第八話:百工の長、蘇我の学舎(まなびや)
――西暦六〇五年(推古十三年)春。
筑紫の防衛戦から半年。飛鳥の都は、かつてない活気に包まれていた。
私が提案し、蘇我の財力で実現した「亡命者の積極受け入れ」が、ついに実を結び始めたのだ。
「大江、こっちだ! 大陸の職人たちが、お前の言っていた『新しい窯』を完成させたぞ!」
入鹿の元気な声が、飛鳥の一角に新設された「蘇我工房区」に響く。
そこには、筑紫で救った大陸の亡命者たちが、恩義に報いるべくその技術を惜しみなく披露していた。
「……これは見事だ。これなら、鉄の純度をさらに上げられる」
私が覗き込んだのは、現代の「高炉」の概念を一部取り入れた新型の製鉄炉だ。
これまでの日本の製鉄よりも高い温度を維持できる。これにより、農具の耐久性は飛躍的に向上し、同時に「入鹿のための新型装備」の量産も可能になる。
「大江様、あなたが図面に描いた『理』、最初は理解できませんでしたが……実際に作ってみて驚きました。あなたは、隋の宮廷建築家でも知らぬ術を心得ておられる」
私に頭を下げるのは、亡命者たちのリーダー格である工匠・李だ。彼は大陸で弾圧された高度な技術者集団の長だった。
「李殿、驚くのはまだ早い。この鉄を使って、次は『水車』を量産し、飛鳥中の田畑に水を送る。人が汗を流す時間を、知識を蓄える時間に変える。それが私の狙いだ」
周囲の職人たちから、感嘆の吐息が漏れる。
私にとって、この時代への転生は「孤独な戦い」だった。だが、こうして現代の知識を形にしてくれる仲間が増えるたび、運命の歯車を動かしているという実感が湧いてくる。
その日の午後、私は斑鳩宮へと向かった。
厩戸皇子(聖徳太子)との定例の合議だ。
「……大江よ。蘇我の領地で、何やら奇妙な学舎を作っているそうだな」
皇子は、机の上に広げられた「十七条の憲法」の草案から目を上げ、いたずらっぽく笑った。
「はい。身分に関わらず、才ある者に読み書きと算術、そして大陸の技術を教える場です。名付けて『飛鳥学院』。これからの国を支えるのは、家柄ではなく、知恵を持つ者たちですから」
「ふむ……家柄を否定するか。馬子(祖父)が聞けば、眉をひそめそうな話だがな」
「祖父には、これが『蘇我一族をさらに強固にするための先行投資だ』と説明してあります。事実、ここから育った者たちは、まず蘇我の事業を助けることになりますから」
皇子は感心したように頷き、一通の封書を私に差し出した。
「だが、お前のその『進みすぎた動き』が、ついに大きな敵を呼び寄せたようだぞ。……高句麗から、使者が届いた」
高句麗。
当時、大陸の北部に君臨していた強国だ。隋の侵攻を幾度も退けた軍事大国が、わざわざこの島国の「一介の神童」に興味を示したというのか。
「使者の名は僧・曇徴。紙や墨、そして絵具の製法を伝えるために来日したとされるが……表向きの理由はそれだけではないだろう」
曇徴。歴史の教科書にも載る高名な僧だ。
だが、皇子の瞳には警戒の色があった。
「高句麗は、筑紫でお前が使った『雷の術(火薬)』と『巨石の咆哮(投石機)』を、自国の軍事力に取り込みたいと考えている。……大江、お前はどう応える?」
私は静かに微笑んだ。
「……技術は、奪い合うものではなく、交換するものです。皇子、私に曇徴殿との会談をお任せください。高句麗の軍事力ではなく、彼らが持つ『文化と記録の力』を、この国の礎として引き出してみせます」
「交換、か。お前らしいな。……では、その会談に入鹿も同行させよ。あやつも、最近は剣の腕だけでなく、お前の影響で『交渉』の面白さに目覚めたようだからな」
数日後。蘇我の邸宅。
高句麗の使者・曇徴を招いた宴の席。
「……大江殿。あなたの噂は、海を越えて届いております。ですが、この高句麗の僧の目には、あなたはあまりに危うい光を放っているように見える」
曇徴は、穏やかな微笑みの裏に、鋭い観察眼を隠していた。
「危うい、ですか?」
「左様。あなたの知恵は、この時代に生きる人々の歩みを、百歩も千歩も早めようとしている。それは、神々が定めた時間の流れを乱すことにはなりませぬか?」
刺さるような問い。中臣御食子が言った言葉と、本質は同じだ。
だが、私は堂々と答えた。
「曇徴殿。夜の闇に灯火を灯すのは、神への冒涜でしょうか? いいえ、それは人が生きようとする意志です。私はただ、この国の人々が、より明るい灯火の下で未来を描けるようにしたいだけなのです」
その言葉を聞いた瞬間、曇徴の瞳から険しさが消えた。
「……なるほど。ならば、私の持つ『記録の術』をあなたに授けましょう。紙と墨。これがあれば、あなたの知恵は一族の秘事ではなく、万民の財産となる」
この日、日本における「記録革命」が始まった。
紙の量産体制が整えば、情報の伝達速度はさらに上がり、官僚制度は強固になる。
宴の終わり、入鹿が私の耳元で囁いた。
「大江。あのお坊さん、お前のことを見て『この少年が、東方の歴史を全て書き換えるかもしれん』って呟いてたぞ。……へへ、嬉しいじゃないか。俺たちのこと、世界が注目し始めてる」
入鹿は誇らしげに笑った。
だが、私は知っていた。注目されるということは、同時に「嫉妬」と「謀略」の渦に飲み込まれることでもある。
西暦六〇五年、秋。
飛鳥に、初めての「学校」と「工場」が誕生した。
歴史の教科書には載らない蘇我氏の黄金時代。
しかし、その繁栄の影で、中臣鎌足となる少年は、父・御食子と共に、蘇我を討つための「別の理」を求めて、大陸への密航を企てていた。




