5話 この世界にとっての脅威と危機と誤算。
高校から家までの道は右折左折を繰り返して道なりに行くと20分程の距離があるが、公園の中を突っ切るという直線の道で帰ると10分程度に短縮が出来る。こちらの世界に居た非リア充時代もその道を度々利用していたんだけど、途中その公園が夕刻になると、同高校の男女が隠れてイチャイチャする場所だと気付き、自然俺はその道を利用しなくなった。
今でも鮮明に思い出せるが、負け組の俺にも優しくしてくれたクラスの老野森さんがこの公園でサッカー部の某とどんな痴態を晒していたかを考えると、ハルカゼが紋章を痛めつけるまでもなく俺の呼吸は少しだけ苦しくなる。ちょっと優しくしてくれただけなのにな。
だが今はそんな公園でも真っ直ぐに突っ切って家路を急ぐ事は出来る。けして今後輩の女子に下僕やら奴隷やらペット扱いをされている状態をリア充と呼ぶ訳ではない。が、異世界で三年近く培ってきた経験が、リア充が発するリアジュニウム(猛毒)をある程度中和出来るからだ。
ガサガサと茂みをかき分けて公園の中に出ると、見慣れた公園の景色が広がる。
『こちらの世界ではモンスターとのエンカウントがないので楽だな、主よ』
「まあ、そうだな。幸い今日は強敵はいなそうだし」
俺が皮肉ると、神剣はふむ、主でも恐れるような強敵が生息しているのなら楽とは言い切れんか、と額面通りに取って呟いた。
「楽と言えば楽だよな。どこ歩いてても気張らなくていいし。前後左右に気を配りながら消耗を抑えて抑えて目的地に向かう旅路に比べたら、こっちの世界の治安の良さは気が抜けそうになる」
『良き事だと思うが。人々も安心して暮らしておる。それ以上の幸福はなかろう』
「意外とな、こっちの世界はこっちの世界で気苦労あるんだよ。でなきゃ、俺みたいに異世界に自分から飛び込んでいくような奴が生まれるわけないし」
あの時は世界を救ってやろうなんて思って飛び込んだ訳じゃない。ただ、毎日毎日同じことの繰り返しで、しかも先が見えない現実がイヤになって逃避先として逃げ込んだだけだ。
結果として世界の一つや二つ救える力を身につける事は出来たし、今でこそ勇者としての自覚も備わっているが、俺は最初から勇者だったわけじゃない。ましてや、こちらの世界に居た頃は勇者どころか、高校生としてもレベル1程度の劣等生でしかなかっただろう。
自分でも自覚はなかったけれど、恐らくそこに対する後ろめたさが、ハルカゼの言葉を深く心に突き刺さる刃へと変えたのだろう。
――この世界のことも、見捨てないでください。
言われた言葉が脳裏に蘇り、胸がざわついた。
一度、こちらの世界を見捨てて、見限って、見放して逃げたやつだけが感じる負い目に似た気持ちが、その何でもない言葉への防御力を弱めていた。
『だが、結果としてその決断は百年の長きに於いて眠りについていた我を引き抜く勇者を生むこととなった。何も悪い方にばかり捉えることはなかろうて』
「その眠りについていた神剣は、今や文房具だけどな」
『それもまた面白からんや。次は何になれるか楽しみではないか』
「……この状況を楽しめるとか、お前思ってたより呑気な神剣だったんだな。今度別の世界に召喚されるときは、必要なときに見当たらない『爪切り』とか『耳かき』とかいう就職先を紹介してやるよ」
『ほう、それらは道具にありながら必要なときに姿を隠すか、面白いな、矛盾を抱えておる。我が成るには相応しいやもしれん』
お前はもう少し自分が世界で唯一魔王に対抗できる神剣であった自覚を持て。なんで爪切りや耳かきに転生することすらウェルカムなんだよ。売れない芸人でももう少し仕事選ぶわ。
「四神剣の内の一つが欠けて、あっちの世界のパワーバランスは大丈夫なのかよ。仮にも世界の命運を左右する四振りの内の一本なんだろうお前は」
『さにあれ、所詮我も地に在りし数多の存在の内の一つに過ぎん。魔王という存在があってこそ世界の命運を左右するなどと嘯かれていたが、現状彼の魔の者も姿を消したあちらの世界のパワーバランスなど崩れようもなかろう』
「そういうもんか。ただ、何の目的で魔王が姿を隠してるかは知らんが、俺達から負った傷を癒やすためだとしたら、その傷が癒える前になんとしてでも戻らないとアリシア達だけで対抗出来るか分からんだろ」
『うむ。それは肯定しよう。その時までに例の手の甲の上を親指から小指まで回りながら行うトリックを習得しておくんだな。未練を残しては十全に事に臨めまい』
なんで異世界を救うためにバックアラウンドフォールの練習をしなくちゃならんのだ。どこから仕入れてきた、そのペン回しの技情報。俗すぎるだろ颶風剣。
『それに、主の未練も解消せねばなるまい?』
「俺の未練って何だ」
『痛いところを突かれたような顔をしていたではないか。あのハルカゼという少女、勇者に一撃食らわせるとは、百凡の魔の者よりも強敵と見える』
「……お前相手に虚勢張っても仕方ないからダメージを負ったのは認めるが、あれは不意打ちだったから効いただけだ」
ククク、と意地悪い笑みが胸元のシャーペンから漏れてくる。この場でへし折るか、無意味にノックしまくってやろうかと思った。
『主観論であると切り捨てることも出来ぬのであれば、この世界に呼ばれたその身をしばし休める意味で考えても良い命題にあると思うがな』
「……本当に呑気だな、お前」
『せめて泰然自若としておると評せ。それに、少女の主観では我が主はこの世界の離反者に見えていようが、あちらの世界で主を待つ者にとっては主は変わらず勇者である。気に病まず、気に掛けてみよ。新しく見えるものもあるやもしれん』
「お前に心配されるって、相当落ち込んでるように見えるんだな、今の俺」
それもまた立ち止まって見えるものかもしれんぞ、と話を締めくくって胸ポケットの相棒は静かになった。
俺は小さく溜息を零す。
多分この状況も、傍から見たら見えない何かと会話をする危ない人なんだろうなと思うと憂鬱になる。今更何を思われようが別にどうでもいいっちゃどうでもいいが。
考えろとは、また難しい注文をしてくるもんだ。今まで異世界で暮らしてきた三年余り、考える間もなく目の前に与えられた問題や課題を解き明かすことだけに心血を注いで来たので、自分を省みる暇など少しもなかったから。
明日をも知れない人々を救うためには、それ相応の焦りに突き動かされて必死に勇者としてのレベルを上げていかなければならなかった。レベル上限が他人より遥かに高いことと、異世界からの召喚者ということで優遇された初期値はあったものの、戦闘の勘というか実戦経験が完全にゼロの状態からの勇者業はかなりきついといえばきつかった。
ただそれは、こちらの世界で努力しても努力しても何も改善しない現実との戦いに比べれば、毎日自分が成長している実感が文字通り数値化して見えるので、充実した日々でもあった。誰かに頼りにされる嬉しさや、自分が出来ることが広がる充足はあちらの世界で知ったことだ。
俺は人生の何分の一かを異世界で過ごし、その異世界で新しい生き方を教えてもらった。ただその価値観は、今までの人生を否定して様々な感情を上書きすることで得た生き方でもあった。
こちらの世界で救われないまま捨てられた『葛切セト』の名前は、三年という異世界での生活を経た後に拾い上げるにはかなり薄汚れていて、見る度に胸に疼痛が走る名前でもあった。本当に何も出来なかったあの頃を思い出して、胸が苦しくなる。
「……こっちの世界では、俺は別に勇者でも何でもないのな」
例え他人より優れた力を持ち帰ったとしても、それは異世界で培った第二の俺としての能力であり、葛切セトが元から持ち合わせていたアビリティではない。
この世界じゃ誰も俺のことを勇者様などと呼んでくれないし、遅刻をすれば出席簿で叩かれ、用途の分からない勉強を強制され、クラスでの居場所を作るために愛想笑いだけが上手くなっていく。
まあ、戻ってきた今はあらゆる意味で近寄りがたい存在になってるせいで未だにクラスに馴染めてない感じがバリバリにしてるけどな。いいんだよ、勇者は自分で回復も出来るんだから。
「自分でも理解かっておるのだな。勇者セト」
――全身が総毛立った。
その声が聞こえた瞬間、全部の毛穴が開き、反射的に腰の神剣を抜こうと右手が動き、そこには当然何も挿さっていないためにその手は空を切った。早鐘のように鳴り響く心臓を押さえながら、周囲を視る。
鋼の剣を携えて、始めて王国から魔族犇めく野に出たときの緊張を思い出す。四方のどちらから敵が来るかも分からない、緊張の中で苛まれる感覚に、嫌な脂汗が噴き出してくる。
三年、魔族と戦い続けた経験が俺に訴えかけてくる。
――神剣を失ったお前では、勝てない相手が近くにいる、と。
そして、神剣を失っても、超越者として比肩する者なしとされていた俺が勝てない相手など、魔族の中でも最上級に位置する存在だけだ。
……加えて言う。
そのプレッシャーを、俺は二度、経験していた。
初めて俺達の前に姿を表したとき、俺達の目の前で一つの大陸を消し飛ばした。その島に住む全生物は塵に消え、跡形もなく吹き飛び、世界地図が大きく書き換えられた。それが自分たちと敵対する魔族の王であると知ったとき、俺はその手から剣を取り落とし、恐怖でそれを拾い上げる事が出来なくなった。
俺にとって初めての挫折と諦念を抱かせた相手は、獅子が身中の虫を気にしないように、俺達に一瞥もくれずにその姿を闇に溶け込ませた。それにすら安堵をし、心から自分の無事を喜んだ俺は、その次の日から己が本当に勇者として相応しいのかという問いを自身に投げかける程、己の根底をグチャグチャに破壊された。あの状態から立ち直れたのは、アリシアをはじめとした支えてくれた仲間がいたからだろう。
二度目の遭遇は、俺が異世界に残してきた未練と共に、真新しく俺の記憶の中に焼き付いている。
四天王を全て斃し、現れた牙城を突き進み、その玉座で荘厳に待ち構えるその姿は、己の成長と相俟って灼熱のような覚悟や豪風のような怒りと共に呼び起こされる。玉座より立ち上がったその存在の強大さに、一歩も引くことをしなかった己の勇者としての資質と、それを信じてくれた仲間に、何よりの感謝を捧げた。
死闘は、四昼夜に及んだ。
双方、力も技も出し尽くし、体力も気力も魔力も使い果たし、そこに立つことの意味だけで背中を支えているような体で、ただひたすらに互いの命を奪い合った。
俺は世界を救いたくて。その背に全ての人の希望を背負い。
あいつは世界を滅ぼしたくて。その腹の全ての欲望を抱き。
同じ道を違う向きでひた走っていた二つの強欲が互いを喰らい合うようにぶつかり合い、俺の方が一瞬早く、あいつの胸に刃を突き立てたであろうその瞬間に――。
俺は気がつけばこちらの世界に呼び戻されていた。
そして、だからその可能性にも気づこうと思えば気づけたのだ。
俺という勇者がその瞬間、こちらの世界に召喚され、世界から勇者がいなくなったのだから。同じようにその瞬間い世界から消えた『その存在』が、『一体どこに消えたのだろうか』という疑問への答え。
――俺は、公園の中、僅かな灯りに浮かび上がるその影を見つけ、無駄だと知りながらシャーペンへと身を落とした神剣『セーナトゥーハ』を右手に構えた。
そいつは、まるで二度目に、成長した俺達を玉座で待ち構えていた時に似た形で。
公園に備え付けられている古びたベンチに腰掛け、足を組んで待ち構えていた。
「――久しぶりだな。勇者よ」
ベンチから立ち上がり、大仰に威厳たっぷりに言い放ち、両手を広げる。
口元に薄く笑みを浮かべ、頭の上には魔王の証であるとしての――魔王の表記がある。
「――魔王」
俺は威厳たっぷりに歩を進めてくるその幼女に向かって、歯を食いしばりながら神剣を構える。それがどの程度魔王に効果があるかは分からないが、あちらの世界では唯一魔王の恒常魔力を貫いてダメージを与え――。
……ん?
目を凝らす。
幼女がいる。
…………は?
「……魔王?」
疑問形で聞かざるを得ない。
目を凝らすと、確かにその頭の上にはクラスとして魔王の表記がある。ただ、あちらの世界でそれでこそ魔を統べる王として相応しい壮年男性の姿をしていたはずだが、その姿とは似ても似つかないどこにでもいる小学校低学年程度の体躯しか持たない少女の頭に……やはり、魔王の表記があった。
『……ふむ』
「……え。何、え?」
『どうやら、我と同じような状況であるらしいな』
いや。待て。
確かに神剣→シャーペンの変化には驚いたが、それ以上に魔王→幼女の変換は余りに酷すぎるだろう。俺は何度も目を凝らし、対象に識別魔法を掛け、幻術の可能性があるので治癒魔法を自身に掛け、それでも目の前でふんぞり返る少女の額に魔王の表記が消えずに、一度目の遭遇以上の衝撃を受けて膝から崩れそうになった。
魔王(幼)は片眉を上げて面白い物を見たような視線を送る。
「ほう……その気配、忌々しき神剣か。よもや文房具に身を落とすとは、堕ちたものだな!!」
「お前が言うか!! ハァ!? ふざけろ魔王!!」
思わずツッコミと共に怒号が出てしまった。
傍から見れば完全に幼女を恫喝する男子高校生であり、お巡りさんが見たら一発でお縄になるような状態だっただろう。
世間体なんか知るか。相手はどんな姿をしていても魔王だ。異世界で世界を苦しめ、勇者にとっての大敵である以上油断も何も出来たものじゃない。
「……世界を跨いでなお、相まみえるとは運命は余らのどちらかを、余程この世界より消し飛ばしたいのだろうな」
「ああ、多分な。あっちで着けられなかった決着をここで着けられることが出来るみたいで、嬉しくて仕方ねーよ」
「慌てるな勇者。貴様との長きに渡る因縁、このような場で断ち切るのは本意ではない。相応しき場所で決着を付けようではないか。それにここで争えば、貴様が守ろうとしたものをも、壊してしまうかもしれんだろう?」
言いながら周囲に向かって視線を向ける。公園の周囲には民家が立ち並び、そこには人が暮らしている灯りが灯っている。幼女になっても中身は憎き魔王のままであることの証左に思えた。
俺は剣を、もといシャーペンを胸に仕舞い、魔王を睨みつけながら怒気を収めるように大きく息を吸い、吐いた。
ハルカゼの言う危機の正体が、今理解出来た。
確かに、お前の言うことは正しかったよ。
こっちの世界に魔王が来ているのならば、それは充分にこちらの『世界の危機』になり得る。
疑って悪い。マイ・マスター。
――俺はどのみち、こっちの世界を救わなければあちらの世界を救うことは出来ないらしい。
「……随分と物分かりがいいな。あるいは、それが貴様の本性ということか?」
「お前に関係あるのかよ。それはあらゆる意味で『こっちの問題』なんだ。それと、冗談でもこちらの世界の住人に被害を及ぼすようであれば……それを尊い犠牲と思ってでも、お前を今すぐに滅ぼす。お前が望むのが、俺という勇者との決着であるなら、潔く俺だけを狙え」
「フン、陳腐な誘い文句だが、良かろう。どの道、貴様さえ滅ぼせばこちらの世界に於いては余を退けうる者は一人として居なくなる。先か後かの話であるなら、貴様を処理し終えてから飽くなき欲望を満たさせてもらおうか」
クククと凄んでみせるが、幼女の高い声なので全く迫力はない。
それが、俺の決意や意思を挫くために取っている形態だとするなら、これ以上ないくらいに効いているのだが、それにしても緊張感が削がれる。己の言動一つ一つが面白いことになっていることに気がついているのだろうか。
「再び邂逅せし時、貴様の命が尽きる時であることを、予言しておいてやろう……勇者よ」
幼女もとい魔王は丈が余りに余ったマントを翻し、静かに笑いながら闇に溶けていく。
「――その予言ごと、俺はお前を討ち滅ぼす」
暗闇に溶けていった魔王の姿を見送り、俺は怒気を静かに収めた。
不意打ちを捌き切った安堵と、久しぶりに感じる緊張感に嫌な汗が全身に吹き出ている。大きく深呼吸をすると、過度の緊張で少しだけ目眩を起こした。こちらの体の脆弱さは異世界に召喚される前のままであるから、異世界で高めた能力を使用しようとすると今のように体に負担が掛かるのだ。
ともあれ、敵の正体は分かった。
ハルカゼが言う、こちらの『世界の危機』の正体もまた理解出来た。
あちらの世界で着けられなかった決着を、俺の生まれた世界で着ける皮肉な筋書きに、俺は苛立ちを感じながら公園の中、静かに拳を握った。
『……我が主よ』
胸ポケットから、セーナが声を掛けてくる。
「ああ。分かってる。……あちらの世界でやり残した決着を、こちらの世界で着けてやらないとな」
『……? ……そうではなくてだな。……やはり主にはもう少し落ち着き立ち止まり、周囲に目を凝らす余裕が必要であるのかもしれんな』
「あ? 何のこと言ってるんだ?」
俺が神剣に疑問を投げかけると、呆れたような声でセーナは呟いた。
『――彼の魔の王。我の見間違いでなければ、レベルが1を指していたと思うが』
…………。
……え?