8話 こちらの世界に、慣れてきている勇者の危機感。
――白球が投手の手から放たれ、次いで金属音が校庭に響く。
野球である。
もう少し引いて言えば体育の時間である。
俺はグラウンドの端のベンチに腰を掛けて膝に頬杖を突き、その青春の一ページとしては明らかにだらだらとした授業風景を目で追っていた。
俺達の学校の体育は二クラス合同で行われ、男女はグラウンドの両端を使う。ぼんやり打順を待つ間にグラウンドの対角線に視線をやると、どうやらソフトボールを行うための体育測定を行っているらしく、ホームベースから順にボールを投げている様が見えた。速攻で適当にチームを決めた男子に比べて時間の掛かることしてんな、と思うが、よく考えたら家から外出する時の準備だって俺より妹の方が五倍くらい掛かっていたのを思い出す。
ちょっとそこのコンビニに行くのにがっつりナチュラルメイクしていくようになった妹を、どこに出しても恥ずかしいジャージ姿で待つ時間は、最高に無駄だったと言える。知り合いに会うかもしれないからっ。そうですかかっこわらい。
ぼんやり女子の方を眺めていると、異世界の仇敵の成れの果てである樫和木オーマの順番が回ってきたらしく、これまた全くサイズのあってないブカブカなジャージの裾を何度も折り曲げた出で立ちで、余りにも体躯に対して大きな白球を両手で抱えてホームベースに立つ。
裾は折り曲げることで対処しているが、袖の方は何故か駄々余りの状態で、歩く度に地面に引きずりそうな長さになっている。夜中、暗い所で出会ったら何かの妖怪に見えるかもしれない。妖怪どころか魔王なんだが。
女子達の歓声が遠くで聞こえる。応援八割、笑声二割といったところだ。あちらの世界を震え上がらせた魔王は今、女子達によって完璧なる玩具にされていた。本当俺、勇者としてのレベル上げる前に女子力上げてればよかったな。参加すべきは武道会じゃなく女子会だったか。
魔王がホームベース上から白球を投げる。
投げるというか、落とすというのが相応しい程見事に白球は飛ばず、女子の歓声が一際大きいものとなる。球技大会で男子を応援する時ですら出さないような声量で上がる歓声に、俺は正直遠くにいながら若干引いている。可愛いだけの生物に何をそんなに歓声を上げることがあるのかと思うが、何故か胴上げされている魔王を見るに、可愛いというステータスは全てのステータスに優越に働くらしい。
和んでいいのか冷めた目で見ていいのか分からないその風景を見ながら嘆息すると、いきなり不意に横腹を突付かれて変な声が出る。ベンチの上を退避すると、突付いてきた相手はニヤニヤとしながら肩を竦めた。
「あの子は気になる転校生、ってか? お客さんお目が高い。流石お持ち帰りに至った仲だな、お前と樫和木」
「……お前、本当そういう話好きな、萩原」
呆れた声で言うと「嫌いなやつはいねーだろ」と萩原は脳天気に笑う。お前みたいにチョイモテの領域に片足踏み込んでるサブカル系男子は皆そういう話が好きかもしれないけど、俺みたいな元日陰系男子にはそういうの受け付けない奴もいるからな。俺は嘆息しながらあしらう。
「法を相手取ってまで、樫和木とどうこうしようって度胸は俺にはない」
「なんでだよ、同い年だろ? いや、その説についてはオレも半信半疑だけどさ。海外留学で飛び級って言われた方がまだ信憑性あるし、そっちこそロリ系転校生の王道だよな。ただ、まあ合法ロリっていうのも王道っちゃ王道か?」
「未成年の場合どの道違法だろ。っていうか違法か合法かの以前に、そういう気が俺の方に更々ない。ロリコン趣味のお前と一緒にすんなよ」
「連れねーな大将。別にオレはお前がロリコンだろうが大事な友人の一人として、周囲に言いふらすだけだ」
「……お前と友人であることを誇りに思うよ。お前俺のことも樫和木のこともどうでもよくて、ただ自分が楽しみたいだけだろ」
もちろんだ! という気持ちのいい即答が返ってきたので、その脳天に軽くチョップを落とす。最大限手加減に手加減を重ねないといけないので、ツッコミもドキドキしながらしないといけない。割りと毎日相手してるハルカゼで慣れては来たけど、ふとした瞬間に勢いに任せて裏拳でも見舞おうものなら、格闘漫画なら見開きになってベタフラッシュが施されるレベルのダメージを与えてしまうかもしれないし。
萩原は俺がさっきまで見ていた女子の方向を見ながら顎に手をやる。まるで鑑定師が目利きをするような目をしていたので、頭の上の表示を見る。表示は学生レベル5でなんとなく安堵した。お前はハルカゼと違って生まれる世界を間違ってないよ。
「……しかし樫和木も大変だな。ちやほやされてるように見えて、ありゃ完全に女子達の玩具だぜ。あいつにどういう事情があるのかは分からんが、前世で何やったらあんな業を背負うんだろうな」
多分世界を一つ脅かしたらじゃないですかね。はっきりと言える魔王が背負うその業らしい業を内心で毒づきながら、俺はさあ、ととぼけた。
「でもまあ、なんとなく緊張ムードだった春から比べて、樫和木が来てくれてちょっとクラスの雰囲気明るくなったけどな。代わりに女子と男子に明確な壁が出来てるのはちょっと残念だが、それはオレがどうにかしてやろうじゃないか」
「……頼もしいな、そりゃ」
正直言って簡単に魔王とコミュニケーションを取れない現状は、俺としても少し困っている。毎回女子力を突破するために毒床やバリア床が利かない系魔法を唱えないといけないのは、元々MPが少ない俺には非常に負担になる。あっちの世界でも、物理攻撃が利かない敵が現れた場合、アリシアや俺は後方で回復魔法などで支援するしかなかったしな。
「……お前今、そうすりゃ樫和木とももう少し簡単に話せるな……とか思ってるだろ」
何で分かった。読心魔術は魔法国が定めた法律によって二重に禁制が掛けられている第一保護領域だろうが。
「だから別に隠さなくてもいいんだっつの。お前があいつに興味があるっていう糸口があれば打てる手もあるんだし、安心しろ、俺はお前の味方だ。クラスの他のロリコン連中に任せるよりは、あいつはお前に気があるみたいだし俺としても安心出来るからな」
「……ああ、そりゃ、ありがとよ」
お前は俺に対しても樫和木に対してもどんな立ち位置と立場なんだよ。そもそもあいつが俺に気があるとしたらそれは殺気だろ。どいつもこいつも外見に騙され過ぎじゃないか? あそこにいる、今日の昼自販機で間違えて熱いのを買ってしまって猫舌で飲めず机の上でしばらく冷えるのを待ってた幼女、異世界では最悪の魔王とか呼ばれてたんだぞ?
それでも、こちらの世界に再召喚されてから味方らしい味方に恵まれていない俺が掛けてもらった、最初の『仲間発言』に少しだけ目頭が熱くなったのも事実だ。味方だか敵だか分からない連中に日頃囲まれているからって、それだけでグッと来るとか可哀想すぎませんか、この勇者。
だが、味方と告げた萩原の瞳の奥に、何故か俺に対する敵意が潜んでいるのを、俺は見逃さなかった。勇者の危機察知能力が、これまた何故かエンカウント音を脳裏に響かせている。
「……ただ、お前、二股は許さんぞ」
「お前、俺がそんな甲斐性あるように見えるか?」
「惚ける気なら、オレはオレの立場上、お前の為を思ってお前の命を狙わざるを得ないからな」
……聞き覚えあるぞそのセリフ。あっちの世界で公務に逆らって正義を成そうとしたときにグロウ騎士団長に言われたセリフと全く同じだよ。辞めろよお前。異世界でそうだったように、また敵(女子達)を前にして血みどろの内紛(男子同士の争い)起こす気か。
「お前、部活にも入らずどこ行ってるかと思えば、下級生を資料室に連れ込んであれやこれや個人授業してるらしいじゃないか。目撃者もいるんだ、惚けることは許さんぞ、葛切」
「待て。お前それ何か盛大に勘違いしてるぞ。連れ込んでなんかいないし、むしろ俺の方がさせられてる方だ!」
「お前が個人授業される側なの!? ロリコンの次はマゾ!? 二刀流!?」
「持ってねーよそんなスキル!!」
勇者のスキルツリーにそのスキルはねーよ!! っていうかそのどっちも修めたつもりは一切ない!! 今に至ってはマゾくらいはスキル振っておけばよかったなとは思ってるけどな!!
「……いや、上級者だわ。むしろお前のこと勇者って呼ぶべきか?」
「お前ごめん、それだけは本気で辞めて。頼む。この通りだ」
なあ萩原、的確に俺にダメージ与えてくるのマジやめて。
俺が世界を救おうと奮闘した三年間でようやく芽生えた勇者としての自覚を、下級生に虐められることで開花した性癖と同列に扱うのは勘弁してください。
会話だけでがっつりMPを奪われた俺は遠くから呼ばれた気がして周囲に視線をやる。
偶然かもしれないが、校舎の方を見た時、授業中の学校の二階から、こちらの様子を眺めてきている生徒がいることに気がついた。
いや、偶然だと思いたい。全ての授業が終わった後の拘束時間ならまだしも、授業中である今をも監視されているという状況に気づきたくはなかった。
校舎の二階、グラウンドに面した一年の教室から、桜倉ハルカゼがこちらを見下ろしてきていた。遠目でも分かる、あのドッグランではしゃぐ犬を見ているような視線。もしくは授業参観の時に後ろから見られているような居心地の悪さ。お前は俺の何のつもりなの。
多分、マスターのつもりなのだろう。こっちには従者のつもりは更々ないのに。ちくしょう。
「あー、もしかして、あれが女王様?」
校舎の二階を見つめて硬直していた俺に、萩原が声を掛けてくる。俺が文句と否定を吐こうとしたところで、今度ははっきりと俺の名前を呼ばれる声が聞こえた。
それは、さっきのも含めてハルカゼの声でもなんでもなく、グラウンドからクラスメイトに掛けられた声だったらしい。見ればバッターボックスには誰も立っておらず、俺の打席が来ているようだ。俺は慌てて立ち上がり、適当にバットを選んで打席へと向かう。
打席に立つと、女子達がソフトボールを始めているのが正面に見えた。ここからだと遠目だし、何を話しているかも分からなかったが、こちらのダラダラした空気と同じくらいやる気なさげに、それでもそこそこ楽しそうに試合は進み始めている。
うちのクラスの最高女子力を誇る城ヶ崎の膝の上で自分の打席を待っている魔王の姿が見えて、軽く苛立つ。俺以上にこちらの世界に順応している魔の王は、後ろから可愛がられながら足をぴこぴことしていた。
元はおっさんだぞあの野郎。男子の憧れ城ヶ崎さんの膝の上を占拠しやがって……。
考え事をしていたので、一球目を思いっきり空振る。完全なる振り遅れに味方のベンチから野次が飛び、敵の守備からはうぇーいだのいぇーあだの適当な声援がピッチャーに送られた。教師に怒られない程度に手を抜いている内野外野と違って、ピッチャーの坊主頭は確か野球部だったか。放る球が割りといいコントロールしている。
本当に、何一つ違和感のない普通の授業だ。魔王程ではないが、半ばそれに馴染み始めている自分にも少しだけ危機感があった。こんなに平和な世界で、徐々に牙を削られていって、本当に大丈夫なのだろうかという見えない不安に晒される。
結局、魔王は元々俺と同じタイミングで桜倉ハルカゼが召喚したのだという。それによって魔王もハルカゼのサーヴァントとなり、完全に自由は奪われている。俺と同じように放課後には資料室に顔を出し、雑用に使われている俺と違い、毎日ハルカゼが持参した洋服によって着せ替え人形と化していた。
日本人離れした魔王の外見にはビスクドールやゴスロリファッションが良く似合い、俺がいるのも構わず、魔王本人が逃げ惑うのも構わず、問答無用で着替えさせるハルカゼの変質者のような強行に、俺は少しだけ引いていた。俺にロリコン趣味があれば危なかった。
最近はもう慣れ始めたのか、諦めの境地に至ったのか、黙って着せ替え人形をされた上で膝の上で一緒に書物を読む姿は、年の近い姉妹のようにも見えた。一種託児所のような気分になっていたが、紅茶の温度が0.3度低いだけで文句をつけてくる子供はいないと思う。
俺はそれでも、魔王がハルカゼの言うこちらの『世界の脅威』だという説は消えていないと思っている。
ハルカゼ曰く『世界の危機』を感じたのが先で、それから俺を召喚する際に一緒に魔王も召喚されたのだから、時系列的に言ってそれは成り立たないと説明した。だが、そんなことを言えば起こってもいない『世界の危機』を察知出来た時点で時間的な前後は関係なく、今明確に目の前に現れた魔王という存在を『危機』から除外するのは尚早ではないかと思う。
ハルカゼ自身は魔王がどんな所業を行い、どんな力を持ち合わせているか知らないから、完全に外見に騙されてそんな脳天気なことを言えるのだろう。それもまた、異世界を経験した者とそうでない者のギャップであるのだとしたら、そこを埋めろと相手を説得するのは難しいように思えた。
脇腹をボールが掠める。あぶね。インコース攻めてきた。
いつの間にかカウントはツーストライクワンボール。ボーっとしている間に二球も見逃していたらしい。
ピッチャーを見ると、無反応な俺を少しビビらせるためにインコースを突いた意図が見え隠れしていて、なんとなく異世界に行く前は体育の時間って憂鬱だったのを思い出した。球技って特に、経験者と非経験者の意識の差、凄いよね。バスケにしてもサッカーにしても。
俺は改めてバットを握り、打席に浅く立った。
何にせよ、現状俺は魔王からは意識を逸らす事は出来ない。
ハルカゼが大丈夫だからと言ったことを理由にして、魔王を安全と断じることは勇者としては断固として出来ない。勇者とは、自分で決定することを覚悟した者にのみ送られる称号であると思うし、何よりこの世界で魔王の脅威を実感として抱いているのは俺だけだからだ。
異世界でも、魔王を討ち滅ぼす事が出来るのは、神剣を携えし勇者だけだったことを思い出す。最初は、絶対に俺なんかじゃ無理だと思っていたその言葉も、冒険を重ね、仲間との信頼を勝ち得、必死に努力をした結果、いつの間にか背負えてしまっていたことを思い出す。
バッターボックスからピッチャーごしに、ソフトボールに興じている魔王を睨みつける。
お前がどんなつもりで、何をしでかそうとしているかは知らないが。
俺の目が黒い内は、お前の思い通りには、絶対にさせない。
決意を以ってその今は小さき魔の王を見ていると、俺の視線に気づいたのか、魔王はこちらを見てにやりと笑うと。
――頭の上にある、城ヶ崎さんの推定Dカップの胸を、ほゆん、と持ち上げた。
多分中には夢が詰まってるんだろうな、という感じに揺れる。
今の貴様にはこんなことは出来まい、無様だな勇者よ……! と嘲け笑うように。不意打ちで胸を持ち上げられた城ヶ崎さんもまんざらではない感じに笑っている。
イラッ……☆
丁度その時、目の前にボールが来たので、一瞬だけ怒りに任せて、思い切りバットを振ってしまう。
今まで散々セーブしていた腕力が全解放されて、バットを剣に見立てた剣技のスキル全開で振られたそのスイングに、グラウンド全体を薙ぎ払うような豪風が巻き起こり、グラウンドの端に生えていた雑木林をすら揺らした。唐突に吹き荒れる突風に、ピッチャーをはじめとした守備についていた内野外野全てが姿勢を保っていられず地面に倒れる。
一番近くにいた、執拗なインコース攻めをしていたピッチャーなど、思い切りその煽りを受けてゴロゴロと転がって二塁まで吹き飛んでいた。
バットが起こした暴風は女子達が興じるソフトボールにまで及び、沢山の悲鳴と嬌声が砂埃が去るまで長く響き、恐らくそれほど汗をかくこともすまいと思っていた、体育やる気ない女子達に滅茶苦茶な量の砂が浴びせられて、燦々たる状況を生み出してしまっていた。
――たかがバットが巻き起こした颶風だ。それはすぐに収まった。
これが『颶風剣』を携えた『颶風のセト』の一振りであったなら、大地は裂け、雲はちぎれ飛び、魔力抵抗を持たない魔族は風圧にすら切断されてしまう一撃だっただろう。
逆にそれが功を奏した。この時俺は初めて、神剣がその身をシャーペンに落としていることに感謝した。
冷や汗が流れる。
一瞬だけ我を忘れたスイングで、まさかここまで被害が拡大するとは思わなかった。
突然起こった突風に、誰もが唖然としたまま砂だらけの姿で言葉を発せずにいた。
俺は、助けを求めるように振り返ると、ボールをミットに収めたキャッチャーの姿がそこにあった。
苦し紛れに、苦笑いをしながら大げさに言う。
「……う、うわー、三振かー!! スリーアウトチェンジ、ってやつだよな!!」
その言葉に、グラウンドにいた誰もが苦笑いを返して頷き「今のなんだったんだ?」「すげー風だったな」「天気いいのに何なの?」などと起こった神風について文句を言いながら守備位置を離れていった。どうやら怪我人はいないらしい。本当に良かったと思う。
俺は泥を払うクラスメイト達に物凄く申し訳ない気分になりながら、バットを置き、自分達のチームのベンチへと向かう。
その途中、手のひらにキリキリとした微妙な痛みが走り始めたので、校舎の方を見る。
そこには、まるで自分のペットが粗相をしたときの飼い主のような視線でこちらを見ているハルカゼの姿があった。淡く光った右手に、僅かに責めるような絶妙な痛みが走り、俺は歯を食いしばって耐える。
ああ、ごめん。
今のは、完全に俺が悪いわ。何なら服従のポーズとして、腹を見せて寝転がりたいくらいには……。