第四話:筑紫の雷鳴、情報の翼
――西暦六〇四年(推古十二年)。
歴史上では「十七条の憲法」が公布される記念すべき年。だが、六歳になった私と八歳の入鹿は、瀬戸内海を渡り、筑紫(九州)の地へと向かっていた。
飛鳥から九州・筑紫の地は、現代の感覚からすれば気の遠くなるほど遠い。
だが、七世紀の日本において、その距離こそが「反乱」の温床だった。中央の目が届かない場所で、地元の豪族たちが大陸の強国――新羅や唐の前身となる勢力と密通し、私腹を肥やす。
それが、この時代の「国境」の現実だった。
「……大江、本当にこれだけで、反乱を企てる連中が大人しくなるのか?」
瀬戸内海を渡る船の上。潮風に髪をなびかせながら、入鹿が不安げに尋ねてきた。
彼の前には、私が今回の遠征のために用意させた、いくつもの「奇妙な木箱」が積まれている。
「入鹿。人が刃を抜くのは、それが最も『得』だと思い込むからだ。なら、刃を振るうよりもずっと大きな得があることを示し、同時に『反乱は必ずバレる』という恐怖を植え付ければいい」
「得と、恐怖……」
入鹿は複雑そうな顔をしたが、すぐに身を乗り出して木箱の中身を指差した。
「でも、この『鳩』が、どうやってその恐怖になるんだ?」
そう。箱の中にいたのは、蘇我の邸で密かに飼育・訓練してきた数百羽の鳩――伝書鳩だった。
この時代、通信は「人」が運ぶものだ。早馬を飛ばしても筑紫から飛鳥まで数日はかかる。だが、空を飛ぶ彼らなら、最短一日で詳細な情報を運ぶことができる。
「情報の速度こそが、最大の武器なんだ。入鹿、お前にはこの『翼』の管理を任せるぞ。私の指示通り、各地に設けた中継地点で、これらを放つ準備をしてくれ」
「任せろ。お前の『魔法』を、筑紫の連中にも見せつけてやろうじゃないか」
入鹿は力強く頷いた。彼にとって、私はもはや単なる従兄弟ではなく、新しい世界を見せてくれる唯一無二の相棒になりつつあった。
筑紫の太宰に到着した私たちは、現地の豪族たちの冷ややかな視線に迎えられた。
その中心にいたのは、筑紫君の一族に近い有力者、肥後の猛将・荒熊だった。
「はっはっは! 飛鳥から神童が来ると聞いて期待しておれば、現れたのは鼻垂れ小僧二人か! 蘇我も馬子様が老いて、家が傾いたのではないか?」
宴の席で、荒熊が豪快に笑いながら酒を煽る。周囲の豪族たちも、追従するように嘲笑を浮かべた。
彼らの背後には、大陸から密輸されたであろう精巧な鉄器や絹が積まれている。それが彼らの自信の根源であり、中央への反逆心の源泉だ。
私は、静かに立ち上がった。
「荒熊殿。あなたが大陸の商人たちと密約を交わし、三日後に新羅の船をこの海岸に引き入れようとしていること……もちろん、存じておりますよ」
場が、凍りついた。
荒熊の笑みが消え、その手が腰の太刀へと伸びる。
「……貴様、何をデタラメを。証拠があるのか」
「証拠なら、今、飛鳥の厩戸皇子の元に届いている頃でしょう。私がこちらに到着した一刻後には、すでに情報は『空』を渡りましたから」
「空を渡るだと? ほざけ! 飛鳥までどれほどの距離があると思っている。人が走っても……」
「人ではありません。『翼』ですよ」
私は合図を送った。
すると、建物の外で入鹿が力強く口笛を吹く。バサバサという羽音と共に、一羽の鳩が荒熊の目の前の机に降り立った。その足には、小さな筒が結びつけられている。
「これは……」
「その鳩を放ったのは、ここから半日離れた港の監視役です。彼は新羅の船が水平線に見えた瞬間にこれを飛ばしました。荒熊殿、あなたが隠している地下の兵糧庫の場所も、協力している豪族の名も、すべて皇子の知るところです。今頃、飛鳥からは精鋭の軍が動いているでしょうね」
もちろん、軍が動いているというのはハッタリだ。だが、この「通信の速度」を目の当たりにした彼らにとって、それは否定しがたい恐怖として突き刺さる。
「馬鹿な……そんなことが……」
荒熊の顔から血の気が引いていく。
そこへ、私は追い打ちをかけるように、一束の書状を差し出した。
「ですが、皇子は慈悲深い。もしあなたが今ここで密約を破棄し、その大陸とのコネクションを『蘇我の貿易網』として提供するなら、過去の罪は問わず、今の三倍の富を約束すると仰っています」
「三倍、だと……?」
「はい。大陸の品を密輸するリスクを冒すより、蘇我の船団として堂々と商う方が儲かる。私が考案した『複式簿記』による管理と、この『伝書鳩』による相場の把握があれば、損をすることはありません。……荒熊殿、あなたは死にゆく逆賊になりたいのか。それとも、新時代の『貿易の覇者』になりたいのか。どちらですか?」
沈黙が流れた。
六歳の子供に命運を握られているという屈辱以上に、彼らの心には「未知の力(情報力)」への畏怖と、「圧倒的な利益」への欲望が渦巻いていた。
やがて、荒熊はガタガタと震える手で太刀を置き、その場に平伏した。
「……負けだ。蘇我の神童よ。貴殿の術には、神の加護があるのか。……我が命、貴殿に預けよう」
その日の夜。筑紫の海を見下ろす丘の上で、私は入鹿と並んで座っていた。
「凄かったな、大江。あんなに威張っていた連中が、鳩一羽で震え上がるとは。……でも、本当に飛鳥から軍は来ているのか?」
入鹿がニヤリと笑いながら聞いてくる。
「来るわけないだろう。兵を動かすのには金がかかる。戦わずに勝つのが一番安上がりなんだ」
「あはは! お前は本当に食えない奴だな」
入鹿は笑い転げたあと、ふと真面目な顔になって海を見つめた。
「大江……私、今日確信したよ。力で相手を屈服させるよりも、お前の言う『仕組み』で相手を包み込む方が、ずっと国が安定するんだって。……私、お前の創る未来を見てみたい。いや、一緒に創りたい」
入鹿の瞳には、かつての傲慢な光ではなく、高い志を抱く少年の純粋な輝きがあった。
(ああ。歴史は、確実に変わり始めている)
だが、安堵したのも束の間。
暗闇の中から、一筋の殺気が放たれた。
――ヒュッ!
「大江、危ない!」
入鹿が叫び、私を突き飛ばす。
私の頬をかすめて通り過ぎたのは、黒塗りの短い矢――吹き矢だった。
「何奴だ!」
入鹿が腰の短刀を抜き、闇を睨む。
森の奥から現れたのは、顔を布で覆った数人の影。
その中央に立つ男の目に見覚えがあった。斑鳩の書庫で出会った、中臣御食子の放っていた空気と同じ、冷徹な拒絶。
「蘇我の異端児よ。お前の知恵は、この国の理を乱しすぎる。……ここで消えてもらおう」
中臣の「実行部隊」が、ついに実力行使に出てきたのだ。
歴史の強制力が、私の命を奪いに来たのか。あるいは、藤原氏の祖たちが、自分たちの居場所を守るために動き出したのか。
「大江、私の後ろに隠れていろ! こいつらは、私が斬る!」
入鹿が、震える手で刀を構えた。
歴史改変の第一の山場。
六歳の私たちに、死の影が迫っていた。




