第二十九話:巨星落つ、斑鳩の遺言
――西暦六二二年(推古三十年)二月。
陸奥から黄金と鉄の報せが届き、飛鳥が歓喜に沸いたのも束の間、斑鳩宮を凍てつくような静寂が包んだ。
厩戸皇子(聖徳太子)が倒れた。
史実という名の「運命の修正力」が、私の介入をあざ笑うかのように、この国の精神的支柱を奪い去ろうとしていた。
「皇子! ……しっかりしてください、まだ、あなたに見せたい未来が……!」
駆けつけた私の前で、皇子は力なく微笑んだ。かつて未来を予言するかのように鋭かった瞳は、今はただ穏やかに、沈みゆく夕日を見つめている。
「……大江よ。泣くな。……私は、お前がこの国にもたらした『光』を見た。文字が、数字が、そしてあの円球を追う民の笑顔が……私の夢見た『十七条の憲法』を、お前は理で実現してくれた」
枕元には、中臣鎌足もいた。彼は悔しげに拳を握り、唇を噛み締めている。彼にとっても、皇子は自らの理想を託した唯一無二の主君だったのだ。
「鎌足よ。そして、大江。……私がいなくなった後、この国は二つに割れる。……唐という外敵、そして『蘇我』という巨大すぎる力。……お前たち二人が争えば、日出づる国は日の沈む国となろう」
皇子は震える手で、私と鎌足の手を重ねさせた。
「……和を以て、貴しとなせ。……これは命令ではない。……私の、最後の……願いだ……」
その言葉を最後に、皇子の手から力が抜けた。
飛鳥の天才、厩戸皇子。享年四十九。
その崩御の報せは、瞬く間に全国へ広がり、民衆は道端で慟哭した。
葬儀の後、斑鳩宮の回廊で、私と鎌足は二人きりになった。
先ほど皇子に重ねられた手の温もりは、すでに消えている。
「大江殿。……皇子の遺言は、呪いのようなものだ。私は、あなたの創る『蘇我中心の世』を認めぬ。だが、唐が迫る今、この国を内乱で滅ぼすわけにもいかぬ」
鎌足の瞳には、悲しみを超えた冷徹な決意が宿っていた。
「……しばらくは、協力しよう。陸奥の金と鉄を使い、唐を迎え撃つための『律令国家』の雛形を完成させる。……だが、唐を退けたその時、私はあなたと、そして入鹿殿を……『歴史の闇』へ葬る」
「……それでいい、鎌足殿。あなたが私を監視し続けてくれることが、蘇我が暴走しないための唯一の楔だ」
数日後、陸奥から入鹿が帰還した。
彼は皇子の死を知り、一晩中、道場で木刀を振り回して泣いたという。
「大江。皇子様がいなくなって、これからどうなるんだ。……蘇我を恨む連中が、一気に動き出すぞ」
十九歳になった入鹿の懸念は正しかった。
馬子(祖父)や蝦夷(伯父)ら蘇我の本家は、皇子の死を「好機」と捉え、さらに権力を集中させようと動き始めていた。
「入鹿。私たちは、皇子様が望んだ『和』を、別の形で守るんだ。……金と鉄、そして新しい法。これらを蘇我一族の私有物にするのではなく、朝廷の『公財』として登録する」
「なっ!? そんなことしたら、親父たちが黙ってないぞ!」
「だから、陸奥に『新しい都』を築く準備を始める。……飛鳥は、しがらみが多すぎる。唐の攻撃を分散させるためにも、東方に第ニの拠点を創るんだ」
私は、現代の「遷都リスク分散」の概念を持ち出した。
西暦六二二年、夏。
聖徳太子の死により、飛鳥のパワーバランスは崩壊した。
野望に燃える蘇我の本家、虎視眈々と逆転を狙う鎌足、そして――海を越えて届く、唐の巨大な軍靴の音。
私は入鹿と共に、陸奥の黄金を元手に、史上空前の**「北方要塞都市・多賀」**の建設に着手する。
そこが、来たるべき「世界大戦」の最前線になることを、私は確信していた。




