第三十六話:沈黙の海、決死の雷撃
西暦六二四年、八月。月明かりさえない漆黒の夜、多賀沖に鎮座する唐の旗艦『大唐威鳳』は、無数の篝火を焚き、海上の要塞のごとき威容を誇っていた。甲板では重装歩兵たちが不寝番を立ち、隙のない警備が敷かれている中、波間に浮かぶ小さな小舟の上で入鹿は低く呟いた。
「大江、見てろよ。お前が心血注いだあの『蒸気機関』、今回は間に合わなかったけどな……。俺たちがその代わりに、この海を沸かせてやる」
入鹿の周りには、潜水に長けた十数名の精鋭が、黒い漆を塗った潜水着に身を包み、背中に例の「水中火薬樽」を背負っていた。この数日間、多賀の工廠では地獄のような光景が続いていた。蒸気機関のピストンを削り出そうとした旋盤の刃が折れ、職人が「こんな精密な仕事、神様にしかできねえ!」と泣き崩れる。私もまた、現代の潤滑油がない世界で、牛脂と菜種油を調合しては焦げ付かせ、設計図を何度も破り捨てていた。
「今はまだ、この心臓を動かす器がこの時代に足りないんだ……」
私は悔しさに唇を噛みながらも、代替案としてこの触発式水雷を完成させた。樽の周囲に突き出した触覚が船体に当たると、内部の火打石が火花を散らし、黒色火薬に引火する。極めて原始的だが、水圧を利用した破壊力は凄まじい。
「合図だ。……潜れ」
入鹿の指示で、男たちが音もなく海中へと消えた。潮流を計算し、敵艦の真下へと泳ぐ。私が教えた竹筒による呼吸法を使い、彼らは水深数メートルの暗闇を這うように進んでいく。入鹿自身の心臓の鼓動が耳の奥で激しく響く中、頭上には巨大な『大唐威鳳』の船底が見えてきた。李世民が誇る鉄の装甲は、予測通り水面下までは及んでいない。
(ここだ……ここが大国の喉元だ!)
入鹿は自ら樽の信管を固定し、船底の隙間に楔を打ち込んだ。他の兵たちも次々と死の樽を仕掛けていく。その頃、豪華な船室で李世民はふと筆を止めていた。奇妙な静寂に、波の音が不自然に重いと感じたのだ。「房玄齢、外の様子はどうだ」「静かなものにございます、陛下。多賀の砲台も沈黙しております」
「いや、あの『大江』という男が、このまま指をくわえて見ているはずがない。奴は、我らの想像もしない理をぶつけてくる男だ」
李世民が立ち上がり、窓の外の闇を見つめたその瞬間、腹に響くような地底からの咆哮が多賀の海を震わせた。海面が巨大な盛り上がりを見せ、次の瞬間、数百トンの水柱が『大唐威鳳』の横腹を突き上げた。
「な、なんだ!? 地震か!? 水神の怒りか!」
唐の兵士たちが甲板で将棋倒しになる中、李世民は自らの足元から伝わる不穏な浸水の振動を察知していた。入鹿たちが仕掛けた十数個の水雷が一斉に炸裂し、唐の誇る超大型艦の船底に、取り返しのつかない大穴を開けたのだ。
多賀要塞の展望台で、その爆発音を聞いた私は、暗闇に向かって叫んだ。「今だ! 全砲台、照明弾を放て! 混乱する敵艦隊を、一隻残らず炙り出せ!」
シュアアアアアッ!と夜空を切り裂くマグネシウムの光。そこには、傾き始めた巨大旗艦と、パニックに陥る唐の艦隊が白日の下に晒されていた。未完の蒸気機関は動かなかった。だが、その開発で培った火薬の知識と、入鹿たちの命懸けの実行力が、ついに世界最強の皇帝を海に沈めようとしていた。しかし、炎上する旗艦の甲板で、李世民は依然として不敵な笑みを浮かべていた。
「面白い。これこそが、余が求めていた新しい戦いだ。大江よ、まだ終わらぬぞ」
一撃必殺の水雷戦により、歴史の歯車は凄まじい音を立てて狂い始めていた。




