」
思わず声を上げた伸太郎に、いつのまにか女子の噂話に興じていた二人が尋ねる。
「いや、何かが飛んでたんだ」
それがこの世ならざるものだったように思えて、説明する言葉が浮かばない。
「鳥だろう」
「…ああ」
「でもこの吹雪だよ。どんな姿だった?」
「黒い羽」
「大きさは? どの辺にいたの?」
「…山の近く。遠いよな、あの山。随分大きかったんじゃないかと思う。それに…」
「なんだよ?」
「鳥というより、服を着ていたような…」
「シンも面白いこと言うじゃないか」
喜八に笑い飛ばされたが、反撃する気にならない。むしろ二人がいて良かったと思う。その何かの姿は冗談ごとのようには思えず、背筋が寒くなる思いがしたからだ。
「どんな風だった? 珍しい渡り鳥かもしれない」
当然だが、二人は伸太郎を気遣いつつも、あまり真剣には受け止めていなかった。
「多分赤い服。それに…」
「赤か。本当に珍しい鳥みたいだね」
「それに、なんだよ?」
「白っぽかったけど、長い髪の毛があったみたいでさ」
「そうか。じゃ女だな。鳥女、村に着いたら探すか。どうせ他に見るものも無いだろうし」
「村に行くのは遊びじゃないんだけどね。でも確かに青森県大獅子村には商店も名所も無いようだから、野鳥の観察も楽しそうだね」
内心では流一の言葉に反してその禍々しさすら感じた気味の悪い何かを二度と見たくないものだと思いながらも、怯える思いとは裏腹に伸太郎の目はいつまでも窓外の吹雪の空を見つめ続けていた。