第二十三話:飛鳥炎上、亡国の狂気
――西暦六一四年、晩秋。
飛鳥紙幣の流通により、市場はかつてない活況を呈していた。しかし、その輝きの裏側で、隋の使節団が宿泊する迎賓館は、死臭に似た絶望と狂気に包まれていた。
「……沈叔安。このままでは、私は皇帝陛下に合わせる顔がない。小国の紙切れに、我が帝国の威信が敗れたなどと報告できるか!」
隋の正使が、震える手で粗悪な五銖銭を床にぶちまけた。沈叔安は、その背後で影のように立ち、冷酷な光を瞳に宿していた。
「正使殿、案ずることはありません。……価値とは、形あるものに宿るもの。ならば、その『形』を消してしまえばよいのです。あの神童が築いた水車も、学院も、紙幣を保証する倉庫も……すべてを灰にすれば、民は再び我らの『力』に平伏しましょう」
沈叔安が取り出したのは、隋の軍部が秘密裏に開発した「猛火油」――原始的な火炎瓶の材料となる、粘り気のある揮発油だった。
その夜、大江は胸騒ぎを覚えていた。
学院の屋上で夜風に当たっていた私の目に、難波から飛鳥へと続く街道を、音もなく進む「黒い影」が映った。
「……馬の蹄に布を巻いている? 隠密行動か。……入鹿! 入鹿、起きろ!」
隣の部屋で爆睡していた入鹿を叩き起こす。十三歳になり、並の兵士を凌ぐ体躯となった彼は、瞬時に状況を察し、枕元の太刀を掴んだ。
「大江、何だ? 鎌足の差し金か?」
「いや、もっと質が悪い。……追い詰められたネズミが、家ごと燃やそうとしている。入鹿、近衛軍をすぐに水車小屋と大江紙の倉庫へ向かわせろ! 敵の狙いは『経済の心臓部』だ!」
大江の予測は的中した。
闇夜を裂いて、火のついた壺が次々と飛鳥の街へ投げ込まれた。ただの火ではない。猛火油によって強化された炎は、水では容易に消えず、またたく間に木造の建物を飲み込んでいく。
「ははは! 燃えろ、偽りの繁栄よ!」
暗闇の中から、隋の工作員たちが火を放ちながら現れる。その中には、沈叔安と、彼に協力する一部の不満分子(保守派豪族の私兵)の姿もあった。
「やらせるかよッ!」
入鹿が叫び、先頭に立って飛び出した。
大江が授けた「火槍」を構える暇もない。入鹿は馬を飛ばし、炎の中を突き進む。
「大江! 水車の方は任せたぞ! 俺は倉庫を守る!」
「ああ! 全員聞け、ただの水をかけるな! 土を盛れ! 油の火は土で封じ込めるんだ!」
私は現代の消防知識を総動員して、パニックに陥る民衆と兵たちに指示を飛ばした。
だが、火の手はあまりに早い。沈叔安の狙いは、単なる破壊ではなく、大江への「絶望」を植え付けることだった。
火に包まれる学院の門前。そこで立ち尽くす沈叔安と、大江が対峙した。
「大江殿。あなたの創った理は、この火一筋で消え失せる。……形あるものは儚い。民は明日から、焼け野原で立ち尽くし、あなたを恨むでしょう」
「……沈叔安。君は、文明の本質を何も分かっていない」
私は、燃え上がる学院を背に、静かに笑った。
「建物が燃えれば、また建て直せばいい。紙幣が燃えても、発行記録は別の石室(金庫)に保管してある。……私の理は、ここにあるんじゃない。学んだ民の『頭の中』に刻まれているんだよ!」
「……何?」
「この火が消えた時、君が見るのは絶望じゃない。……共通の敵(隋)を見つけ、これまで以上に固く結ばれた『倭国』という名の鋼だ」
その時、入鹿が率いる近衛軍が、隋の工作員たちを完全に制圧したという勝鬨が上がった。
さらに、驚くべきことに、消火活動の先頭に立っていたのは、他ならぬ中臣鎌足と車持の娘・与志古だった。
「……大江殿。勘違いしないでいただきたい。私は、あなたの創る国を壊したいのではない。……この飛鳥を、大陸の汚れで汚されたくないだけだ」
鎌足が、泥にまみれた手で私に頷く。
内戦の火種となるはずだった「炎」は、皮肉にも大江と鎌足が「外敵」に対して一時的な共闘をするという、歴史にない奇跡を生み出した。
西暦六一四年、冬。
飛鳥の一部は焼失したが、その結束はかつてないほど強まった。
敗走した隋の使節団。そして、沈叔安。
彼らが去った後、飛鳥の空には、新しい国を創るための「覚悟」の灰が舞っていた。
だが、大江は知っていた。
隋が滅び、次に来る『唐』という帝国は、この程度の小細工では動かない、真の怪獣であることを。




