第三話:中臣の影、異端の才
斑鳩での成功から数ヶ月。季節は巡り、西暦六〇三年の秋を迎えていた。
私と入鹿は、厩戸皇子の書庫で大陸の最新の法典を読み解く日々を送っていたが、そこで予期せぬ人物と出会う。
斑鳩での用水路工事の成功は、単なる「土木作業の完了」以上の意味を持っていた。
六歳の童が、熟練の職人ですら匙を投げた難工事を、奇妙な道具と理で成し遂げた。その噂は尾鰭をつけて飛鳥の都を駆け巡り、やがて「蘇我の神童には、未来を見通す眼がある」という半ば宗教的な熱狂さえ帯び始めた。
だが、注目を浴びるということは、同時に標的になるということでもある。
数日後。私は厩戸皇子(聖徳太子)の書庫で、大陸から届いた法典の整理を行っていた。
隣では、入鹿が慣れない筆を握り、私が考案した「算盤」の理論を必死に紙に書き写している。
「……大江。この『ゼロ』という考え方、やはりどうしても腑に落ちぬ。何もないものを、なぜ数として扱うのだ?」
入鹿が筆を止め、眉間に皺を寄せる。
「入鹿、それは『器』のようなものだ。空の器があるからこそ、そこに物が入り、桁が上がる。何もないことを定義しなければ、大きな数は数えられないんだ」
「器、か。……ふむ、お前の説明はいつも奇妙だが、妙に納得させられる」
入鹿はそう言って再び筆を動かし始めた。その横顔には、かつての傲慢な気配はなく、未知の知識を吸収しようとする若々しい輝きがある。
私はその様子に満足しながら、書庫の隅に置かれた一本の木簡に手を伸ばした。
その時だった。
「――お熱心なことだ。蘇我の御曹司が二人揃って、文字遊びとは」
低く、どこか冷ややかな声が書庫に響いた。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
年齢は二十代半ば。官位はそれほど高くないはずだが、纏う空気には人を寄せ付けない鋭利なものがある。
「……どなたですか」
私が問うと、男は薄く笑った。その瞳には、私に向けられた強い好奇心と、それを上回るほどの「拒絶」が宿っている。
「中臣の家を継ぐ者――中臣可多能祜が子、御食子だ。……もっとも、私よりも私の幼い息子の方が、お前たちには関わりがあるかもしれぬがな」
中臣御食子。
その名を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
彼は、のちに「大化の改新」の主導者となる中臣鎌足(藤原鎌足)の父親だ。
「神事を司る中臣様が、このような実学の場に何の御用でしょうか」
私の一歩踏み込んだ問いに、御食子の目が細まる。
「神童殿。貴殿の成した用水路の件、見事であった。だが、理で人を動かし、数で国を縛るやり方……それは、古き神々の声を軽んじることに繋がる。あまりに過ぎた才は、自らの首を絞めることになると忠告しておこう」
「神々の声を聞くことと、民の腹を満たすために水を通すこと。それは相反するものではないはずです」
私が静かに反論すると、御食子はふっと表情を消した。
「……面白い。その若さで、これほど淀みなく言い返すか。やはり、お前という存在はこの国にとって『劇薬』だ。我が息子、鎌子(のちの鎌足)にも、お前のことは語って聞かせねばなるまいな」
男はそれだけ言い残し、音もなく書庫を去っていった。
残された入鹿が、不安げに私の顔を覗き込む。
「大江……あいつは一体何なんだ? 気味の悪い奴だ」
「……ただのライバルだよ、入鹿。私たちが創ろうとする未来を、最も恐れている人々の一人だ」
私は震える指先を隠すように、拳を握りしめた。
中臣(藤原)氏。彼らは歴史上、蘇我氏を排除することで千年の栄華を築き上げた。その因縁の歯車が、本来よりもずっと早く、私という「異物」の出現によって回り始めてしまった。
その日の夕暮れ。私は厩戸皇子に呼び出された。
皇子は斑鳩宮の回廊に立ち、沈みゆく陽光を眺めていた。
「大江よ。中臣と会ったそうだな」
「はい。神事の家系に、随分と警戒されてしまったようです」
「奴らは変化を嫌う。だが、変化なくしてこの国が隋の大帝国と対等に渡り合うことはできぬ。……そこでだ。大江、お前に新たな『課題』を出す。これは用水路よりもずっと困難で、血の匂いがする仕事だ」
皇子は振り返り、一枚の極秘の文を私に手渡した。
「今、九州の筑紫の地において、豪族たちが大陸の勢力と結びつき、大和に反旗を翻そうとする動きがある。軍を動かせば、内乱となり、国力は疲弊する。……お前なら、武器を使わずにこれを鎮められるか?」
私は文の内容を読み進め、絶句した。
それは、歴史上の「磐井の乱」のような大規模な反乱の前兆だった。しかも、現代知識を使おうにも、相手は対話を拒む武装集団だ。
だが、私はすぐに思考を切り替えた。コンサルタントとして培った「兵站」と「情報戦」の概念。
「……皇子。武力を使わぬとは言いません。ですが、『戦わずして勝つ』ための準備なら、私の知恵で可能です」
「戦わずして勝つ、か。孫子の兵法にもある言葉だが……具体的にはどうする」
「まず、彼らが反乱を企てる『理由』を奪います。彼らが大陸と結ぶのは、富が欲しいからです。ならば、大和と交易する方が圧倒的に儲かるという現実を突きつければいい。そして……」
私は回廊の床に、指で九州の地図を描いた。
「『情報の速度』で圧倒します。のろし(狼煙)に代わる、より確実で詳細な情報を一晩で京まで届ける『伝馬制度』の刷新。これを一族の財力で強行します」
皇子の瞳に、鋭い光が宿る。
「蘇我の財で、国の通信網を造り変えるというのか。それは馬子も承知の上か?」
「祖父には私が話します。これは蘇我氏が『国を守る楯』であることを天下に示す好機です。皇子、私に三ヶ月の時間をください。筑紫の豪族たちを、刃を交えることなく、経済の鎖で繋いでみせます」
六歳の少年の口から出た言葉とは思えぬ、冷徹な戦略。
皇子はしばらく私を見つめていたが、やがて満足げに笑い、私の頭を乱暴に撫でた。
「行け、大江。蘇我の双星よ。お前たちの光が、この飛鳥の闇をどこまで照らすか、見届けさせてもらう」
斑鳩の風が、私の着物の袖を揺らす。
入鹿を守るため。蘇我を滅ぼさないため。
私の戦いは、ついに「内政」から「国防・外交」という、より巨大な舞台へと移ろうとしていた。
その背後で、幼い入鹿が「大江、私も行くぞ! 私にしかできないことがあるはずだ!」と叫びながら駆け寄ってくる。
歴史の強制力か、それとも私の意志か。
運命の歯車は、加速しながら回り続けていた。




