第二十二話:飛鳥紙幣、価値の革命
――西暦六一四年。
隋の官僚・沈叔安が持ち込んだ「律令による中央集権化」の提案は、飛鳥の豪族たちの心に強く、そして毒のように深く浸透していた。
「蘇我の専横を阻み、法の下で豪族の権利を守る」という鎌足の甘い言葉。だが、それは同時に、全ての土地を国に帰す「公地公民」への一歩であることを、豪族たちはまだ理解していなかった。
「……大江よ。沈叔安が唱える『律令』、案外悪くないという声が朝廷内でも上がっておるぞ」
蘇我馬子が、執務室の奥で低く唸った。さすがの老獪な当主も、今回の「法による包囲網」には危機感を抱いているようだ。
「おじい様。土地で人を縛る時代は、もう終わります。……土地は分ければ減りますが、富は回せば増えるのです。私は、この『紙』で戦います」
私は、最高級の繊維を織り込み、偽造防止用の特殊な透かし(これも現代知識の応用だ)を入れた小さな大江紙を机に置いた。
中央には力強い墨書で『壱貫』の文字。
「……ただの紙ではないか。これで何ができる」
「これ一枚で、蘇我の倉庫にある米一石、あるいは最高級の絹といつでも交換できることを、私が保証します。……いえ、『蘇我』ではなく『飛鳥政府』の信用として発行するのです」
数日後。飛鳥の市場は未曾有の混乱と驚きに包まれた。
私は、隋の使節団と豪族たちが集まる前で、一つの実験を行った。
学院の生徒たちが引く大八車に、山のような「飛鳥紙幣」を積み上げ、それを希望する民に配らせたのだ。
「いいか、これは『信用』の証だ。この紙一枚を持っていれば、重い米や布を運ばずとも、飛鳥のどこの店でも買い物ができる。そして、店主はその紙を蘇我の役所に持っていけば、いつでも金銀や物資に変えられる!」
「馬鹿な……! 紙切れに価値などつくはずがない!」
沈叔安が、観衆の中から冷笑を飛ばした。「民は愚かではない。手触りのない価値など信じはせぬ!」
だが、沈叔安の予想は外れた。
私が事前に、蘇我の直営店や協力的な商人たちに「紙幣による支払いを一割引きにする」というキャンペーンを仕掛けていたからだ。
「おい、これを使うと安くなるのか!?」
「重い米を担いで歩かなくて済むぞ!」
利便性と利益。現代のキャッシュレス決済導入と同じ心理的アプローチだ。一度回り始めた「信用」の流れは、止まらない。
夕暮れ、市場を視察していた鎌足が、足元に落ちていた『壱貫』の紙幣を拾い上げた。
そこには、私の考案した「飛鳥の紋章」が刻まれている。
「……大江殿。あなたは、法ではなく『欲』で民を繋ぐおつもりか」
いつの間にか背後に立っていた私に、鎌足は表情を変えずに問いかけた。
「欲ではありません。これは『自由』ですよ、鎌足殿。法で土地に縛り付けられた民は、いつか主を恨む。だが、この紙を持って自由に商いをする民は、この国の繁栄を自らの喜びとする」
「……この紙が価値を失った時、国は崩壊する。あなたはあまりに危うい橋を架けている」
「それを防ぐのが、あなたの目指す『正しい法』ではありませんか? 鎌足殿、あなたの律令を、この貨幣経済の『暴走を止めるためのルール』として使うなら、私は喜んで協力しましょう」
鎌足が、目を見開いた。
彼が私を「倒すべき敵」と見ているのに対し、私は彼を「システムの管理者」として組み込もうとしている。その視座の差に、彼は初めて微かな戦慄を覚えたようだった。
だが、この経済革命に激怒した者がいた。
隋の正使である。
「貴国は、我が帝国の『五銖銭』という唯一の正貨を無視し、勝手な紙片を流通させると申すか! これは天朝への明白な反逆である!」
隋の使者は、沈叔安の影に隠れていた「本性」を現した。
彼らの真の狙いは、日本の富を隋の通貨制度に取り込み、実質的な経済植民地とすることだったのだ。
「反逆、ですか。……ならば、お見せしましょう。その『五銖銭』が、今の大陸でどれほど価値を失っているかを」
私は、入鹿に合図を送った。
入鹿は、隠し持っていた別の箱を開けた。そこには、隋の国内で密かに鋳造された、混ぜ物だらけの「粗悪な五銖銭」がぎっしりと詰まっていた。
「隋の陛下が乱発した偽金です。大陸の商人は皆、これを嫌って物物交換に戻っている。……そんなゴミを、我らが美しい飛鳥に持ち込ませるわけにはいかない」
入鹿が、沈叔安を指差して笑った。
「沈先生! あんた、こんなボロ船の貨幣を押し付けるために、わざわざ『法』なんて小難しい話を持ち出したのか?」
沈叔安の顔が、怒りと屈辱で朱に染まる。
外交戦は、大江による「通貨主権の確立」という斜め上の結末へと向かい始めた。
西暦六一四年。
飛鳥は、大陸の呪縛を振り払い、独自の「経済圏」を歩み出す。
だが、追い詰められた隋の使節団と、彼らを利用せんとする国内の不満分子は、ついに「物理的な暴挙」を画策し始めていた。




