血の祭壇
そこにあるもの全てが、夕焼けの丘のように赤く染まっていた。
しかしその赤は夕焼けの光とは異なる、墨を混ぜたように濃厚でぬらぬらと照り輝く液体の赤だった。赤い液体が、天然の洞窟のような大規模なその空間の壁という壁を、一分の隙も無く濡らしていた。岩の天井も壁も、染み出すような赤い液体にぬめっている。そしてその空間の中心には谷のように深い奈落。光源の無いはずのその赤い水底は、湖面に映る月のように仄かに輝いている。
そんなこの世ならざる光景に生命を吸い取られたかのように弱い足取りで、男が二人奈落の淵の細道に歩み入った。
先頭を行く男の白衣は周囲の反射で血に染まったように赤く見える。その後に続くライフルを提げ鍵十字の徽章を着けた男の軍靴も、赤くぬめる通路の岩肌に靴音を吸われ、二人の歩みは葬送のようだった。
「ようこそ、博士」
突然にかけられた幼い少女の声。博士と呼ばれた男はその青い目で怯えた兎のようにしきりに周囲を伺うが、そこには薄暗い空間と滴る赤い液体しかない。
「どうして恐れるの?」
無邪気な子供が惨殺する前の昆虫にかけるような声で、その少女は言った。
姿の見えない少女を必死に探す男達の足下。ばしゃん、と深淵から魚が跳ねたような水音が起きる。
少女の気配だけが二人を追い詰めていく。
「博士、お怪我を」
軍服の男に声をかけられ、白衣の男は初めて自分の顔が濡れていることに気付いた。反射的に拭った手が明らかに汗とは違う液体に濡れる。不思議と冷たいその感触に触れたことを後悔しながらも覗き見た己の手は、真っ赤に染まっていた。
振り回されるように強張った動きで上を見上げた二人の視線の先。それは鳥のように飛び回っていた。まるで赤い染料の海に潜ったかのように、服も、長い髪も、そしてはためくコウモリのような形の羽も、その全てから赤い液体を滴らせ、男達に赤い雨を降らせながら、それが二人の眼前に舞い降りる。
「あなたはアッティス様の顕現を喜ばないの?」
真っ直ぐに白衣の男を見据えるその顔を濡らす赤い液体が徐々に流れ落ちると、それでもやはり周囲の反射をよく映して鮮やかに赤く染まってはいるものの、元は陶磁器のように一点の曇りも無いとわかる少女の白皙の肌が露出した。少女の目は闇夜に光る肉食獣のように黄金に発光していた。
「わたしは、そ、総統のご命令で、この施設を廃棄するために来たのだ」
少女は気配も無く男達に歩み寄る。
「止まれ」
軍服の男が銃口を少女に向ける。
しかし、少女はそのまま白衣の男に接触するほどに近寄っていく。
ライフルが火を噴いた。
至近距離で放たれた弾丸は少女のいた空間を貫き、その背後の地面を穿ち僅かに赤い液体を撥ね上げた。
銃声が岩壁を覆う液体に吸収されたかのように弱々しく虚ろに木霊す。
しかし、消え入る銃声に少女の微笑む声が混じるのを聞くと、さしもの軍人然とした男も愕然とした表情になった。
「私を滅ぼそうというの? そんな鉄塊で私を傷付けようなんて。お仲間には何も教えていませんの?」
平然と言いながら少女の金色の目はついに白衣の男の眼前に迫った。
男に密着する赤い少女。対して、白衣の男は凍りついたように動かなくなる。
そして静止した永遠にも等しい時間の後、男は脱力したように、男の胸の高さにも満たない小柄な少女にもたれかかった。
眼前で繰り広げられる理解を超えた光景を、軍服の男は迷子のように眺めることしかできない。
「私が望むのは血だけよ。夾雑物はいらないわ」
くぐもった声で話す少女の言葉も、軍服の男には理解できなかった。
しかしこんな少女に何の危険があるというのだろう?
射殺できなかった理由もわからないが、博士の付き添いという以外に任務に関する情報を与えられていない男には不思議だった。そして男の目には、少女にもたれかかった博士の白衣から覗く手足が枯れ枝のように変質しているように見えたが、男にはその意味も少女に抗う手段も思いつかなかった。
少女は混乱する男を嘲笑うかのように、その眼前でまるで奇術のように白衣の男を放り捨てた。赤く汚れた白衣はそのまま捨てられたゴミのように、軍服の男の遥か背後、この洞窟のような地下施設の入り口に投げ返された。
少女が空から舞い降り、その背に翼が見え、銃弾がすり抜け、博士が何らかの手段で藁人形のようにされて軽々と放り捨てられた。だがそれらの事態は、男の軍人としての本能には関係なかった。
歩み出た男はライフルを振りかぶると、容赦なく少女に振り下ろした。
加速した金属の重量がざくりと濡れた地面を打つ。
しかしその渾身の一撃は、まるで幻を打ったかのように、少女を素通りしてしまったように男には見えた。
この不気味な液体は幻覚作用のある薬物で、自分は幻覚に侵されていると男は思った。
しかし、そのまま男の眼前にまで迫った少女の金色の目はとても幻には思えない。
男は衝動的に逃げ出そうと振り返った。
だが、そこには今度こそ疑いようもない異形が立ちはだかっていた。
それは奈落の底から伸びた巨大な手だった。
まるで生皮を剥いだ動物の肉のように紅くぬめったその手が、人差し指と親指で男を摘むようにさらう。見た目とは裏腹に氷のように冷たい巨大な指先が万力のように男を締め上げる。そしてそのままトマトを潰すかのように男を潰すと、丹念に砕き磨り潰すように指が擦り合う。
やがて博士が投げ返された外界との出入口から微かに警報のサイレンが響き出す。
そしてサイレンに重なるように少女の微笑む声が響き、その姿は赤い闇に溶けた。