第三十五話:皇帝の親征、海上の巨獣
――西暦六二四年、盛夏。
多賀要塞の砲火を耐え抜き、水平線の彼方から現れたのは、唐の皇帝・李世民が自ら座乗する巨大旗艦『大唐威鳳』であった。その船体は、大江の手法を模倣した鉄板で補強され、これまでの青銅砲では決定打を与えられない「海上の城」と化していた。
「……さすがは李世民だ。こちらの技術を即座に解析し、圧倒的な物量で塗りつぶしに来たか」
私は多賀の地下、黒煙と熱気に満ちた「秘密工廠」で、巨大な鉄の塊を前に立ち尽くしていた。
そこにあるのは、私が現代の記憶を頼りに、陸奥の精鋭鍛冶職人たちと一年がかりで挑んでいる**「蒸気機関」の試作一号機**である。
「大江! また圧力が逃げちまった! 継ぎ目の『蜜蝋』と『革』じゃ、この蒸気の力には耐えられねえ!」
煤で顔を真っ黒にした入鹿が、熱せられた配管を避けながら叫ぶ。
そう、理論は分かっていても、実化は困難を極めていた。当時の鋳造技術ではシリンダーに微細な隙間ができ、蒸気が漏れて出力が上がらない。さらに、高圧に耐えきれず配管が破裂し、職人が負傷する事故も相次いでいた。
「ピストンをもう一度磨き直せ! 誤差は髪の毛一本分も許されないんだ。……くそ、旋盤の精度が足りないのか……」
私は図面を握りしめた。蒸気機関という「未来の心臓」をこの時代に産み落とすには、まだ数年の歳月と、さらなる基礎技術の底上げが必要だった。
「大江殿。感傷に浸っている時間はございませぬぞ。皇帝の巨艦は刻一刻と迫っております」
鎌足が工廠に現れ、冷徹に現実を突きつけた。
蒸気船で敵艦に肉薄する計画は、現時点では「未完成の夢」に過ぎない。今あるもので、あの鉄装甲艦を沈めなければならないのだ。
「……分かっている、鎌足殿。蒸気機関が動かないなら、別の『理』で戦うまでだ」
私は蒸気機関から目を離し、工廠の隅に置かれた、一見するとただの「木樽」の群れを指差した。
「入鹿、工期の遅れている蒸気機関のことは一度忘れろ。近衛軍の精鋭を、泳ぎの達者な海女や漁師たちから選抜しろ。……この**『水中火薬樽(水雷)』**を、夜陰に乗じて敵艦の腹の下へ運ぶんだ」
「樽を……運ぶ? 砲で撃つんじゃないのか?」
「『大唐威鳳』の横腹は鉄で守られているが、水面下の底までは覆いきれていないはずだ。水の力は、逃げ場のない衝撃を増幅させる。……底に穴を開ければ、どんな巨艦も海の藻屑だ」
入鹿は私の意図を察し、鋭い瞳を取り戻した。
「……なるほどな。機械がダメなら、人間の意地と火薬の合わせ技か。気に入ったぜ」
それからの数日間、私たちは不眠不休で「水雷」の調整に明け暮れた。
波に揺られても浸水しない防水加工、敵艦の揺れで確実に発火する信管の仕組み……。失敗しては火薬を詰め直し、実験のたびに多賀の入り江に水柱が上がった。
入鹿は自ら冷たい海に飛び込み、樽を効率よく曳航するための「潜水術」を兵たちに叩き込んだ。
「いいか! 派手な音を立てるな。海の底を這う魚になれ。大江が創ったこの『樽』が、俺たちの新しい刀だ!」
西暦六二四年、熱帯夜。
未完の蒸気機関が工廠で静かに冷えていく傍らで、原始的ながらも致命的な「水中特攻部隊」が、李世民の巨艦を沈めるべく暗い海へと滑り出した。
大江、入鹿、鎌足。
知恵を絞り、泥を啜り、失敗を積み重ねた彼らの「泥臭い科学」が、皇帝の威信を揺るがそうとしていた。




