第二十話:神格化の罠、蘇我の静かなる影
――西暦六一三年(推古二十一年)春。
天然痘の猛威が去り、飛鳥に再び柔らかな日差しが戻ってきた。
だが、その光景は以前とは決定的に異なっていた。大江が通りを歩けば、民衆は道を開け、神仏を拝むかのように地に額を擦りつける。種痘の跡――腕に残る小さな傷は「蘇我の加護」と呼ばれ、一種の聖痕のように扱われ始めていた。
「大江……。正直、この空気は居心地が悪いな」
入鹿が、肩に掛かった重い鎧を揺らしながら苦笑いする。
彼はあの一夜、一人で暴徒を防ぎきったことで「飛鳥の守護鬼」として英雄視されていた。しかし、その瞳には手放しの喜びはなく、親友である大江と同じ危惧が宿っていた。
「ああ。民の感謝は、容易に『依存』へと変わる。そして、依存はいつか『期待を裏切られた時の憎悪』に転じるんだ」
私は、飛鳥学院の屋上で、急速に巨大化していく飛鳥の街を見下ろしていた。
私の現代知識は、この国の寿命を延ばしたが、同時に蘇我氏を「王家を超える権威」へと押し上げてしまった。これは、乙巳の変へのカウントダウンを加速させる行為に他ならない。
その頃、斑鳩宮の奥深く。
中臣鎌足は、厩戸皇子(聖徳太子)の前に静かに座っていた。
「……皇子。お認めなされ。今や飛鳥の民が仰ぎ見るのは、日の御子たるあなた様ではなく、蘇我の神童にございます」
鎌足の声は、毒のように静かで滑らかだった。
彼はあえて大江を直接攻撃せず、皇子の「主権者としての焦り」を突く戦術に切り替えていた。
「大江殿の功績は、あまりに大きすぎた。疫病を鎮め、空の太陽を操り、火を噴く槍で外敵を退ける。……もはや、彼は人ではありませぬ。神にございます。そして、一つの国に神が二人いれば、必ず天が割れます」
皇子は、手にした筆を止めた。その瞳には、かつての大江への純粋な信頼だけではない、冷徹な政治家としての計算が混じり始めていた。
「……鎌足よ。お前は、大江がその知恵を私に牙を剥くために使うと言うのか?」
「いいえ。大江殿にその気はなくとも、周囲が彼を担ぎ上げます。蘇我馬子殿が、そして何より、あの猛将・入鹿殿が。……彼らが望まなくとも、歴史は蘇我を『王』にしようとするでしょう」
鎌足はそう言い残し、深く一礼して立ち去った。
彼が去った後の畳には、一枚の大江紙が残されていた。そこには、鎌足が隋で学んだ「独裁を防ぐための官僚制度」――つまり、蘇我氏の世襲権力を削ぎ落とすための新たな律令の構想が記されていた。
数日後。私は学院の特別講義に、与志古(車持の娘)を呼び出した。
「与志古殿。君の主、鎌足殿は今、何を企んでいる?」
直球の問いに、与志古はわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの霧のような表情に戻った。
「鎌足様は……『この国にふさわしい秩序』を求めておられます。それは、大江様が創る『理の世』ではなく、古き血筋と新たな法が混ざり合う『平穏な世』にございます」
「平穏、か。それは蘇我氏の排除を含めた平穏だろう?」
私が踏み込むと、与志古は悲しげに俯いた。
「……大江様。私は、あなたの創る未来が大好きです。水車が回り、民が文字を学ぶ。それはとても美しい。ですが……」
彼女は、私の腕にある種痘の跡を見つめた。
「……その美しさが、他の方々には『眩しすぎる』のです」
その夜、私は入鹿と二人で酒を酌み交わした。
話題は、近日行われる「隋からの新たな使節」の迎え入れについてだった。
「大江。隋はもうボロボロだという噂だ。今回来る使者は、もしかしたら『亡命』の打診かもしれないぞ」
「ああ、その可能性は高い。だが入鹿、それが罠である可能性も考えておけ」
私は、入鹿の顔をじっと見つめた。
史実の入鹿は、高慢で残忍な権力者として描かれる。だが、目の前の彼は、友を信じ、民を想い、泥にまみれて戦う少年だ。
「入鹿。何があっても、お前は私の『盾』であれ。そして私はお前の『眼』になる。……鎌足が何を仕掛けてこようと、私たちが一枚岩である限り、この国は壊れない」
「……当たり前だろ、大江。俺たちの絆は、日食よりも疫病よりも強いんだ」
入鹿は力強く笑い、杯を干した。
しかし、運命の歯車は無慈悲に回転を速める。
西暦六一三年、夏。
隋の崩壊を告げる使節団と共に、飛鳥に上陸したのは――
かつて筑紫で私を暗殺しようとした刺客たちの生き残り、そして、鎌足が大陸で密かに組織した**「影の官僚集団」**だった。
大江の「科学」に対し、鎌足はついに「組織的謀略」による最終決戦の火蓋を切ろうとしていた。




