第四十一話:白銀の和議、去りゆく巨星
――西暦六二四年、八月。
熱を帯びた蒸気が潮風に流され、多賀の海岸には静寂と月明かりが戻っていた。ガラス化した砂が足元で硬質な音を立てる中、私は膝をつく皇帝・李世民の前まで歩み寄った。
周囲では、戦意を喪失した唐の兵士たちが武器を置き、入鹿率いる近衛軍によって整然と収容され始めている。入鹿は肩の傷を拭いながら、複雑な表情で私と皇帝を見つめていた。
「……殺せ。余を討ち、その首を長安へ送るがいい。そうすれば、倭国は一時の安寧を得よう。敗者に慈悲は無用だ」
李世民は、焦げた黄金の甲冑を纏ったまま、威厳を失わずに言い放った。
「いいえ、陛下。私はあなたを殺しに来たのではありません。……新しい『時代の形』を提案しに来たのです」
私は、あえて一歩下がり、対等な礼を尽くして言葉を継いだ。
「条件は三つ。一つ、唐と倭国は今後二十年、互いの主権を認め、不可侵の誓いを立てること。二つ、陸奥の黄金を『軍資金』ではなく『交易の種』として大陸へ流し、双方が豊かになるための対等な通商条約を結ぶこと。……これは敗北の対価ではありません。共に歩むための『出資』です」
李世民は目を開き、射抜くような視線を私に向けた。
「……余に、倭国の金で国を潤せというのか。敗軍の将に、対等な交易の席を用意すると?」
「陛下。あなたが最も恐れているのは、私がもたらす『理(科学)』が大陸の脅威になることでしょう。ならば、三つ目の条件です。……私が持つ技術のうち、農耕、医療、土木に関する知恵を、唐へ正式に供与します」
背後に控えていた鎌足が、泥にまみれながらも一巻の書物を差し出した。そこには、私が書き溜めていた灌漑設備の設計図や、防疫の心得が記されている。
「これを『奪ったもの』としてではなく、『平和の証』として持ち帰ってください。民が飢えず、病に倒れぬ国になれば、陛下も海を越えてまで他国の土を欲しがる必要はなくなるはずだ」
李世民は、折れた直刀を杖にしてゆっくりと立ち上がった。その瞳には、敗北の悔しさを超えた「未知の地平」への好奇心が宿っていた。
「……はは、大江よ。貴様は余を力で屈服させるのではなく、豊かさという鎖で繋ぎ止めようというのか。敵国を隣人へ変える……。それは余の知るどの帝王学にもない、最も困難で最も高潔な計略だな」
皇帝は不敵に笑うと、私が差し出した書物を力強く受け取った。
「よかろう。その賭け、余が引き受けた。二十年だ。二十年の後、長安と飛鳥、どちらの民がより笑っているか……見極めてやろうぞ」
数日後。
損傷を修復した唐の船団が、多賀の港からゆっくりと離れていった。
入鹿は、城壁の上からそれを見送りながら、私に尋ねた。
「大江……。本当に良かったのか? 李世民に知恵を教えるなんて、あいつらがもっと強くなっちまう可能性だってあるだろ」
「ああ。でも、知識は隠してもいつか漏れる。それなら、こちらから贈ることで『恩』と『依存』を作る方が賢明だ。それに……」
私は、入鹿の逞しくなった肩を叩いた。
「お前を、乙巳の変……あんな悲劇で死なせないためには、この国を外の敵と戦わせるのではなく、世界の中心として認めさせる必要があるんだ」
西暦六二四年、秋。
対唐戦争は、かつてない「平和な終結」を迎えた。だが、鎌足が影の中から現れて告げた。
「大江殿。皇帝を退けたという噂は、すでに飛鳥へ届いております。……蘇我の本家は、あなたの『皇帝と対等に渡り合う力』を、もはや無視できぬ脅威として見ておりましょうな」
真の戦場は、陸奥の荒海から、権謀術数渦巻く飛鳥の都へと移ろうとしていた。




