第六話:白村江への警鐘、防人(さきもり)の先駆
――西暦六〇四年(推古十二年)秋。
飛鳥の都は、歴史的な転換点に揺れていた。
国内では厩戸皇子(聖徳太子)の手により「十七条の憲法」が公布され、官僚制度の礎が築かれつつあった。しかし、その輝かしい成果を台無しにするような激震が、大陸から届いたのである。
「隋の皇帝、楊広が崩御……か」
私は、斑鳩宮の一角で、皇子が広げた書状を凝視していた。
史実において、隋という巨大帝国は二代皇帝・煬帝(楊広)の死後、急速に瓦解し、唐の建国へと至る。だが、その過渡期こそが最も危うい。大陸の均衡が崩れれば、その余波は必ず朝鮮半島を伝い、この「日出づる国」へと押し寄せる。
「大江、お前は以前からこうなることを予見していたな」
皇子が、疲れの色の濃い瞳で私を見据える。
「新羅と百済は、隋という重しが外れた途端、我が国が権益を持つ任那の地を完全に飲み込もうと動き出した。これにどう対処すべきと思う」
私は地図を指差した。
史実の日本(倭国)は、この後、百済を助けるために兵を送り、数十年後には「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に大敗を喫することになる。その敗北こそが、蘇我氏を滅亡へ追いやる遠因の一つにもなるのだ。
「……救援の兵を送ってはなりませぬ。少なくとも、今のままでは」
私の言葉に、傍らで控えていた入鹿が驚いたように身を乗り出した。
「なぜだ、大江! 蘇我の武名を示す好機ではないか。一族の中には、戦功を求めて鼻息を荒くしている者も多いぞ」
「入鹿、戦は勝つためにやるものだ。今の飛鳥の兵力は、各氏族がバラバラに率いる私兵の集まりに過ぎない。連携も取れず、補給の概念もないまま海を渡れば、敵の餌食になるだけだ」
私は皇子に向き直り、現代の「国家防衛」の概念を突きつけた。
「今、なすべきは『外征』ではなく『内防』にございます。そして、それを蘇我の力だけで行うのではなく、『国』の事業として行うべきです」
「具体的には、どう動くつもりだ?」
「『防人』の制度を前倒しで創設します。それも、単なる農民の徴用ではありません。蘇我の財力と、私が筑紫で手に入れた豪族たちの協力を得て、九州沿岸に『不落の拠点』を築くのです」
皇子の眉が動く。
「不落の拠点……城を築くというのか」
「ただの城ではありません。大和の建築技術に、大陸の『水城』の概念、そして……私が設計した『新式の発石機』を備えた要塞です」
私は懐から、あらかじめ描き溜めていた図面を取り出した。
そこには、中世以降の城郭構造を取り入れた陣地と、物理学の原理を応用したカタパルト(投石機)の設計が記されていた。
「これがあれば、敵が上陸する前に船を沈めることが可能です。また、兵士たちには、私が開発した『保存食(干し肉や乾飯の改良版)』を支給し、長期の籠城に耐えうる体制を整えます」
「……相変わらず、お前の出す案は途方もないな」
皇子は呆れたように笑ったが、その瞳には希望の光が宿っていた。
「良かろう。大江、お前に『筑紫守備長官』の権限を与える。入鹿、お前は大江の護衛として、蘇我の精鋭五百を率いて再び筑紫へ飛べ」
「はっ! 必ずや、大江の知恵を形にしてみせます!」
入鹿が力強く拳を突き出した。
数週間後。私たちは再び筑紫の土を踏んでいた。
かつて私を暗殺しようとした刺客たちの背後にいた中臣(藤原)氏も、さすがに国を挙げた軍事プロジェクトには表立って手を出してこない。だが、監視の目は常に感じていた。
「おい、そこの石を積み上げろ! 高さが足りないぞ!」
入鹿の怒声が現場に響く。
八歳になった入鹿は、この数ヶ月でさらに逞しくなり、五百の兵たちを完璧に統率していた。彼は私の複雑な理論を「現場の言葉」に翻訳し、兵たちを動かす天才的な能力を発揮していた。
私はと言えば、海岸線にそびえ立つ断崖に、巨大な投石機の据え付けを指揮していた。
「大江様、本当にこんな木組みで、海上の船が沈められるのですか?」
かつて私に屈服した荒熊が、半信半疑で尋ねてくる。
「荒熊殿。力だけでは岩は飛びませんが、『理』を使えば岩は空を飛びます。見ていてください」
私は調整を終えたレバーを引いた。
ごぉんっ、という重厚な音と共に、数百キロの巨石が放物線を描いて空を舞う。石は一町(約百メートル)以上先の海面に叩きつけられ、凄まじい水柱を上げた。
「……これ、は……」
荒熊をはじめとする現地の兵たちが、絶句してへたり込む。
もはや魔法の類だ。彼らにとって、六歳の神童・大江は、畏怖すべき「軍神」の再来に映ったに違いない。
「これで、敵は容易に上陸できなくなります。ですが、真の狙いはこれではありません」
私は入鹿を呼び寄せ、誰もいない崖の上で語りかけた。
「入鹿。この要塞を蘇我が守ることで、天下の民は知るだろう。皇室を守っているのは、他でもない『蘇我の力』だということを。そして、この強固な防衛網があれば、無益な外征を叫ぶ連中を黙らせることができる」
「……大江。お前、そこまで考えていたのか」
「ああ。入鹿、お前をあの暗殺の運命から救うには、蘇我氏を『権力を独占する家』から『国を守るために欠かせない家』に変えなければならないんだ」
入鹿は黙って私の肩を抱いた。
その手の温かさが、私の孤独な戦いを支えてくれる。
だが、運命はさらに加速する。
その日の夕暮れ、水平線の彼方に、無数の帆影が見えた。
新羅の斥候船ではない。それは、大陸の混乱から逃れてきた「亡命者」の船団であり、同時に、彼らを追撃して略奪を目論む海賊船たちの群れだった。
「来るぞ、大江! 初陣だな!」
入鹿が剣を抜く。
西暦六〇四年、秋。
歴史には記されていない「筑紫の防衛戦」が、今、幕を開けようとしていた。
私の知識と、入鹿の武勇が、初めて本物の戦場で試されることになる。




