第四十話:咆哮する鋼、理(ことわり)の極致
砂煙の向こう側、李世民が再び刀を構える。背後には、死地を潜り抜けてなお戦意を失わぬ唐の精鋭たちが、黒い壁のように立ち塞がっていた。
対する私たちは、入鹿率いる満身創痍の近衛軍数十名。数も、武力も、圧倒的に足りない。
「大江、さっき言ってた『本来の使い方』ってのは何だ? まさかあの動かない鉄塊を敵に投げつけるわけじゃねえだろ?」
入鹿が冗談めかして、血の混じった唾を吐く。
「……投げるより、もっと性質が悪い。入鹿、お前は李世民をこの『排気管』の正面に誘い込め。三、二、一の合図で、全力で飛び退けよ!」
私は要塞の壁から突き出した、太い鋳鉄製の筒の横に陣取った。それは地下の工廠から繋がる、蒸気機関の非常用排気弁だ。
「……よかろう! 命、預けたぜ!」
入鹿が砂を蹴り、李世民に向かって真っ向から突っ込んでいく。
「皇帝陛下! 逃げ隠れするのはお互い無しにしようぜ!」
「望むところだ、蘇我の若武者よ!」
李世民の刃が、入鹿の首筋を薄皮一枚でかすめる。二人の天才的な剣戟が、月の光の下で火花を散らす。入鹿は押されているふりをしながら、じりじりと、しかし確実に私の方へと李世民を誘導していく。
一方、私は地下の職人たちに、伝声筒を通じて叫んでいた。
「今だ! 安全弁を全開にしろ! 圧力を一気に逃がすんだ!」
「しかし大江様、そんなことをすればシリンダーが破裂して、工廠が――!」
「構わん! 都市が、国が滅びるよりは安い! やれッ!」
地下から、地響きのような唸りが聞こえてきた。
蒸気機関は、動力を生むには精度が足りなかった。だが、その巨大な「圧力」を溜め込み、一気に噴出させる「砲」としては、これ以上ない怪物だったのだ。
「――入鹿、三、二、一! 伏せろォッ!!」
私がレバーを引き抜いた瞬間。
ゴォォォォォォォォォォッ!!
多賀の城壁から、凄まじい轟音と共に「白銀の龍」が飛び出した。
それは、数千度の熱を帯びた、超高圧の飽和蒸気だ。ただの煙ではない。鋼を歪ませ、肉を瞬時に剥ぎ取る、目に見えない死の息吹。
「な、なんだ……これは……!」
李世民の瞳に、白く輝く壁が迫る。
彼は本能的に刀を盾にしたが、理(科学)の暴力はそれを易々と飲み込んだ。
凄まじい熱波が、砂浜を、唐の精鋭たちを一瞬で包み込む。
叫び声さえ聞こえない。ただ、蒸気が大気を震わせる咆哮だけが、真夜中の多賀に響き渡った。
数分後。
霧が晴れるように蒸気が薄れていく中、そこには信じがたい光景が広がっていた。
砂浜は熱でガラス化し、唐の兵士たちは戦意を完全に喪失して膝をついていた。
そして中心には、焦げた黄金の甲冑を纏いながらも、奇跡的に立ち続けている李世民の姿があった。彼の自慢の直刀は、熱で無残に曲がっている。
「……は、はは……。蒸気、だと……? 湯気の力で、余の軍を……」
李世民は、震える手で折れた刀を捨てた。その瞳にあった「征服者の色」は消え、代わりに見たこともない「未知への敬畏」が宿っていた。
「皇帝陛下。……これが、私がこの国で守りたかった『理』の姿です」
私は火槍を肩にかけ、砂浜へ降り立った。
西暦六二四年、八月。
多賀の激戦は、ついに決着の時を迎えようとしていた。
だが、この勝利の代償は、私と入鹿、そして鎌足の三人に、新たな、そして最も過酷な「未来の選択」を突きつけることになる。




