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第七話:巨石の咆哮、神童の初陣

――西暦六〇四年(推古十二年)晩秋。

 九州・筑紫の海は、夕闇に溶け込むような深い紺青に染まっていた。

 だが、その水平線を塗りつぶすように現れたのは、百余りもの船影。それは大陸の動乱を逃れてきた難民船だけではない。その周囲を囲むように、舳先に鋭い衝角を備えた快速船――武装した海賊、そして新羅の非正規軍が、獲物を狩る狼のように迫っていた。

「……来たな。歴史の予定表にはない、招かれざる客だ」

 私は崖の上に設けた指揮所に立ち、現代の工学知識で自作した遠眼鏡(望遠鏡)を覗き込んだ。

 レンズは、大陸から届いた水晶を蘇我の職人に命じて数ヶ月かけて磨かせたものだ。視界の先には、略奪に目を血走らせる兵たちの顔がはっきりと映っていた。

「大江、合図を! 兵たちは皆、喉を鳴らして待っているぞ!」

 入鹿が叫ぶ。八歳の彼は、蘇我の家紋が刻まれた小振りの鎧を纏い、崖下に陣取る五百の精鋭を見事に統率していた。

 彼らが手にしているのは、私が改良を命じた「長柄の槍」と、同じく現代の製鉄知識を一部導入して強度を上げた「新型の太刀」だ。

「……まだだ。敵が海流の溜まり場に入り、操船が鈍る瞬間を待つ」

 私は冷静に海図と時計(水時計の改良版)を照らし合わせた。

 敵船団は、我々の要塞を「ただの土塁」と侮っている。この時代、陸からの攻撃手段は弓矢に限られていた。射程距離に入らなければ安全――。

 その油断こそが、彼らの墓穴となる。

「……今だ。投石機カタパルト第一班から第三班、放てっ!」

 私の号令と共に、崖上に据え付けられた巨大な木組みの腕が、力強く跳ね上がった。

 ――ゴォォォォォンッ!!

 空気を切り裂く重低音が響き、数十貫(百キロ超)の巨石が、美しい放物線を描いて夜空を舞う。

 敵船団の中から、悲鳴が上がる間もなかった。

 ドゴォォォォォンッ!

 狙い違わず、先頭を走る武装船の甲板に巨石が直撃した。

 当時の木造船にとって、上空から降り注ぐ質量兵器は悪夢以外の何物でもない。船体は一瞬で真っ二つに叩き割られ、凄まじい水柱と共に、略奪者たちは海へと投げ出された。

「な、なんだ!? 天から岩が降ってきたぞ!?」

「神の怒りか!? 退け! 退くんだ!」

 海上の混乱は凄まじかった。

 後続の船が急旋回しようとして、難民船に激突する。そこへ、第二波、第三波の巨石が容赦なく降り注ぐ。

「……入鹿。ここからはお前の出番だ。上陸を許すな、だが『難民』は救え」

「承知した! 全軍、突撃ッ! 海に沈んだ者は救い上げ、剣を持つ者は一人残らず討ち取れ!」

 入鹿が崖を駆け下りる。その姿は、もはや子供のそれではない。

 混乱に乗じて浜辺に辿り着こうとする残党に対し、入鹿率いる蘇我軍は、私が教えた「密集陣形」で立ち向かった。

 個人の武勇に頼る当時の戦い方に対し、槍を揃えて一糸乱れぬ動きで圧し掛かる集団戦法。暗殺者さえ圧倒した入鹿の剣が、月光の下で鮮血を吸って煌めく。

 戦いは、一刻(二時間)もかからずに決着した。

 海を埋め尽くしていた略奪船の過半数は沈没し、残りは命からがら沖へと逃げ去った。

 翌朝。筑紫の浜辺には、救い上げられた数百人の亡命者たちが震えながら座っていた。

 その中には、大陸の進んだ技術を持つ工匠や、法典に詳しい学者も含まれていた。

「大江、勝ったな……。本当に、一人の戦死者も出さずに追い払えるなんて」

 入鹿が鎧を脱ぎ捨て、荒い息をつきながら歩み寄ってきた。その顔は返り血で汚れていたが、達成感に満ち溢れている。

「……ああ。だが、本当の勝利はここからだ、入鹿」

 私は震える手で、浜辺に座る亡命者の一人を指差した。

「彼らを蘇我の領地に受け入れ、厚遇する。彼らが持つ『知恵』こそが、これからの蘇我を、そしてこの国を支える本当の力になるんだ」

 この戦いの報は、すぐさま伝書鳩によって斑鳩の厩戸皇子に届けられた。

 そして――飛鳥の都で事態を注視していた、ある一族の元にも。

 数日後。飛鳥・中臣氏の邸宅。

 中臣御食子みけこは、届けられた報告書を握りつぶしていた。

「……投石機だと? 空から岩を降らせる術だと? 蘇我の神童、もはや人間業ではないな」

 彼の背後には、まだ幼い少年が座っていた。のちに中臣鎌足となるその少年は、父の怒りを静かに見つめながら、一言だけ呟いた。

「父上……。神の秩序を語るだけでは、あの蘇我には勝てませぬ。我らも、あの男の持つ『理』を学ばねば」

 御食子は息子を振り返り、忌々しげに吐き捨てた。

「分かっている。大江……。貴様がこの国の形を変えるというのなら、我らはその形を粉々に砕くための刃を研ぐまでだ」

 筑紫の勝利は、大江の名を不動のものにした。

 だが、この成功が、皮肉にも「蘇我一強」を加速させ、歴史の強制力が生む「反発」を強めていく。

 私は斑鳩に戻る船の中で、水平線を見つめていた。

 西暦六〇四年。推古朝の黄金時代が幕を開けようとしていた。

 だが、私の脳裏には、数十年後に訪れるはずの「乙巳の変」の惨劇が、消えない火種のように燻り続けていた。

「大江。次は何をする? どこへ行こうと、私はお前の隣にいるぞ」

 入鹿のその言葉だけが、今の私の唯一の救いだった。

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