第四十二話:凱旋の足音、飛鳥の疑心
西暦六二五年(推古三十三年)、春。
雪解けの水が多賀の川を勢いよく流れる頃、私たちはついに帰還の途についた。陸奥に築いた星型要塞と製鉄所は、信頼できる現地の下役たちに託した。そこには、未完のまま冷えた蒸気機関の試作機も残されている。
「いつか必ず戻って、こいつを本当の『心臓』にしてやるからな」
入鹿は出発の際、工廠の鋼の扉を名残惜しそうに叩いていた。
難波の港に降り立つと、そこにはかつてない規模の歓迎の列ができていた。唐の皇帝を退け、新たな文明をもたらした「蘇我の双星」を一目見ようと、民衆は「大江様!」「入鹿様!」と地鳴りのような歓声を上げる。
だが、その熱狂の中を飛鳥へ向かう牛車の中で、鎌足は一度も笑わなかった。
「大江殿。この民の歓声こそが、飛鳥の主たちにとっては、どんな呪詛よりも恐ろしく聞こえているはずですぞ」
「分かっている。……馬子様、そして蝦夷様。お二人にとって、今の私は蘇我を支える柱ではなく、蘇我を飲み込む巨大な異物に見えているだろうな」
飛鳥の小墾田宮。
謁見の間には、蘇我馬子、そしてその子である蝦夷を中心に、名だたる豪族たちが勢揃いしていた。
「大江……。よくぞ唐の脅威を退けた。入鹿も、大儀であった」
上座に座る馬子の声は、以前よりも掠れ、重苦しい。その隣で、蝦夷は表情を消し、冷徹な視線を私に投げかけていた。
「大江。唐の皇帝と交わしたという和議の書面、拝見した。……だが、一つ聞きたい。なぜ『技術』を敵国に渡した? それは蘇我の、いや、この国の宝ではないのか」
蝦夷の問いに、私は一歩前に出て答えた。
「技術を独占すれば、それは新たな争いの火種となります。対等な交易と知識の共有こそが、百の軍に勝る防壁となるのです」
「……理屈だな」
蝦夷が低く呟く。
「お前が陸奥で勝手に『星の形をした城』を造り、皇帝と勝手に約束を交わした。その力が、今や朝廷を凌ごうとしている。……これは、蘇我の家督を継ぐ私に対する、公然たる挑戦と受け取ってよいのか?」
場の空気が凍りついた。入鹿が口を開こうとしたが、私は手で制した。
「蝦夷様。私は家督にも、朝廷の位にも興味はありません。私が望むのは、この国が古き因習に縛られず、外からの荒波を自らの足で越えられる強さを持つことだけです」
「……その『強さ』を、私たちが制御できないことが問題なのだ」
馬子がようやく口を開いた。その瞳には、かつて物部を滅ぼし、権力を手中に収めてきた老獪な政治家の影があった。
謁見が終わった後。私は、入鹿と共に蘇我の屋敷の庭に立っていた。
「……大江。父上(蝦夷)も、祖父上(馬子)も、あんなに怖がらなくてもいいのにな。俺たちはただ、この国を面白くしたいだけなのに」
入鹿が寂しげに笑う。彼の中には、多賀の戦いを通じて得た「民を守る誇り」がある。だが、それが皮肉にも、蘇我という巨大な家の中で彼を孤立させていた。
「入鹿。歴史は、強すぎる個を排除しようとする力が働く。……でも、俺が隣にいる。お前を『悪役』にはさせない。絶対にだ」
私は、飛鳥の夕闇を見つめた。
史実では、入鹿が実権を握り、増長したとされる時期が近づいている。だが、今の入鹿は科学を知り、謙虚さを知り、そして海の向こうにいる「好敵手」を知っている。
しかし、その夜。鎌足が私の部屋に忍び込み、一通の密書を差し出した。
「……動き始めましたな。蝦夷殿が、中大兄皇子と極秘に接触しております。標的は――蘇我大江。あなたを、蘇我の反逆者として排除するつもりのようです」
救おうとした歴史。だが、歴史の修正力は、私の想像以上に冷酷で狡猾だった。




