第三十八話:浜辺の咆哮、泥塗れの皇帝
――西暦六二四年、八月。
燃え落ちる『大唐威鳳』の残光に照らされ、多賀の砂浜は地獄のような色彩に染まっていた。海から這い上がってきたのは、重い鎧を脱ぎ捨て、短剣と執念だけを携えた唐の精鋭たち。その先頭には、濡れた髪を振り乱し、黄金の装飾が施された直刀を抜く男――李世民がいた。
「大江……! どこだ! 貴様の創り上げたこの『理』の城、余がこの手で切り裂いてくれる!」
皇帝自らの咆哮が、波音をかき消して響き渡る。その姿に呼応するように、多賀の城壁の陰から一人の男が飛び出した。
「抜かせッ! 皇帝だか何だか知らねえが、ここから先は蘇我入鹿の私領だ。一歩でも踏み込めば、陸奥の土にしてやるぜ!」
入鹿だった。海から戻ったばかりで体は冷え切り、砂にまみれていたが、その瞳にはかつてない戦意が宿っていた。彼は大江が開発した最新型の「火縄を用いない点火機構(フリントロック式)」を備えた試作火槍を構えた。
ドォォン!
放たれた弾丸が李世民の足元の砂を跳ね上げる。だが、李世民は止まらない。
「……そんな小細工が、百戦錬磨の余に通じると思うか!」
李世民は弾丸の軌道を読み切ったかのように身を逸らし、一気に距離を詰める。理詰めの科学を、人知を超えた武の直感が上回る瞬間だった。
一方、城門の陰で予備の火薬樽を抱えていた私は、背後から迫る冷たい気配に気づいた。
「大江殿、下がられよ。背後の森から、唐に唆された蝦夷の別動隊が迫っております」
鎌足が、影から形を成すように私の前に立った。彼の細い指には、どこで手に入れたのか、黒光りする投擲用の短刀が握られている。
「鎌足殿、すまない……。理屈では勝てると分かっていても、現場は……現場は計算通りにいかないな!」
私は焦っていた。蒸気機関の開発で学んだ「摩擦」や「圧力」の制御。それが今、目の前の泥臭い殺し合いという制御不能なエネルギーとなって私を襲っている。
「計算できないからこそ、面白いのではございませぬか?」
鎌足は薄く笑うと、闇に紛れて迫る蝦夷の戦士たちの中へと、音もなく飛び込んでいった。
砂浜では、ついに入鹿と李世民が刃を交えていた。
キンッ!という甲高い金属音が、夜の多賀に響く。
「……いい太刀筋だ、倭の若造! 蘇我の血には、これほどの熱が流れていたか!」
「うるせえ! お前らの『国』を守るために、俺たちの『今』を壊されてたまるかよ!」
入鹿の振るう太刀が、李世民の肩をかすめる。だが、李世民の剣もまた、入鹿の頬を鋭く裂いた。
科学による要塞戦は、今や二人の男の、そして二つの国家の「意地」を賭けた泥沼の乱闘へと変貌していた。
私は震える手で、最後の一本となった信号弾を空へと向けた。
「……まだだ。まだ、私の『理』は尽きていない。入鹿、伏せろッ!!」
空に上がったのは、ただの光ではない。それは、多賀の地下に張り巡らせた「ある仕掛け」を起動するための合図だった。




