42話 ――俺達の見上げた夏の空に、確かに大きく浮かぶもの。
――空中で爆炎と紫電が爆ぜる。およそ10分にも及ぶ異世界の勇者と神剣使いによる高速の打ち合いは、アリシアに軍配が挙がる。
数日前俺と墨桐が剣を交えた公園で、今度はアリシアと墨桐が模擬戦を行っていた。俺とハルカゼはそれをブランコに座って、アイスを片手に眺めている。
喉元に突きつけられた擬似『紅蓮剣』に、墨桐は素直に自分の負けを認めた。
「……今度は、あたしがお見事って言わないといけないみたいね」
「こちらこそ、ご指導ありがとうございますと言いたいでありますよ」
くるんと刃を回してから、クァグラムを収めてアリシアは墨桐に一礼する。
墨桐も休憩を取るのか、魔力で杖状にしたフラットさんをヘアピンへと戻し、自分の前髪に差し込んだ。
ニヤニヤと笑いながら異世界の勇者は俺に向けて言葉を投げてくる。
「もしかしたら葛切先輩より、アリシア先輩の方が強いんじゃないの?」
「……もしかしたらな」
「そんなことないでありますよ。実戦となれば視野を広く取れるセト様の方が武力として優れているでありますよ」
まあ、個人の強弱なんて状況や体調で変化するからな。
世界で最強の剣技と実力を持った戦士が、今にも膀胱が破裂しそうなくらいトイレに行きたければ、非力な戦士でも勝つことが出来るのが実戦だ。逆を言えば、事前にトイレに行っておくことが出来ない状況を作り出す頭さえあれば非力な戦士でも勝つことが出来るし、漏らしながらでも戦う覚悟さえあれば地力がある方が勝つという話だ。
……含蓄ある話をしようとして、喩え話の選択を大きく間違った気はする。
要は個人同士の強さなんて、状況や状態が大きく影響を与えるものなのだから、そこばかりを競い合っても仕方がないということだ。俺としてはその戦力が、敵なのか味方なのかそれ以外なのかの方が気になる。
「それより、墨桐の負けだぞ。上下どっちから脱ぐんだよ」
「えっ!? あ、じゃあ下……えっ!? そういう対決だったの!?」
「わ、私も何本か取られたでありますが、何枚脱げばよろしいのでありますか!?」
……凄いな、勝敗関係なく俺だけが得するぞ、この展開。
俺が何も言わないと覚悟を決めたように墨桐がスカートのホックを外し、アリシアがシャツのボタンを外し始めたので、俺は静止がてら寸評を述べる。……こいつら芸人魂と忠誠心が悪い方向にしか作用してねえ。何無言の圧力に屈してんだよ。
「近接戦闘ではアリシアに分があるだろうけど、その状況をアリシアが作り出せるかと言えば難しいだろうからな。墨桐が魔術師系の勇者である以上、そこまでの接近を許した状態で、はい勝負とはならないだろうし。アリシアはそういう状況を、俺の指示なく作り出せることが出来るようになれば、きっと誰にも負けないだろう。……それが感想ってとこだな」
「はい、セト様がそう仰るのであれば、精進するでありますよ」
「あたしには、何か助言ないの? 先輩」
「何か共通の趣味を持った同年代の人間を探してみるといいんじゃないかな。根気よく」
「誰がトモダチ作りの助言しろって言ったの!? やめてよ!?」
こちらを指さして憤慨してくる墨桐だが、俺が見る限り立ち回りに何も助言を出来ることはなかった。
アリシアが決まった動きを反復練習で反射の領域にまで高めている努力型だとすれば、墨桐の動きはその場その場で一番適切な動きをする天才型だと言える。俺もどちらかというと前者寄りなので、正直にそれは羨ましいと思えた。
それも天性のものなのか、異世界で培ったものなのかは分からないが、墨桐は判断が他人より早い。身体能力で言えば身長も筋力もあるはずのアリシアの攻撃を巧みに捌き続けられるのは、その攻撃がどういう軌道を通るかを事前に予測し、相手より先に動いているからだ。
俺は素直に疑問に思ったことを尋ねる。
「墨桐、思考領域の拡充ってしてるのか?」
「思考領域? 何それ?」
「……聞き方を変えると、魔術を使うときに魔術の構成を頭で追うだろ? それって同時に色んなことを考えて構成編んでるか?」
「別に? ただ凄く色んなことを考えないといけないのは分かってるから、出来るだけ早くやろうとはしてるわね」
ハンパないな。思考領域を魔術で複数に増やしてるからこその詠唱速度かと思えば、並列じゃなくて直列でどうにかしてるのかよ。
普通は、魔術師は複数の思考の領域を魔術で作り、構成を編む時間を短縮するためにその複数の領域で別々の思考を行って魔術を放つものだ。シングルコアよりデュアルコア、デュアルコアよりクアッドコアの方が速度が出るのと同じだ。ただ、それを行わずに、単純な計算力の早さで墨桐は魔術を唱えているのだという。
頭の中身はそれほど良くないのかもしれないが、頭の回転がいいタイプの人間なのかもしれない。だから判断も早いし、ツッコミも早いのだ。ますます一番の適性ポジションは芸人だな、と思ってしまった。
ただ、今の手合わせを見ていても、相当な実力を持っていることが傍目にも分かる。
共に戦えば、それは更に浮き彫りになるだろうし、力のない人間にとってはそれが恐怖の対象に映ってもおかしくはないと思えた。
異世界での墨桐を、俺は知らない。
墨桐が説明する、墨桐の主観での話では、全てを詳らかにすることは出来ないだろう。
彼女の性格から言って、自分に向けられた悪意や善意というものには疎いだろうから、ストレートに尋ねたところで客観的な視点での感想は出てこないだろう。
実際同じ質問を自分にしたとしても、俺だって何の躊躇いもなくそんなことはないと言いたい。
――異世界で、脅威として自分を見る人はいなかったか、疎まれていなかったか、という質問には、そう返したくなる程の立派な棘が生えている。
俺はブランコで頬杖をついて墨桐とアリシアを見る。
ただ、いつまでも後回しにしていれば、もし本当に墨桐が元いた異世界から攻撃されていた場合、墨桐自身を物理的に傷つけることになる。何らか聞きようがあるように思えて踏み込みあぐねているが、やはり一度墨桐を相談相手としてこの件を語ってみなければならないのかもしれない。
大きく溜息を吐くと、墨桐はそんな俺の様子も関係なくこちらに向かって手を振る。
「……ちょっとあたしとアリシアちゃん、休憩するから飲み物買ってくるね?」
「セト様やハルカゼ殿も、何かご一緒にお飲みになられるでありますか?」
「あー、じゃあミルクティ二つ」
「わ、私は、いいで、えっ!? 二つ!?」
どうせ気を使って断ると思ったので、勝手に一個追加しておいた。
出来る従者と褒められていいくらいだ。
「了解ー、後でちゃんとお金払ってよね、先輩。なんなら奢ってくれてもいいよ?」
「……身体で払っていいか?」
「グラムいくらで売れるのよっ!!」
「そのツッコミはおかしいだろ! 何で食肉に加工されてんだよ!」
「そうじゃなかったらセクハラ発言でしょう今っ! 先輩が逮捕されないように気を使ったのよ!」
「私はセト様のお体でお支払いいただくのも吝かではないと思っているでありますが!」
ややこしいからちょっと黙ってろアリシア。
心配しなくても支払い関係なく手合わせくらいなら手伝うから興奮気味に乗り出してくるな。
「お前異世界の勇者が先輩にたかるなよ……」
「後輩が異世界の勇者にたかってるのよ。可愛い後輩を労いたい気持ちとかないのかしら、勇者様」
「……何だかんだで付き合いが長くなりそうな相手に、いちいち可愛いと思う度に奢ってたら財布の中身が持たないだろ」
俺が言うと、何故か墨桐はカチンっと硬直して微妙な笑みを浮かべて、アリシアと顔を見合わせる。
アリシアもアリシアで何故か小さく微笑みながら頷き、何かを分かり合うような視線を送り合う。何だこいつら……。
「わ、分かったわ。きょ、今日はあたしが奢ってあげる」
「セト様は、そういうところがお強くあられるでありますゆえ」
おい、何でだよ。
訳がわからないが奢ってもらえることになり、何故かを問いただす前に二人は駆け足で公園から出て行く。逃げるような早足だったので、さっきまで話していたのに一気に取り残された感が湧いてきて、俺は少しだけ傷ついた。
「……セトさん、その、分かって言ってます?」
「何が?」
「い、いえ……いいです。その、私の分まで気を使っていただいて、ありがとうございます」
「礼なら墨桐に言えよ。何か奢ってくれるらしいから」
そうは言うが後輩から奢られっぱなしというのもシャクなので、今度のファーストフードくらいは俺が金を出すべきかと思案する。折角の資料室メンバーでの外食だから、それくらいはしていいかもしれない。今日も勝手に用事があると帰っていった幼女だけは、注文してから奢りだと伝える必要はあるだろうが。
あの魔王のことだから、払えないこともないが払うには抵抗のあるギリギリの値段の注文とかをしてくるに決まっている。メガの上の単位がギガで、ギガの上の単位がテラであるのだなとか言ってくるに決まってる!
「……あの、セトさん」
「ん? どうした?」
「その、ニカさんのこと、気にしてくれてるんですね。多分、それで悩んでらっしゃるんでしょうし……」
「……言われた手前な。それとは別件で『世界の危機』に関わるような案件も出てきたから、もしかしたらそれも関係してるんじゃないかと思って、ちょっと墨桐には聞きたいことがあるんだ」
「せ、『世界の危機』、ですか……?」
「……まあ、簡単に言えば、あいつのぼっちで世界がヤバい」
あくまで可能性の一つではあるけれど。
まだ今回の『投石』の正体がわからないので、本当に墨桐のぼっちが世界を滅ぼすかどうかは判断しかねているのが現状だ。
「そういえば、ハルカゼ……『世界の危機』ってまだ大丈夫なのか?」
「あ、えっと、はい……そう、ですね。今のところ、何も感知しては、ないです」
「……ああ、じゃあもしかしたら、やっぱり墨桐が石を投げられてるのってそういうことなのかもしれないな……」
俺は人知れず落ち込む。
同じ勇者であること以上に、墨桐の人間性に今まで結構触れてきたので、ああいう脳天気なやつが他人に良いように使われて、結果バカを見るのは余り面白いこととは思えなかった。純粋な善意だけではないとは思うが、世界を救われておいて石を投げられていい道理はこちらの世界にもない。
「……ハルカゼも、俺のことが最初は怖かったって言ってたもんな」
「……え、えっと……はい……そうですね……」
「それって、俺が居世界の勇者だったからか? 召喚して隷従させていても、安心できない脅威だったからか……?」
「そう、なのかもしれません……。ただ、それ以前に私は……あまり、男の人が得意じゃなかった、っていうのも、ありますけど……」
そんなことを言えば俺だって女子得意じゃないがな。クラスの一部の女子に、反射的に颶風剣を構えないといけないくらいのプレッシャーを感じるときがあるしな。
ただまあ、ハルカゼが今は俺に一定の信頼を置いてくれているのを知っていても、そう言われるのは少しだけ凹む。
力を持たない者が力を持つ者に対して抱く恐怖というのは、持つ者がいかに徒手空であろうが、牙をむき出しにしていなかろうが、関係なく怖いものなのだろう。
「墨桐のことを、同じように怖いと思うか……?」
「……い、いえ、それは、思わないです。私には、今はセトさんがいますし……それに、勇者が、凄い力を持ってる人たちが、怖い人ばかりでないと、セトさんが教えてくれましたから……」
「そうか。……それは、墨桐にとっては嬉しいことかもな」
「……ニカさんは、セトさんと同じように、悪い人じゃないでしょうから」
それも、同意が出来る。
墨桐ニカは少なくとも、他人に嫌われるような人間ではない。
ただ他人より優れた力を異世界で手に入れてしまい、たまたま世界を救って勇者になってしまっただけの、いいやつなんだ。
……墨桐と出会ってからの日が浅い俺でも分かることを、何故墨桐が召喚された異世界の住人は理解出来ないのだろう。一目見れば、一度話せば、あいつが他人に害を及ぼすことなんか考えつかない、ただの面白いやつだということはすぐ分かるのに。……そういう人間的な評価を飛び越える程に、力を持つ者への恐怖というのは大きいのだろうか。
俺は、小さく頭を振る。
――ダメだ。
……魔王には納得出来ると言われたが、俺はどうしてもその説に納得がいかない。
墨桐ニカが嫌われている姿を、想像出来ない。その事実を、根底を覆してでも承服しきれない。
何か別の理由が見つかれば、すぐにでもそちらに乗り換えてしまいたくなるくらいには。
墨桐ニカは、良い奴だ。少なくとも、憎むに値しない、憎めない奴であると、俺もハルカゼも思っている。
明るく、朗らかで、冗談へ反応が良く、打てば響くあの性格をした人間を……人は簡単に嫌いになれるとはどうしても思えない。
……もし、それが真実と違ったとしても、仲間を信じて裏切られたなら、それでもいいかと思えた。
まずは墨桐のことを信じ、その上で対策を考える方が精神衛生上いいし、何より俺のやり方であったことを思い出す。
俺は気合を入れ直す意味で、ブランコで俯いたまま大きく息を吸って、吐いた。
「……ハルカゼ」
「は、はい」
「どう考えても、妙なことで悩んでいた俺が悪いことに気付いた。最初から、信じるべきは俺が見た墨桐ニカなはずだったのに、パズルのピースが上手くハマるのを楽しんでたのか、楽な方楽な方に思考が流れていたことに、気付いた。……こんな俺に罰を与えてくれ」
「ば、罰、ですか……!?」
「そうだ、俺を褒めてくれ、ハルカゼ」
「褒める!? の、罵るではなくてです!?」
罵るのはいつもやってるだろう。だから俺を褒めてくれハルカゼ。
心にもない褒め言葉で俺を調子に乗らせ、他人を信じることを忘れていた俺の罪深さを教えてくれ。
「そ、その……セトさんは、頼りに、なります、し」
そうだ、俺は頼りにされるほど他人を信じれなかった。その言葉の刃が心に突き刺さる。
顔が真っ赤だが愚かな俺に与える罰と割りきって、言い放て、マイ・マスター。
「わ、私の相談に乗ってくれますし、その、世界を救う力を持ってて、勇者で、決めるときは決めてくれるし……ちゃんとしてるときは凄く格好良くて……えっと、ときどき変なことを言うけど、根は真面目で、とても、いい人で……その、まだ……続けていいんですか……?」
涙目になるハルカゼに大仰に頷く。
なんだろう、趣旨と目的が最初からズレている感覚がある。俺公園で何をやらせてんだ。
「そ、その、ぶっきらぼうに見えて、実は優しくて、包容力もあって、居ると、安心させてくれてっ、今の資料室があるのは、そ、その! セトさんのお陰だって思ってて、男性として、とても、み、魅力的だと思いますし、もしこういう人がこ、こここ、恋人とか、旦那さんだったら、きっとそのお相手や、奥さんは、とっても幸せなんだろうなって、思って、できれば、子供は二人くらい欲しくて、暖炉のあるお家で、孫達に囲まれて、幸せな生涯を送って――」
「ちょ、待て待て!? 妄想が一周して往生まで行ってるから!! 悪い、悪かった!! 慣れないことさせた俺が全面的に悪かったから戻ってきてくれ、ハルカゼ!!」
「こ、このシャーペンはね、も、もう居ないけどセトさんが残してく――はっ……!?」
俺その妄想の中では死んでる!?
……まあ女性のほうが生命力強いし寿命も長いことは、何故か俺は知ってるけど。何故か。
ハルカゼは我に返ったというか夢から覚めたというか、焦点の合わない目で限界まで真っ赤になり頭から煙を吹くのをやめて、俺の目を見てくる。
「……た、たくさんの孫達は……?」
「すまん、ハルカゼ。夢オチだ。ある意味そこは異世界だったんだよ」
「が、がーんですね……はいぱーショックです……あ、あと何の話をしていたんでしたっけ……」
「いや、なんだ、忘れてくれ。悪い夢だったんだと思う」
俺が言うと、ハルカゼは首を傾げて、とてもいい夢だったはずなんですけど……と寂しそうに呟いた。
「……何やってんの、昼間の公園で」
「ハルカゼ殿、お顔が真っ赤でありますが、大丈夫でありますか?」
いつの間に帰ってきていたのか、墨桐とアリシアがブランコの側までペットボトルを抱えて帰ってきていた。
呆れたような視線を送ってくる墨桐の両手にはミルクティが二本抱えられている。
「ご苦労、墨桐。実はハルカゼは紅茶を飲まないと死ぬ病なんだ。良かったな間に合って」
「えっ!? 大変だねハルハル。でもあたしがミルクティを買ってきたからもう安心だね」
言いながら墨桐はミルクティを片方ハルカゼに渡す。
ツッコミに慣れていないのか、紅茶を飲まないと死ぬ病患者としてハルカゼはそれを受け取る。せめて否定するとかしないとお前紅茶が原因で死ぬぞ。
「先輩にも、はい」
「追加料金払うからクーデレで頼む」
「ふむ、あたしはどうやら言われるままにミルクティを買ってくるくらいには、先輩のことが好きらしい。……あの、これ結構疲れるから頻繁に振らないでくれる、先輩」
「お前の中に振られてもやらないという選択肢はないのかよ」
追加料金ということで俺とアリシアの分の金を握らせると、それを返してくるような無粋はしてこなかった。
もし男が後輩女子から奢られるわけにはいかないという面子を理解しているなら大したもんだ。褒美としてではないが、今度のファーストフードくらいはやはり奢ってやろうと思う。
「熱中症とか気をつけようね、ハルハル。水分補給はこまめに」
「あ、えっと、大丈夫、だよ……べ、別に暑くて赤いわけじゃ……」
「先輩に何かされたんでしょう。それは分かるわ」
「人聞き悪いなお前は。ただ単に俺を褒めることを強要しただけだ」
「人が聞かなくても悪いわっ!」
何故そんなことをさせたのかはもう思い出せないが、どうしてもそうせざるを得なかった理由があったはずだ。
仕方のないことは、この世にたくさんあるものだから。
墨桐の言う通り、季節はすっかり夏へと変わっている。
日差しがジリジリと俺達の肌を焼き、周囲にはカゲロウすら見える。七月の頭でこれだけ暑いのだから、八月に入ってしまうとどうなるのだろうと今から不安になる。
「太陽元気だねー」
「そう、だね……」
後輩二人は日差しに手を翳して空を見上げる。
この暑さで元気なのは太陽だけだということには同意出来る。
「……せめて休憩中は、日が当たらないところに行くか」
空を仰ぎながら俺がそう提案すると、ハルカゼがブランコから立ち上がり、その拍子にペットボトルを落とした。
本気で熱中症に掛かってるんじゃないだろうなと思い、拾いながら見上げると、ハルカゼは空を仰いだまま硬直している。
信じられないものを見たような目で、高位魔術師は空を眺めていた。
……空?
俺は釣られるように、ハルカゼの見ている方向の空を見た。
ハルカゼの視線の先、太陽がある方向とは真逆の空に。
――巨大な、『隕石』があった。
「………」
「………」
絶句する。
俺も、ハルカゼも、同じものを見ながら、何も口に出せずにただそれを見つめていた。
『それ』は、肉眼でも確認できる程に大きく。
最初から空に存在していたかのような顔で、ただ空にぽっかりと浮かんでいた。
それが『隕石』であると分かったのは、幾つもの魔法陣を経由しながらこちらへと向かってきていることが理解出来たからで。
……俺は、それこそが、今回の『世界の危機』だと、一瞬で理解が出来た。
『投石』なんかではない。
ぶち当たれば、この星ごと消滅しかねないその『隕石』は。
……墨桐ニカのいるこの星に向けて、真っ直ぐに向かってきていた。
「……嘘だろ」
「……せ、セト、さん。あれ、は」
「……いや、多分、多分だが、まだ大丈夫だ。まだこちらの世界に『召喚』されていない。あそこに見えてるのは虚像みたいなもんだ。能力値だけこちらの召喚されてきた『影』みたいなもんだ。……幾つもの魔法陣を経由して、こちらに送り込まれてる最中だ。具体的な速度までは分からないが、今すぐに対処するよりは、対策を立てて臨んだ方がいい」
混乱する自分を諌めるために、ハルカゼへと大丈夫の言葉を繰り返す。
対策?
何に対してだ?
落下してくる、余りに巨大な隕石を、どうにかするためのか?
誰が? ……俺が、か?
俺は自分が乾いた笑いを零していることに、遅まきながら気付いた。
――案外、そのような小さき悩みの答えは、俯いて足元を探すより空でも眺めて考えた方がいいのやもしれんな。
あの野郎。
あンの幼女、一足先にあの隕石に気付いていたんだな……!
だから空を見上げて笑った後、あんな発言を……ああ、クソ!! そんなことを考えてる場合じゃない、あれが何かを分析して、対策を練らないと。
俺が頭を掻きながら視線を横に向けると、アリシアと墨桐もその『隕石』に気がついたのか、空を眺めたまま硬直している。
墨桐は乾き切った喉を押し開くように小さく呟く。
「な、何で」
その言葉は。
俺が想定している言葉とは、少しだけ違った。
いや、少しだけどころか……全く意味合いの違う言葉だったと言ってもいい。
異世界の勇者、墨桐ニカは確かに呟いた。
「何であたし――あれを、『知ってる』んだろう」
その言葉を残して、墨桐は糸が切れたマリオネットのように膝を折り、その場で崩れ落ちる。
過剰なストレスで電源が落ちたかのようなその動きに、俺は墨桐の身体をギリギリのところで受け止めた。
意識を失い、ぐったりとした異世界の勇者を抱えたまま。
――俺は、今回の『世界の危機』の大きさを再度睨みつけた。
まるで自らの大きさを理解しているかのような、その『隕石』は――ただ静かに空にあり、ゆっくりとこちらへと近づいてきている。
――虚像だけを魔力を有した者の目だけに映し。
誰にも気づかれないように、世界に終わりを齎すために。




