第十九話:生死の境界、親友の誓い(疫病編・後編)
――西暦六一二年、冬。
飛鳥は静まり返っていた。通りの各所に設けられた封鎖線では、蘇我の近衛軍が鋭い眼光で監視を続け、煮沸消毒の煙が白く街を包んでいる。
大江の指示した「隔離」と「衛生管理」は、確実に感染の爆発を抑え込んでいた。しかし、その代償として、大江自身が「牛痘」を用いた人体実験の熱に浮かされ、生死の境を彷徨っていた。
「……大江、しっかりしろ。お前がいなくなったら、誰がこの国を導くんだ」
蘇我の屋敷の一室。入鹿は、高熱でうなされる大江の手を握りしめていた。
部屋の外では、鎌足に扇動された豪族たちが「病人を家族から引き離す非道な蘇我を討て」と騒ぎ立て、門を叩く音が響いている。
「……い、るか……」
大江が、ひび割れた唇をかすかに動かした。
「ああ、ここにいる。安心しろ、一歩も通させない。お前の指示通り、隔離所には毎日『大江紙』で包んだ食料を届けさせている。民も、少しずつだが分かってきているんだ」
大江は意識を失いかけながらも、現代の記憶を反芻していた。
(エドワード・ジェンナー……。彼は、自分の息子にさえこの種痘を施した。……私も、ここで倒れるわけにはいかない。歴史の修正力に、屈してたまるか……!)
その夜、ついに「嵐」が来た。
隔離を不服とする一部の豪族と、病への恐怖で理性を失った暴徒たちが、松明を手に蘇我の屋敷へと押し寄せたのだ。
「大江を出せ! 神の祟りを招いた元凶を、神前に差し出せ!」
先頭に立つのは、鎌足の息がかかった中堅豪族たち。その背後の闇から、鎌足自身が冷徹な目で見守っていた。
屋敷の門前に、入鹿がただ一人で立った。その手には、大江が授けた「火槍」ではなく、一振りの太刀が握られていた。
「引け! ここから先は、病との戦いの最前線だ。立ち入る者は、何人であれ私が斬る!」
入鹿の咆哮が夜空に轟く。十二歳の少年とは思えぬ、凄まじい威圧感。
「笑わせるな、入鹿! 貴様ら蘇我がやっているのは、ただの監禁だ! 大江が死にかけているのは神罰が下った証拠。そこを通せ!」
暴徒の一人が槍を突き出した。
入鹿の体が閃光のように動いた。槍の穂先を紙一重でかわすと、峰打ちで男の腕を砕き、そのまま集団の中へと飛び込んだ。
「大江は、自分の命を懸けて、お前たちの命を救おうとしているんだ! 奴が熱に浮かされているのは、病を封じ込める『術』を自らの体で試しているからだ! その真心が分からないのかッ!」
剣筋が空を切り、松明の火を次々と消していく。
入鹿は一人で数十人を相手に立ち回り、決して門を割らせなかった。その姿は、のちに「守護鬼」と恐れられる入鹿の、あまりに哀しく、美しい覚醒の瞬間だった。
翌朝。
朝日が飛鳥の街を照らした時、奇跡が起きた。
激しい熱に浮かされていた大江が、目を開けたのだ。
その腕にあった不気味な爛れは乾燥し、新たな皮膚が再生し始めていた。
「……成功だ。……種痘は、機能した」
ふらつく足取りで縁側に出た大江の目に飛び込んできたのは、屋敷の門前で返り血を浴びたまま、剣を杖代わりにして眠りについていた入鹿の姿だった。
「……入鹿。ありがとう、守ってくれたんだな」
大江の声に、入鹿が飛び起きた。
大江の顔を見るなり、入鹿の瞳に涙が溢れ出した。
「大江……! お前、熱が……引いたのか?」
「ああ。これで証明された。……牛の力を借りれば、この病はもう怖くない。入鹿、すぐに近衛軍と学院の生徒を集めてくれ。飛鳥中の若者に、この『守りの印』を刻むんだ」
西暦六一二年、冬の終わり。
大江が提唱した「種痘」により、飛鳥の街から天然痘の猛威は急速に去っていった。
死を待つばかりだった隔離所の患者たちも、大江が考案した「徹底的な水分補給と栄養摂取」により、驚異的な生存率を記録した。
門の外で様子を伺っていた鎌足は、朝日を浴びて立つ二人の少年の姿を見て、静かに竹簡を閉じた。
「……病(理不尽)すらも味方につけるか、蘇我大江。だが、命を救ったことで、あなたはさらに大きな『神格』を得てしまった。……それは、いずれこの国の秩序を壊す、もっとも危険な火種となるだろう」
鎌足は、再び闇へと消えた。
疫病という最大の試練を乗り越え、大江と入鹿の絆は、もはや何者も引き裂けぬほど強固なものとなっていた。
しかし、命を救われた民衆の感謝は、次第に「蘇我への絶対服従」という、大江が最も危惧していた形へと変容し始めていた。




