18話 俺が勇者でない理由、彼女が勇者である理由。
「元より……余は散々貴様に伝えていただろう。魔王は、この仮初めの姿のように『写身や眷属を自ら作り出す力』を持っていることを。そうであるならば、あの『影』を送り込んで来ている者は、同じ『影』で作られた『影の魔王』であることも、推測出来たのではないか? それが、余の力そのものが分離して出来た『影の魔王』の目論見であるなら、余はそれを止めようとは思わなかっただけのことだ」
倒れ伏した俺に、魔王は追撃のように呟く。
後方では、紫電の召喚から這い出てきた『影の魔王』が、魔王本来の雄々しき姿でこちらの世界に降臨していた。
それこそが『こちらの世界の危機』であり、俺が、勇者が本当に相対すべき相手であることを、戦闘継続が不可能なまでの深手を負ってから気付かされた。
腹部から流れでた出血が、身体の前面を濡らし、呼吸が酷く苦しくなってくる。
貫通傷を塞ごうと魔力を紡ぐが、痛みで集中できない。中途半端に編まれた魔術の構成が空中に霧散して何の意味もなさないまま虚空へと消えていく。
「失望したぞ、勇者よ。貴様は、異世界で何を見てきた。余に剣を向け、余の前に立ち塞がり、終には余を討ち滅ぼすところまで行っていながら、何故魔王というものを理解しようとしなかった。余が敵ではないから、味方に回ったとでも思ったか? 懇切丁寧に、全てを詳らかに貴様に説明するとでも考えていたのか? 優しき魔王が、愚かしき勇者のためにか? ――戯けが」
ぐうの音も出ない。平和ボケをして、自分が何かを、敵対する相手が何かを疎かにしていた、俺の落ち度だ。
余りにも俺は気を抜きすぎた。こちらの生活が余りにも平和すぎて、その平和によって俺の中の『勇者』が少しずつその身を削られていることに、気が付かなかった。その気になれば、世界の一つや二つ救えると慢心し、初心を忘れ、己の肥大した能力に酔いしれていた。
無様が過ぎる。
結果としてこちらの世界が滅ぶなら、俺は勇者どころか人間ですら失格だ。
他人に説教している場合か。己の本分を、余りにも忘れていたとしか言い様がない。
超越者だろうが、勇者だろうが、そんな気持ちで救える世界なんて、どこにもないのに。
「己の力だけで、世界を救える気になっているのなら――貴様が齎した世界の危機に、貴様が守ろうとしたもの全てを破壊される様を見ながら、緩やかに死んで行け」
魔王は、心底下らないものに吐き捨てるように言い、顎で『影の魔王』の方を指す。
――そこに、ハルカゼが立っていた。
盾になっているつもりか、何の意味もないのに両手を大きく広げ、震える膝で、懸命にそこに立っていた。
世界の誰もが恐れ、最初に遭遇したとき勇者である俺ですら一歩も動けなかった相手に、高位魔術師とはいえただの女子高生と何も変わらない桜倉ハルカゼが。
――俺を庇うようにして、『影の魔王』に立ち塞がっていた。
俺は、口内に上がってきた吐血を撒き散らしながら、大声で叫ぶ。
「逃げろッ!! ハルカゼぇっ!!」
その言葉は余りにも的外れで、勇者である俺が今一歩も動けないのだから、この世界に『影の魔王』に対抗出来る者は誰一人おらず……それを招いた俺は、何も出来ずにただ叫んでいるだけだ。
拳を叩きつけながら立ち上がろうとして、膝から力が抜ける。
自分の腹から出た血の海に再び倒れこみ、びしゃりと体が濡れた。
本来守るべき弱き者の背に守られた俺は、立ち上がることすら出来ずに再び血を吐く。
腹の痛みは既に頭痛を引き起こすまでになっており、血を一気に失ったことで視界が暗く明滅しているのを感じた。
意識を途切れさせないように食いしばった口の中は、既に血の味しかしない。
動け。
動け動け動け。
頼むから動きやがれよ俺の身体ァッ!!
勇者だろうが、超越者だろうが、神剣使いで、世界の希望で、ハルカゼに召喚された従者《サーヴァント》だろうがッ!!
世界の命運を握って、弱き者の代わりに剣となり、世界を覆う暗雲から救う希望なんだろうがッ!!
地面を掻きむしる程の悔しさで気が狂いそうになる。
そんな俺に向けて、背中を向けたままハルカゼが消えそうな声で呟く。
「に、逃げれ、ないです……せ、セトさん、ごめんなさい……」
「馬鹿野郎ッ!! 無駄死にになるだけだッ!!」
「それでもッ……!! 私は逃げたくありませんッ……!!」
何でだ。
何でそこまで出来る。
この世界で、何の危機も訪れない世界で生きてきたハルカゼが、何故そこまで体を張れる。
異世界で勇者として召喚され、人にはない力を与えられ、ずっと特別扱いをされ、それでようやく俺が得た強さを、何で何の力もないお前が持ってるんだ。
俺だったら、絶対にそんなことは出来ない。
ただ毎日、この世界が嫌で嫌で、異世界に逃げようとしていただけの卑怯な俺では、絶対にそんな行動は取れない。
こちらの世界に居た頃の葛切セトでは絶対にそんなこと出来ないのに。
死ぬほど怖いくせに。
膝すら笑うほどに、恐怖を感じているくせに。
抗う力なんて、何もないくせに。
なんでお前は、そんなこと出来るんだよッ!!
「――だって、セトさんだって、最初は怖かったはずですよね」
ハルカゼは、目の前に立つ者の恐怖に怯え、涙を零しながら言う。
相対しているだけでその恐怖に竦む魔王の『影』を前に、無理やり言葉を紡ぐ。どもることもなく、しっかりと伝えないといけない覚悟を携えて。
「誰も知り合いのいない世界で、勝手に勇者だって祭り上げられて……最初は何の力もないのに、自分が成功する確証もないのに……怖くなかったわけないじゃないですか……。誰だって最初から勇者なわけはないですから……異世界でのレベリングは、皆等しくレベル1から始めるんでしょう……!?」
ハルカゼは悲鳴のような大声で、俺に向けて言葉を放つ。
それは魂の叫びであり、自分がその場に留まるための必死の掛け声であり、誰よりも自分の後ろで倒れ伏す従者への激励だった。
「それでも、セトさんは勇者になったんです。世界の全ての人の希望を背負って、沢山の苦労をして、人より多く苦しんで……その積み重ねてきた全てが、セトさんをレベル255の勇者にしたんです……!! 異世界に召喚されたとか、されていないとかじゃない……そうやって頑張れた人がいつだって、世界を救うんですよ!!」
『影の魔王』が、心底詰まらないものを見る目で、静かにその片手を上げる。
その手のひらから、俺の腹部を貫いた刃が生え、音もなくそれは構えられた。
振り下ろせば、死ぬ。
桜倉ハルカゼに、それを止める力はない。
そして、その背に守られた葛切セトは、それを守ることも出来ない。
ハルカゼは逃げない。
まっすぐ『影の魔王』の前に立ち塞がったまま、大きく叫んだ。
「――だったら、私だって、怖くても立ち向かわないと――」
それは、捨て身でも、自暴自棄でもなく。
心から自分の行動を誇りに思う者だけが口にできる、最後の言葉だった。
「――私が憧れた、私が召喚した『勇者』は、そういう人だったから!!」
――剣が、振り下ろされる。
――『颶風剣』が。
それを、受け止めていた。
何度も。
何度も何度も、こういう状況を経験してきた。
助けられたこともあった。
助けられなかったこともあった。
今回は、偶然、俺の身体がまだ動いた、ただそれだけの幸運だった。
背後にハルカゼを押しのけながら、血に塗れた身体で『影の魔王』と向かい合う。
喉に詰まった血痰を吐きながら、俺は霞む視界で、『影の魔王』を睨んだ。
「……勝てぬと分かっていて、無様に立ち上がるか、勇者よ」
後方から、幼女の姿をした魔王が、小さく呟いた。
『影の魔王』も、その死にぞこないの勇者を見て、詰まらないものを見るような目で見てくる。
「……その身体では、絶対に余は倒せぬ。苦しみの中で死にゆくとは、貴様は愚者であるな」
「そう、だよ……認める」
喀血し、膝を突きそうになる。
背後でその身体をハルカゼが支え、なんとか俺は持ちこたえる。本当に、無様としか言い様がない。
「俺は、こっちの世界じゃ、ただのクズだった。……毎日、毎日……同じ日々を、繰り返し、げほっ……何のために、生きてるかも、分からなかった……」
「……今は、違うとでも?」
「違わない。……俺は今でも、同じ、だよ。ただ少しだけ、力を得て……調子に、乗ってた、だけだ」
唾競りにもなっていない一方的な剣による相手側の押し込みは『影の魔王』によって大きく腕を払われたことで弾き飛ばされる。
背後に守っていたはずのハルカゼごと弾き飛ばされて、俺は無様にも地面を転がった。口内を砂と血の味が満たす。
そう。
俺は何も変わってない。
この世界で、俺はただの葛切セトだ。
自分が守ろうと思った者すら満足に守れず、力に溺れた、何も変わりない負け組のままだ。
何になれたつもりだったんだろう。
どんなつもりで、世界を救うなんてほざいていたのだろう。
最初から、認めるべきだったんだ。
俺は、ただの無力な、一人の人間であると。
『影の魔王』が一歩一歩、こちらに向けて歩を進めてくる。
俺にトドメを刺すために。
世界を終わらせるために。
そんな俺の頭を掻き抱き、ハルカゼが俺の顔に涙を零した。
その頬に血まみれの手のひらを添えて、俺は自分の召喚主に、小さく謝った。
「――俺は、世界は救えないよ」
ハルカゼは、俺の頬を、涙だらけの顔を、微笑みながら撫でた。
下から見上げたときに見える、いつもは前髪で隠れているハルカゼの顔が。
……まるで全てを許す、母親のようだと思ってしまった。
「……はい」
ハルカゼは、ただ小さくそう言葉を返し、何かを覚悟したように、瞳を閉じた。
俺は。
その頬を撫でながら。
――そこに滞留した『魔力を利用しつつ』。
――思い切り、『踵を地面に叩きつけた』。
「――『一人じゃ』な」
俺は嗤い、叩きつけた踵から全力で魔力を励起した。
それによって、俺が『予め地面に描いておいた』魔法陣が起動する。
――使えるかもしれない。後で見に行ってこよう。
俺はあのとき思った。だから、その時に『それを地面に描くことが出来た』。
――垂れ流している物を利用せん手はあるまい。
魔王は言った。だから、魔力が枯渇した俺は、『ハルカゼの魔力を使うことにした』。
――高位魔術師の私が、使えたんですから、セトさんも、頑張れば覚えられる、かもしれない、くらいの術です。
ハルカゼは言った。だから、俺はそれを『ハルカゼの魔力を使えば、唱えられると思った』。
――この魂は勇者様と共に、であります。
……あいつは言った。
一人で世界を救えない、出来損ないの勇者に、あいつは確かにそう言ってくれた。
だから俺は――『そいつを召喚することにしたんだ』。
もし、そいつの『影』が手に負えなかったときの保険として、ここに設置していた魔法陣で。
『勇者の召喚の仕方』によって。
――『影の魔王』の背後で、莫大な量の魔力が膨れ上がる。
そいつは、紅に光り輝く、熱を帯びた空間で擬似的に作られた『大剣』を構え、膝をしっかりと前に出し、スタンスは広めに取り、小指から順番に両手でしっかりと握った得物を、次の動作を考えながら体重を移動させ、一切の慢心も、緩慢な動きもなく、三年間の研鑽のすべてを載せた――。
――俺が何一つ助言を必要としない完璧な太刀筋で。
「――『紅蓮剣』ッッ!!!!」
一切の無駄な破壊なく、魔王の心臓を、彼女が持つ魔王を唯一倒せるとされている四神剣の一本である、神剣『クァグラム』で貫き――。
その『世界の危機』の身体を、塵一つ残さず、この世から消し燃やした。
全てが決着し、静寂が訪れた。
魔王は嘆息し、詰まらない茶番を見させられたという表情でそこにいた。
神剣は、持ち主の未熟さに何も言わず、ただ手に握られているだけだ。
高位魔術師は、その圧倒的な姿を見て、何も言えず呆然としていた。
……そして、勇者である俺はただ、無様にその様を眺めているだけだった。
情けないことに、自分が守ろうとした者の膝に抱かれながら。
そんな情けない勇者にも、そいつは満面の笑みで応えてくれた。
自分がこちらの世界を救ったこともさしたることではないように、あちらの世界に居たときの『いつも通り』。
それが、俺がそいつを――アリシア・ファイルカスタムをパーティに入れた、最大の理由でもあった。
――けして、胸が大きいからでは、ないのだ。




