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閑話1-5 勇者の話であります。


 その日の夕方。

 湯船に浸かりながら、色々なことを考えていたであります。

 それは猫のことであり、己のことであり、お家のことであるであります。

 それらのことはどれだけ考えても答えが出ることではなく、それが原因で六月の事件のように大事になることもあったであります。男性として過ごした一時は、未だに心の中に歯がゆい思い出として残っているであります。


 私はその事件の原因となったグラムちゃんに手を伸ばすであります。

 お風呂でも液漏れせぬように、密封式の袋の中に入れてありますので若干窮屈そうではありますが、これは妹様が例の端末をお風呂に持ち込むために使っている技でを教えてもらったのであります。こうしておけば濡らさずにお風呂でも会話出来るでありますからな。


「……グラムちゃん、少し良いでありますかね」

『はい、何なりと、アリシア様……』


 グラムちゃん――蛍光マーカーは淡く光って応えるであります。

 ぼんやりと光るグラムちゃんを湯船に浮かべながら、膝を抱えるであります。


「……グラムちゃんは、その姿にかなり慣れてきているでありますね?」

『そう、ですね……もう数ヶ月にもなりますから……。

 セーナにも言われましたが、変わってしまったことを嘆くよりは、新しい自分を受け入れた上で、より良き道を、と(わたくし)自身も思っておりますので……」

「グラムちゃんは立派でありますなー」


 ちゃぷ、と湯を掬い、顔に掛ける。

 どこか火照った頬に、温めのお湯が心地よいであります。


「……私も、そうあるべきでありますかね」

『私からは……その、私からはなんとも申し上げる事は出来ません……。

 先の『願望器』の件でもそうでしたが、本来意志を持たぬ剣が意志を持ち、願いを抱いてしまったがゆえの失態であったと思っていますので……そればかりは今はこの身には烏滸がましいと思っております……』


 やはり『願望器』の一件は、グラムちゃんにとっても半ばトラウマになっているでありますな。

 あれは、私の心の弱さと、グラムちゃんの心の弱さが相互に干渉をしあって生じた事件でありました。

 私も……セト様のお側にいる限り、忘れることはないと思うであります。


「あの一件は……グラムちゃんにも迷惑を掛けたでありますな」

『い、いえ、とんでもない……。

 むしろ私が、私こそがアリシア様やセト様にご迷惑をお掛けして……』

「……そう、でありましたね。

 むしろあの一件でも、一番のご迷惑を被ったのは、セト様であるでありますのに』


 あの時も、セト様は。

 まっすぐに私へと向かってきてくれたであります。

 内側に抱える懊悩に食われようとしていた弱い私を救い出そうと……剣を向けてくれたであります。


 ぶくぶくと湯船の中で泡を立てるであります。


「そういえば……そうでありましたね。

 最初にセト様とお会いした際も、セト様はそういう目を私に向けてくださっていたでありますよ」

『セト様が、ですか……?』

「グラムちゃんに出会う、少し前の話でありますからね。セト様との出会いは。

 ……セト様がいなかったら、私もグラムちゃんには会えなかったでありますよ?」


 小さく笑って、グラムちゃんを指で弾くであります。

 懐かしい思い出に、少しだけ面映ゆさを感じるでありますね。

 まだゼグルーンで、一人己の騎士道に惑い、お家との軋轢や周囲との不協和に悩んでいた頃。

 己の研鑽だけではどうにもならず、それでも研鑽を積むことでしか自己を表現できず、苦しんでいた頃。

 恐らく、私のそれほど長くない人生の中でも、一番苦しかった頃であります。


 ……私がセト様とお会いしたのは。



「異世界から、勇者が召喚されたとは、聞いていたであります。

 長らく魔王の支配におびえて暮らしていたでありますからね、私も他人ごとながらその召喚には喜んだであります。

 その頃既に騎士団に所属していた私は、北から訪れる魔族の防衛に……時々は参加させてもらっておりましたゆえ、その驚異を生で感じていた内の一人でありますからね」


 時々は、というところで少し言葉を言いよどんでしまう。

 そういう、複雑な扱いをされていたことを思い出すと、やはり少し表情は固くなるであります。

 ファイルカスタムという名門にありながら、武功にて騎士となり、さりとて戦場で傷つけるわけにもいかない公爵の家の令嬢として飼い殺されていた日々。

 後から聞けば、それには風聞を気にするファイルカスタムのお家からの圧力があったという話であります。

 つまらない戦闘で負傷し、あまつさえ生命でも奪われようものなら、それは本人がどうであれお家の名に傷がつくと……そういう理由で緩やかに保護されていたのが私だったであります。

 がゆえに上司は私を扱いかね、同僚は特別扱いの自分を当然のように疎んでいたであります。

 分からない話ではないであります。

 私は、その特別扱いをされる、最も分かりやすい理由として、女という性別を持って生まれてきていたでありますから。


「それでも、私にとってはどこか他人ごとではあったであります。

 世界は、きっと私の知らないところで回っているのだと。

 今回も、きっと私の知らないところで何かは解決するのだと。

 私ごときが何か己の生き方を見出すことに、何の意味もないのだと、半ば諦めかけていた頃でありましたからね……」


 見合いの話が来るのは、月に数回という話ではなかったであります。

 とにかく、知略を持たぬファイルカスタムの少女を、ただの女としてどこかに売りつけたかったのでありましょうな。

 外側から形として収めてしまえば、きっと余計なことは言わなくなるであろう、そういう思惑も透けて見えたであります。


 事を荒立てたくない。

 噂にすら、させたくない。

 ただ穏便に、アリシア・ファイルカスタムという人間を何かの枠に収めたい。

 そのお家の、消極的でありながら強い圧力は、ファイルカスタムのお家がゼグルーンにて知慧で功を成したお家である証左のようにも思えたであります。


 研鑽とは、己との戦いであります。

 辛さや苦しさに耐え、己の技術や身体を磨くことにあるであります。

 その研鑽を阻む、最も最適な方法が、外側からの甘言であります。

 そのように苦労をせずとも、お前には道があると囁き続けられながらの研鑽は、本来の苦しさを何倍も増幅させるであります。人間の心理を良く理解した、お家らしい計略であったと、今では思うでありますよ。


「国ごとが、浮かれていたであります。

 ようやく、『勇者』というクラスを持つ存在を召喚出来たことに。

 今まで何度も何度も失敗を重ねた上での、異世界からの召喚術でありましたからね。

 きっとこれで、世界は救われるものだと、誰もが信じて疑わなかったであります。

 ただ、その浮かれた空気は一週間続かなかったでありますよ。

 およそ三日くらいでありましたかね。

 段々とその勇者様についての噂が、ぱったりと止まったのは」


 ……理由は簡単であります。

 セト様に、勇者というクラスにふさわしいスキルやステータスが、一切備わっていなかったことにあるであります。

 それどころか、騎士や戦士といった普通のクラスにすら備わっているはずの戦闘能力が、全て欠落していたことにあるであります。

 剣も握ったことのない勇者が召喚されたことが、少しずつ水面下で広まっていき、誰も勇者の名前を出さなくなったであります。


 こちらの世界に召喚されて、その理由もこれ以上ないくらいに理解出来たでありますが。

 剣の出る幕はないであります。

 刃で自衛をしなくても、生きていけるであります。

 明日が、必ず来るものであると、少なくともこの国に住む者であれば、皆が思っているでありますよ。

 それはとても幸せなことであると思うであります。

 私はだから、この国や、セト様が生まれ育ったこの世界のことが、好きでありますよ。


 だけれど、国はその『異世界から勇者を召喚する』という手段事態にまで失敗の烙印を押し、結果、異世界から他者を召喚するという策はその後半年近く凍結されたであります。

 今思えば、その凍結こそが大きなミステイクであるとは思うであります。

 あの凍結がなければ、もう少し早く魔王を倒せていたかもしれないと、そう思うであります。


「失望は大きかったでありますよ。期待が大きかっただけに。

 それにしても酷い話ではあると思うであります。

 その顔も知らない勇者様は、勝手に召喚されて、勝手に失望されたであります。

 本来なら怒っていいと思うでありますし、失望される筋合いすらない話であります。

 だから、私は少しだけその名前も知らない誰かに同情したであります。

 ただ、それだけこの国も疲弊しているのだなと思うと、その中で意地を張り続けている自分もまた、滑稽に思えたであります。

 他人の心配をしている暇も、余裕もなかったでありますゆえ……その勇者様のことは、私の頭からぽかんとなくなっていたでありますよ。

 直接……お会いするまでは」


 それから、少し日が空いての話であります。

 当時の私は、もう当然私の世界に召喚された勇者様は元の世界に送り返されたものとばかり思っていたであります。何の能力も持たない勇者様がこちらの世界で出来ることはないし、彼は当然返還を求めてしかるべきだと思っていたであります。

 ただ、その勇者様は帰っていなかったであります。

 この世界に留まり、この世界を救うことを願ったであります。


「誰もが、失笑したと聞いているであります。

 何の能力も持たぬ物が、何を言うと。

 これもまた、酷い話でありますよね……。

 が、ゆえに本来の騎士達の訓練にも混ぜてもらえず、独学で剣を学び始めたと聞くであります。

 その当時、騎士を引退されたお師匠様がおられたので、まるっきり一人でというわけではなかったそうでありますが」


 勇者は世界を救うと言ったであります。

 その当時のことを尋ねると、その勇者様は言いづらそうにするであります。

 何を思ってそれを言ったのか、何を以ってそれを誓ったのか、多くを語ろうとはしないであります。


 ただ、それでも。

 その決意によって多くの人が救われ、助けられたことは間違いないであります。

 どのような動機であれ、その時に立ち上がった何の特別なスキルもステータスも持たない一人の少年が、世界を救い……かけたことは事実であります。

 それは私にとっては、とても凄いことだと思うでありますよ。


「そんなときでありましたね。私とセト様がお会いしたのは」

『……そう、なのですか』

「……有り体に言えば、それほど良い出会いではなかったと思うであります。

 その当時、私は完全に道に迷っていたでありますゆえ。

 セト様はそんな私の懊悩を気にしていなかったのか、あえて気づかない振りをしていたのか、朗らかに話しかけてきたでありますよ」



 ―― 一人で剣振るの、退屈だろ。

 ―― 手合わせ、お願いできないか。


『良いですね……。

 切磋琢磨しあえる仲間が出来、ともに研鑽を積んできたからこその今があるというお話でございましょう?

 お返事としては、是非ともと、そう返されたことでございましょう』

「ぶっ叩いたでありますよ」

『ぶっ!?』


 ぶっ叩いたであります。


 ……それこそが修練の足りていない証拠でありますが。

 毎日、極限まで己を追い詰めて、風聞や陰口が聞こえぬよう、そして己の中にそれを物ともしない武を身につけようと躍起になっていたでありますゆえ。

 加えて、自分より背の低い、訳の分からない少年に因縁をつけられて、何かがキレたでありますよ。

 キレやすい若者であります。

 返事とばかりに修練用の木棒で頭を一撃してやったであります。


『一撃!?』


 大きな声で叫びすぎて、防水袋の中でインクが漏れたであります。

 ……確かに、何を考えてそうしたかと問われれば、むしゃくしゃしていたからとしか答えられないでありますが……。

 一応自己弁護するでありますが、私たちが相手をするのはルール無用の魔族でありましたがゆえ。

 そうやって日常の中にあっても神経を鋭敏に研ぎ澄ますべしと思っておりましたがゆえ、そうやってへらへらと声を掛けてくる者への教示のつもりでもあったであります。


 一撃を受けたセト様は、一撃でぶっ倒れたであります。

 もう、それは見事に、今思えばあれほど綺麗で見事なノックダウンはその後でも見たことがないというくらいに、綺麗にKOされたであります。

 完全に油断したところで脳天を一撃されて地面に笑顔で気絶する少年を見て、少しだけ気が晴れたのを覚えているであります。


 それが勇者様であったと聞いても、さほど驚かなかったであります。

 ああ、あれが例の、とくらいにしか、その時は思っていなかったでありますね。


『……そ、そんな、馴れ初めが』

「今思えば、余りにも未熟過ぎて、少し頬も染まるでありますね……」

『それで……その後はどうなったのでしょうか。

 まさか一撃されて終わりでは、今アリシア様がお仕えしているセト様と結びつきませんが……』

「そうでありますね……。

 その日はそれで終わったでありますが……その少年は、その後も毎日来たでありますよ」


 毎日。

 毎日毎日毎日。

 何日も何日も何日も。


 訪れては挑んできて、返り討ちにする。

 一日に一撃、きっちり脳天に食らわせて、医務室送りにする。

 私は正直、うんざりしたであります。

 それが、同僚による新たな嫌がらせである可能性も考えたであります。

 それくらいしつこくしつこく、その勇者様は毎日手合わせを願ってきたでありますよ。


 二週間程続いたでありましょうか。

 一撃を加えても、昏倒しなくなったであります。

 その次の一週間で、一撃を防ぐようになったであります。

 更に一週間経つと、攻撃を返してくるようになったであります。


 私は焦ったであります。

 己の研鑽が、正しく行われていない可能性を考えたであります。

 ゆえに、その日からメニューを見直し、より実戦的な訓練に切り替えたであります。

 そして更に一週間、一進一退の攻防の中――私は、一撃を貰ったであります。


「弱い、一撃でありました。

 食らったところで、例えその得物が鉄剣であっても、皮一枚を削ぐ程度の、一撃でありました。

 でもその一撃は、私の深いところを抉っていったであります」


 剣なら。

 剣でなら、誰にも負けないと思っていたであります。

 ファイルカスタムのお家の人間にも。

 陰口と嫉みを向けてくる同僚にも。

 私を腫れもの扱いする上司にも。

 自分勝手に、何もかもを振り回す、この国にだって。

 それが私にとっての唯一のアイデンティティであり、存在意義でありましたから。


 だから私は負けてはならず。

 一人でも研鑽を続けてきたであります。

 でもそれは、所詮一人で続けてきた研鑽であったと、思い知ったであります。



「私はその瞬間。

 自分の存在意義を、見失ったであります。

 声も出なかったであります」

『アリシア様……』


 打ちひしがれ、剣を取り落とす私に、勇者様は剣を向けたであります。

 毎日殴られ、満身創痍にも関わらず、勝負あり、と小さく呟いたであります。


 ああ、成る程。

 私は、そうやって殺されるのか、と思ったであります。

 剣でなら誰にも負けないという矜持を折ることによって、私は騎士として、死を迎えるのだと。

 この勇者を名乗る少年は、自分に引導を渡しに来たのだと。


 私は膝を付いて見上げたであります。

 ……でも、勇者様は、笑っていたでありますよ。


 その後、一言だけ。

 たった一言だけ貰ったその言葉に――私は救われたであります。



「アリシアおねーちゃーん、そろそろ出ろって、おかーさんが」


 その時、お風呂の外から妹様の呼ぶ声が聞こえたであります。

 お風呂の中の時計を見ると、そういえば一時間ほど浸かりっぱなしであったであります。

 居候の身ながらなんたる贅沢……! これでは、未熟は今でも変わらないでありますが!


 私は慌ててグラムちゃんを掴むと、湯船から立ち上がったであります。



「グラムちゃん、続きは、また今度であります」

『ええ、楽しみにしておりますよ、アリシア様』



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