母と姉と弟
ゴミだらけの家を見て藤は何を思っただろうか。
常軌を逸した母の様子で既に閉口していたが、姉貴と対峙した藤は覚醒したかのような強さを見せた。
それは、普段見せない強さ、隠れた強さ、藤の芯の、真なる、心の強さ。
俺はどうだ、結局いつも通り、中途半端に刃向かって、すぐに負けた。
藤に弱いところを見せてしまった、もう恥ずかしくて泣きたい。
「あら伊津男、どうしたの? 嫌なことでもあった?」
母さんが心配そうに声をかけてきた。
でも、今の母さんが俺の言葉をどれだけ聞き入れるか、俺には判断できない。
だからこそ俺は母さんに何でも話せる気がする。
壁に向かって言うように、醤油に向かって言うように、独り言のように、俺はぶつけた。
「俺ってさ、どうしてこんなに情けないんだろ。なんでもかんでもすぐに逃げて、自分の欲望のままになっちゃうだめ人間なんだよ……」
人は理性があり、野生や本能に従わないから人間であると俺は思う。
なら、何度も何度も恐怖に従う俺は、非力な小動物に過ぎない。すぐに負けて、折れて、誰かに頼って、今もこうして怯え竦んでいる。
それが人間と言えるのか?
「それは別にだめなことではないのよ?」
母さんが肩を叩いた。
「逃げちゃだめなんて言わないし、したいことをしたらだめなんて誰も言わないわ。本当にだめなのは全部諦めてしまうこと。逃げても次の機会がある、したいことをしていても、しなきゃいけないことを考えている。それならそれでいいの。まだその時じゃないのよ」
「うん……」
「あなたはよくやっている。わたしがそう思うくらいだから大丈夫よ。……でもせめて、心配はかけないでね?」
「母さん……?」
母は偉大ということなのかもしれない。俺は、俺は今まで何を見ていたんだろう。
姉貴が戻ってきてマシになったのか、本当は母さんは最初からこういうことを言えるくらい病状はマシだったのか。
わからないけど、わからないことばかりだけれど、それでも俺は今、不思議な幸福感を味わっている。
もう少し、母さんとちゃんと向き合っておけばよかった。
けれどその反面、まだ俺は母さんにいやな感情を持っている。
あなたがそんなに甘いから、姉貴はああなって、父さんは愛人のところに逃げて。
なにより、あなたはそうしてコワレテしまったのではないか。
自分には厳しいくせして、父さんにも姉貴にも優しく、俺に至っては、今みたいに、自分がコワレテいるのに優しくしてくれた。
なのにどうして自分にはそんな風に優しくできないのか。
できないなら、俺が教えてやる。それか俺が母さんに優しくする。
上の階からガタガタと音が聞こえた。
「母さん、俺はもう逃げない。ちゃんと向き合うよ、全部と。そして、絶対に負けない」
姉貴とも、母さんにも、向き合いたい。
「そう……」
それ以上母さんは何も言わなかった。
俺は再び階段を昇った。
部屋では、藤は眼鏡が外れていて、姉貴は仰向けに倒れていた。
「なにがあったの?」
四つの瞳が同時にこちらを向いた。
「見てわかんないかなぁ? キャットファイトだよ」
姉貴はまたへらへらと言う。対して藤はそんな姉貴を鋭く睨んだ。
「一体何があったのかを聞いてるんだ。二人揃ったらいきなりキャットファイトとか始めるの? 女子プロレスラーでもそんなことしないって」
「ごめんなさい。私がカッとなっちゃって……」
藤が謝る。それを諌めたのは姉貴だった。
「うんにゃ、私が意地悪しちゃったから。なんて言わなくてもわかるよね? 芳乃ちゃんが好きな伊津男くんは」
姉貴はきししと笑った。
「うん、俺は藤が好きだ。」
自分で確かめるように、姉貴に知らせるように、藤に告白する。
「クラスで一人の藤を見て気になっている男子は結構いた。俺もそうだった。藤に話しかけられる前から、色々逃げてた俺は、何も言わない静かで理想的な藤に憧れていたんだ。でも今は、藤の汚い部分も知った。藤の隠してた苦しい部分も、全部じゃないだろうけど、たくさん知った。それでも、それでも俺は藤が好きだ。もっと好きになった。藤のことばっかり考えてるんだ。だから藤、俺と、俺と付き合ってくれ!」
俺は言った、言ってやった、言い切ってやった。
藤はどんな顔だろうか、姉貴はどんな顔だろうか、そう思って見ると、完全に呆けていた。
やがて姉貴が口笛を吹いた。
「やるねぇ芳乃ちゃん。ちょっと妬けるな。いやちょっとどころじゃないけど。嫉妬の炎に身を焼かれるレベル」
そうは言うものの、姉貴は結構平然としていて、にやにや笑っていた。
藤は、藤はどんな反応を。
「いやあ、アツいね」
茫然と、言った。
「どうして他人事なんですか!?」
「ちょっと実感湧かなくて……」
藤家で俺の告白を聞いているのに、なんて罪深い人なんだろうか。
たぶん照れてるんだ。そう思う。だ、だよね?
「それで姉貴」
「なんだい?」
「俺はいつまでも子供じゃないし、守られる存在でも怯える存在でもない。今は、今はまだ、そうかもしれないけど、いつかは絶対に姉貴より強くなる。だから……なんだってこともないけど……えっと……」
姉貴は呵呵大笑した。
そしてにやりと笑った。
「そうだね。伊津男は優しくてしっかりしてるから。仕方ないね。でも、少し寂しいかも」
そう言うと姉貴はよっこらせ、と言って立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとした。
「姉貴? どこに行くんだ? まだ話は……」
姉貴はにたりと、下卑た笑みを浮かべた。
「なーに、久しぶりに馬鹿の光の顔でも拝みに行こうかとね」
姉貴を見送るのと藤を送るので、三人一緒に藤家へ向かうこととした。
「なんかこうして歩いていると、ハーレムの主人公って感じがしないかい?」
姉貴はそういうが、全くそんな感じがしない。それは何故かと言うと、二人が横並びで、その一歩分後ろを俺が歩いているから。
完全にハブですね、本当にありがとうございました。これは毒で死ぬレベル。まあこの方が慣れてるし、並んで歩くと色々緊張するからいいんだけど。
姉貴はにやにや、藤は少し心配そうにこっちを見た。
「あんまり気にすんなって」
二人に対してそう言った。姉貴は余計ににんまりと、藤は少し気まずそうに前を向きなおした。
なんか居辛いな……。今でこそ二人が昔馴染みだったってわかるけど、冷静に考えれば俺にとって二人は憧れの人と忌避すべき人、どっちにしても対面しづらい。前門の虎に後門の狼というか、左の変態と右の変態、選べってんなら余裕で右の藤さんですけどね。
二人はなんかいやらしい会話をこんこんと続けている。何があったの? 俺がいない間に何を話してたの? もしこんな猥談しててキャットファイトとかに発展したってんならもう本気で怒る。激おこぷんぷん丸である。
でもまぁ、知り合いが仲良いってのは悪いもんじゃない。少なくとも俺はそう思う。
今の俺なら、そして今の姉貴なら、俺は受け入れることができる気がする。
藤と触れ合うことで、姉貴ももっとまともになってくれればと思う。
二人はこっちをちらちら見てくるけど、結局何をすることもなく、藤の家に着いた。
ば、場所は覚えたぜ、へへ……。両親共働き、後はあの光がいつ予備校に行くかさえわかれば……ぐひひ。ま、何もしませんけど。
いやほんとほんと、絶対きっとたぶんおそらくもしかしたら何もしない。
姉貴はチャイムも鳴らさず藤も俺もおいて勝手に中に入っていった。
随分ぶしつけな行動だけど、たぶん何度か来たことがあるんだろ。だから手馴れてる。
残された俺は、藤に聞いた。
「なあ、俺がいない間に、姉貴と何を話してたんだ?」
姉貴は見るも恐ろしい屑なのに、それなのにあの姉貴があんなに穏やかな、全ての憑き物が落ちたような清々しさを持っていた。
保護監察官でも矯正できなかった姉貴を藤が矯正したに違いないのだ。
藤は横顔だけ見せた。
「女の子の秘密を探るなんて、駄目だよ?」
そして、姉貴の後を追った。
普段は顔をすっかり緩ませて、教育上よくない話ばかりするのに、ふとした瞬間に真面目な姿を見せてくれる。
そんな瞬間に、俺は藤に惚れてよかったと思う。なんでだろうなぁ。
でもいいことだ、正しい白を藤は持っている。それは俺も、姉貴も感化するほど強烈な白。
俺は心も体も藤に付いていくよ。
「あれ、飯野くん帰らないの?」
「で、ですよねー……」
もう九時過ぎだからね! 早く帰らないと怒られちゃう!
でも、泣きたくなるのは何故でしょう? 正直本当に帰るべきじゃん、なに自然と入ろうとしたんだろ? 俺ってチャラ男って奴なの?
「それじゃ、姉貴には気をつけて」
「うん、ありがとね」
夜の闇の中でも、藤の笑顔は映えていた。
嫌な気分はすっかり取り払われて、俺はその笑顔を思い出しながら上気分で帰った。




